日向と環、ミアを救う
俺は椅子ごと体をずらして、隣に向き直った。
「環」
「なに」
「お前の人生をくれ」
環の動きが、完全に止まった。
「……は?」
「頼む」
「え」
マスクの上から見えている耳が、みるみる赤くなっていく。
「え、と、ええ? いや、あの、別に、日向にだったら、その、いいけど、じゃなくて」
「どういうこと!?」
俺は日向に土下座をした。
「ちょ、待って、やめてよ!」
「頼む」
俺は頭を下げた。
「ミアの違約金。払ってくれ」
環の息を飲む音がした。
「その分は、きっちりお前に返す。何年かかるか分からない。利息もつけられない。給料の額も知ってるだろ」
「……」
「かっこ悪いこと言ってるのは分かってる」
俺は床を見たまま続けた。
「でも」
顔を上げないまま言った。
「ミアを放っておけない。この子のこと、このままにはできない」
沈黙が、しばらく続いた。
やがて頭の上で、長い息の音がした。
「……はあ」
環のため息だった。
「ま、そういうことか」
声が、いつもの調子に戻っていた。
「いいよ。ボクが払ってあげる」
環はマスクを首まで下げたまま、桃生の方を向いた。
「昔稼いだのがあるから。これくらいなら出せる。ま、もうこれでなくなるけどさ」
軽い言い方だった。
その軽さが、逆に俺の胸を締めつけた。
「……なぜ、そこまでするんです」
信じられないものを見る声。
「あなたはミアさんのことを知らなかったはずだ。昨日今日、会ったばかりじゃなかったんですか」
「そうかもね」
環が肩をすくめた。
「だけど、この子の曲とは、もう長い付き合いだからさ」
桃生の眉が動いた。
「あんまり言わなかったけどさ」
環が、少しだけ顔を背けた。
「ボク、グロリアスの曲、好きなんだよ」
桃生が面白くなさそうに息を吐いた。
ナプキンをテーブルに置いて、立ち上がる。
「まあ、いいでしょう」
「行きますよ、凛」
「は、はい!」
凛が慌てて立ち上がった。
出ていく間際、こちらを一度だけ振り返った。
何か言いたそうな顔で俺を睨みつけていた。
※
二人が店を出ていくのを見送ってから、俺は環に向き直った。
「あの、自分で言っておいて何だが、本当にいいのか……?」
「いいよ。その代わりに日向、頭撫でて」
「は?」
「ボク、えらいでしょ? 自分でもこんなに貢ぐ女だったなんてびっくりだけどさ」
「……それでいいのか?」
「ボクにとってはそれでお釣りが来るの。いいから!」
声が大きくなった。
俺は少し笑って、手を伸ばした。
髪に触れる。撫でる。
環が目を閉じた。肩の力が抜けて、猫みたいに目を細める。
「……ん」
テーブルの向かいで、ミアがそれをじっと見ていた。
「あ、あの!」
ミアが立ち上がった。
「本当に、なんて言ったらいいか、わたし」
「ミア」
俺は手を止めずに言った。
「これからよろしく頼む。作曲家がついてくれるのは、心強いよ」
「……っ」
「あとさ」
環が目を閉じたまま口を開いた。
「ボクたちに合う曲、書いてよね」
ミアの顔が、ぐしゃぐしゃになって。
それから、いちばん大きな笑顔になった。
「はい!」
そして、俺に近づいてくる。
止める間もなかった。
ミアが俺の肩に手を置いて、身をかがめて。
「っ!?」
頬に、柔らかいものが触れた。
一瞬だった。
離れたミアが、にこにこしながら言った。
「ありがとう、ひなた」
俺は動けなかった。
その環が、呆気に取られた顔をしている。まだ理解できていないようだった。
俺だって同じだ。今、頬にキスされたのか?
「これからよろしくお願いしますね! ひなた!」
そうやって笑うミアは、出会ってから一番の笑顔だった。




