香澄さん
市役所三階の突き当たり。使われていない物置部屋の前で、俺は立ち止まった。
「いいか、ミア」
「なあに」
「香澄さんが何を言っても、相手にするな」
「かすみさん?」
「今日、機材を用意してくれる人だ。いいか、何を言われても真に受けるな。何も気にするな。返事もしなくていい」
「……ひなた」
ミアが俺を見上げてきた。耳が、疑わしそうに片方だけ倒れている。
「どうしたの」
「う、うまく説明できないんだ」
「へんなの」
説明できるものなら説明したい。
香澄さんは、俺より三つ上の先輩職員だ。入庁したときからずっと世話になっている。仕事ができる人だ。
背が高くて、髪が長くて、この人みたいな姉がいたら毎日楽しいだろうな、と本気で思っていた時期がある。
思っていた。過去形だ。
ドアが開いた。
「あら、日向くん。久しぶり」
背筋が伸びた。反射だった。
「お、お久しぶりです。香澄さん」
「本当よ」
香澄さんが腕を組んだ。
「課が違うからって疎遠になるなんて。お姉さん、いじけちゃうからね」
「す、すみません。最近、急に忙しくなっちゃって」
「知ってるわよ。アイドルでしょ」
頬を膨らませてみせる。二十五歳がやると、なぜかそれが決まる。
「今日はよろしくお願いします。こっちにいるのが、ミアです」
「ミアと言います! よろしくお願いします!」
ミアが腰から折るように頭を下げた。角度が綺麗だった。誰に教わったんだろう。
「あら、礼儀正しい子ね」
香澄さんがふふふと笑って、ドアを大きく開けた。
「用意した機材はこっちよ」
部屋に入って、ミアが固まった。
六畳ほどの物置部屋は、片付いていた。段ボールは全部搬出されている。床にタイルカーペットが敷かれ、壁の三面に吸音材が貼ってあった。
窓際に長机。その上にパソコンとモニターが二台。
左手の壁際に、鍵盤が置いてあった。
ミアが、そこへ歩いていった。
鍵盤の前で足を止めて、しばらく動かなかった。
指を伸ばして、鍵の上に触れる。押さない。触れただけだった。
「……これ」
「ああ、それ?」
香澄さんが言った。
「八十八鍵じゃないと駄目だって聞いたから。あと、鍵盤の軽いのは嫌いだって」
ミアの肩が震えた。
「わああああ!」
声が部屋に響いた。
ミアが鍵盤の前に座って、両手を置いた。それから顔を上げて香澄さんを見て、また鍵盤を見た。耳がこれ以上ないほど立っていた。
「これ、わたしが使ってたのと同じ!」
「あら、よかったわ」
「なんで!? どうして分かったの!?」
「日向くんに聞いたのよ。前に使ってた機材の型番」
俺は聞かれた覚えがない。
いや、待て。一週間前、廊下ですれ違ったときに世間話をした。あのとき俺は何を喋った。契約の話は伏せたはずだ。ただ、機材を全部持って行かれたという話は――した。
型番までは、言っていない。
「香澄さん」
「なあに」
「型番、どこで」
「グロリアスのスタジオの写真、ネットに上がってるでしょう。あの背景に写り込んでるのを拡大したの」
この人は、こういう人だった。
欲しいものを言えば、なんでも手に入れてくる。市役所内でいちばん顔が広い。県庁にも商工会にも、なぜか隣県の楽器メーカーにも知り合いがいる。
「あとね、そっちの棚」
「え」
ミアが棚を開けた。
中にヘッドホンが入っていた。ケーブルが丁寧に巻かれている。
ミアがそれを持ち上げて、両手で抱えた。
「……これ」
「中古よ。新品は無理だったから」
「ううん」
ミアが首を振った。
「これがいいの。これが、いちばん耳が疲れないから」
ミアはヘッドホンを胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。
「ありがとうございます」
小さい声だった。
「どういたしまして」
香澄さんは、それ以上何も言わなかった。
――俺の考えすぎだったのかもしれない。
会わなくなって二ヶ月ほど経つ。人は変わる。この人だって、この二ヶ月で落ち着いたのかもしれない。
うん。
香澄さんのことを、信じよう。
「で」
香澄さんが言った。
「ミアちゃんは、日向くんのことが好きなのかしら」
前言を撤回する。
「うええ!?」
ミアがヘッドホンを取り落としかけた。
「え、えっと。ちゅーはしたけど」
「なんですって!?」
香澄さんの目が開いた。ミアの両肩を掴んだ。
「ハア、ハア、その話を詳しく聞かせてちょうだい!」
「香澄さん、落ち着いてください」
「落ち着いてるわよ」
「息が荒いです」
「呼吸よ」
この人は、ゴシップが死ぬほど好きだ。
市役所には「香澄ノート」という都市伝説がある。誰が誰と付き合っているか、誰が誰を狙っているか、それが全部記録されているという噂のノートだ。実在するかどうかは知らない。
ただ、そのワードを出せば役所の人間は進んで土下座をする。去年、財政課の係長が飲み会で口を滑らせた。翌週から三ヶ月間、菓子折りを持ってきていた。
恋愛の話になると、この人は手がつけられない。
「んな、なるほどお」
香澄さんがミアの話を聞き終えて、うっとりした顔をした。
「頬に、ちゅー。無自覚で。しかも人前で」
「うん!」
「たまらないわ」
「でも」
ミアが顔を上げた。
「わたし、ひなたといると楽しいよ!」
混じり気のない笑顔だった。耳もまっすぐ立っている。
「うう、浄化されるわ……」
香澄さんが胸を押さえた。
――もしかして。
そうだ、ミア。
お前の純粋さがあれば、この人は怖くないのかもしれない。悪意のない笑顔の前では、さすがのこの人も。
そう思った一秒後だった。
「じゃあ、私も日向くんにキス、しようかしら」
「え?」
嘘だろ。
香澄さんがこちらを向いた。
襟元を指で少しだけ緩める。首筋が見えた。目が熱を持っていた。
「香澄さん」
「なあに」
「近いです」
「近づいてるもの」
一歩下がった。香澄さんが一歩進んだ。
二歩下がった。二歩進まれた。
背中が壁に当たった。
この人には抵抗できない。年齢と、立場と、あと単純に押しが強い。
顔が近づいてくる。
目を閉じるべきか、逸らすべきか、それとも謝るべきか。三つとも間違っている気がする。
――そこで、視界が白で塞がった。
気がつくと、ミアが俺と香澄さんの間に割って入っていた。
両手を広げて、俺をかばう位置に立っていた。
「っ、あ、あれ?」
いちばん驚いているのは、ミア本人だった。
自分の両手を見て、それから振り返って俺を見た。また香澄さんを見た。
耳が、慌てふためくように左右別々に動いていた。
「わたし、なんで? あれ?」
顔が真っ赤になっていく。
ミアは両手で自分の頬を包んで、その場でうろうろした。
「こ、これは」
香澄さんが口元を押さえた。
「ふう、ふう、た、たまらないやつね……無自覚なのかしら。ああ、もっといじめたくなっちゃう……」
「香澄さんありがとうございましたまた来ます!!!!」
俺はミアの手を掴んで、部屋を飛び出した。
「ひ、ひなた、と、止まって!」
市役所の正面玄関を抜けて、駐車場を横切って、道路に出たところでミアが言った。
二人とも息が上がっていた。
俺は膝に手をついた。ミアも同じ格好で、白い髪が肩から落ちていた。
「香澄さん、すごい人だったね」
「ああ」
息を整えながら答える。
「あの人の言うことは、あんまり真に受けなくていいからな」
「うん。わかった」
ミアが体を起こした。
それから、しばらく黙っていた。
俺も黙っていた。夕方の風が、坂の下から吹き上がってくる。
「でも」
ミアが言った。
「香澄さんが、ひなたの近くにいるの」
耳が、少しだけ倒れた。
「ちょっと」
言葉を探している顔だった。
「嫌だったな」
最後の一言だけ、声が小さくなった。
ミアは自分の言ったことに自分で驚いたらしい。俺の顔を見て、それからぱっと目を逸らした。
――うわ。
俺は自分の顔が熱くなるのが分かった。
まずい。この子のこういう顔は、まずい。無自覚なのが余計にまずい。
「きょ、曲!」
俺は大声を出した。
「曲作り、頼んだぞ!」
「う、うん! 任せてよ!」
ミアも大声で返してきた。
二人とも、まともに目を合わせないまま解散した。
※
家に帰る道で、俺はスマホを出した。
曲の目処は立った。あとは歌詞とダンスだ。
二人に相談しないといけない。それに、と俺は思った。
実際に会場を見ておくのもいいかもしれない。今年のサマーフェスの会場は、たしか海沿いの野外ステージだったはずだ。
夏。海。ステージ。
よし。
メンバーを連れて、海に行こう。
俺はグループのトーク画面を開いて、メッセージを打った。
――今週末、みんなで海に行かないか。フェスの会場の下見も兼ねて
送信した。
三秒後に、通知が三つ並んだ。
結。
――行きます
ミア。
――行く!
環。
――行く
全員、秒で返ってきた。
環に至っては、昨日まで俺を浮気野郎と呼んでいた人間の返信速度ではなかった。




