人を幸せにする曲を
「本当は翠さんにも来てほしかったんですがね」
桃生がナプキンを膝に広げながら言った。
俺とミアと環。向かいに、桃生尊と月宮凛。
「レッスンでして。あの子は休むことを知らないんです」
海の見えるレストランの一室で、桃生はそう言った。
俺は何も答えなかった。
「さて」
桃生がグラスを置く。
「私はミアさんを呼んだのですが。なぜ、あなたたちがいるのでしょう」
「あの」
ミアが口を開いた。
「わたし、グロリアスの作曲、やめたい、です」
「ほう」
桃生は驚かなかった。
「一応、理由を伺っても?」
「あの、本当に、感謝しているんです」
ミアの指が、膝の上で握られていた。
「こんなわたしに、作曲の環境を作ってくれて。機材も、部屋も、全部。だから、感謝はしています。本当に」
「それで?」
「でも、わたしも、やっぱり」
声が震えた。
「友達が、欲しくて」
窓の外で、海が金色になっていた。
「ひ、ひとりはもう、嫌なんです」
「……ちょっと待って」
環がミアのほうを向く。
「一人が嫌って、どういうこと」
「友達が欲しいって、なんでその話が作曲やめるかどうかに繋がるの? 関係ないでしょ」
「ああ、そういうことでしたか」
桃生が納得したように頷いた。
「作曲をやめること自体は、私は構わないんですよ。代わりはいますから」
ミアが顔を上げる。
その顔に、一瞬だけ希望みたいなものが浮かんで。
「でも」
桃生が微笑んだ。
「違約金、お支払いいただけるんですか?」
スーツの内ポケットから、折り畳まれた紙を出す。
テーブルの上で広げて、こちらに向けて滑らせた。
契約書だった。
右下に、ミアの署名がある。丁寧な、まだ子どもの字。
「……何これ」
環の声が低くなった。
「ヤクザでしょ、これ」
簡単にすると、誰とも関わるな。作曲に集中しろ。誰かと関わりを持ったら違約金を払え、とのことだった。
桁がおかしい。
凛が契約書を見ている。顔が青い。それ以上見ていられないという顔で、目を伏せた。
「それは、その」
ミアが言った。
「これから、働いて、お返ししようと」
「無理ですね」
桃生は笑顔のままだった。
「生涯年収を超えています。計算はご自分でどうぞ」
「……」
「それに」
桃生が、契約書をこちらに向けたまま指を置いた。
「この契約書を、日向くんと環さんが見てしまった」
空気が固まった。
「第二条ですね。あなたが二人を呼んだんですよね、ミアさん。これは違反になります」
ミアの肩が、細かく震え始めた。耳が、頭に貼りつくほど後ろへ倒れている。
「あなたのご厚意で、違約金が発生しましたね」
何も言えなかった。
俺は自分の膝の上で拳を握った。
この男は最初から、こうなると分かっていた。呼び出したのもこの店を選んだのも、全部そのためだ。
「あ、そうだ」
桃生が思いついたように言った。
「あなたみたいな若い子、高く買ってくれるところを知っているんですよ」
俺の頭の中が、白くなった。
「いえ、大丈夫です。心配しないでください。きっと三十くらいになれば飽きられて、解放されると思います。もしくは――」
「桃生さん」
俺は遮った。
声が、自分でも驚くほど低かった。
「それ、本気で言ってるんですか」
「ええ」
「犯罪じゃないですか」
「もちろん本気です」
桃生は、心底不思議そうな顔をした。
「日向くん。あなたはまだ、分かっていないようだ」
グラスの水を一口飲む。
「私は猛島市の市長代理ですよ? この県のトップにいるということです」
窓の外で、海の帯が細くなっていた。
「私の言葉は、そのままの意味で通るんです」
俺は、何も言い返せなかった。
脅しじゃない。この男は、事実を述べている。それが分かってしまった。
「も、桃生さん」
凛だった。
膝の上で手を握り、うつむいたまま声を出す。
「さすがに、ミアさんが可哀想では……」
「黙りなさい」
桃生の声から温度が消えた。
「あなたに、話してもいいという許可を出した覚えはありません」
「……すみません」
凛が、頭を下げた。
それきり、動かなくなった。
テーブルの上で、ミアが泣いていた。
声も出さず、肩も震わせない。ただ、膝に置いた手の甲に水滴が落ちていく。
「ミア」
俺は口を開いた。
「あんた、なんでここみっしゅに入りたいんだ」
「ああ、なるほど」
桃生が口を挟んだ。
「そっちに入りたいんですか」
「黙っててください」
桃生を見もしなかった。
「ミア。お前に聞いてる」
ミアが顔を上げる。
目が濡れていた。それでも、こちらを見ていた。
「……公園で、見たんです」
「公園?」
「あの日、わたしの作った曲が聞こえてきたから」
「グローリー・パレード」
ミアが言った。
「わたしの、いちばん好きな曲です。それが朝の公園から聞こえてきて。おかしいなって思って、見に行ったんです」
息を飲んだ。
あの朝だ。
「そうしたら、日向さんがいました」
ミアが、少しだけ笑った。伏せていた耳が、そこで少しだけ起きる。
「すごく、大変そうに踊ってました」
環が、ゆっくりこちらを見た。
「ぜんぜん上手じゃなくて。何回も間違えて。汗だくで」
「悪かったな」
「でも」
ミアの声が、はっきりしてきた。
「みんなが笑ってたんです。おじいさんも、おばあさんも、犬まで。朝の公園で、みんなが笑ってて。すごく、素敵で」
膝の上のぬいぐるみを、両手で抱え直す。
「思い出したんです。わたし、自分の作った曲でみんなを幸せにしたかったんだって」
ミアが、桃生を見た。
初めて、まっすぐ見た。
「桃生さん。感謝は、しています。本当です」
「では」
「でも、あなたと一緒だと」
ミアは言った。
「幸せな曲は、書けません」
俺はこの子を守りたい、と思った。




