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暴行の犯人

<回想>


「おい、暴れるなって」

「いや、やめてください!」

「おい、そっち押さえとけ」

 ――全くの偶然だった。

 あの日、結が弁当を忘れた。あいつが忘れ物をするなんて、年に一度あるかどうかだ。台所に残ったままの包みを見つけて、俺は大学の一限を捨てて自転車を飛ばした。

 高校の裏手、駐輪場の脇。人通りのない側道。

 そこに、車が停まっていた。

 男が三人いた。そのうちの一人が、結の腕を掴んでいた。

 制服のリボンが、地面に落ちていた。

 結は声を出していた。俺が知っている限りで、いちばん大きな声だった。それでも、誰も来なかった。

 弁当の包みが、手から落ちた。

 あとのことは、断片しか覚えていない。

 自分が何を叫んだのか。どうやってあいだに割り込んだのか。両手で相手の胸を突き飛ばしたとき、そいつがどんな顔をしていたのか。

 覚えているのは一つだけだ。

 尻餅をついたその男が、俺を見上げて――笑ったことだった。


  ※


 ミアと別れ、俺たちは心美市役所で打ち合わせをすることになった。

 庁舎の自動ドアをくぐったところで、俺は足を止めた。


 騒がしい。


 土曜の午後の市役所には当直の職員が数人いるだけで、普段は電話の音すらしない。それが、廊下の奥から人の声が聞こえてくる。しかも複数だった。


「なんかあったの?」

「……分からん」


 二階に上がる。観光課のフロアも、いつもと違った。誰も座っていない。

 俺は打ち合わせ用の小部屋に二人を入れて、ホワイトボードの前に立った。


「じゃあ、今後のことなんだけど」


 マーカーのキャップを外す。


「まず、フェスまであと」


 入り口から、声がかかった。


「お久しぶりです。日向くん」


 マーカーが、手から落ちた。

 床に落ちて、そのまま足元まで転がった。

 俺は振り返らなかった。


 振り返る前に、隣の結の顔色が変わったのが視界の端で分かった。

 その声を、忘れたことは一度もない。

 二年前、妹の腕を掴んでいた男の声だった。


 振り返る。

 打ち合わせ用の小部屋の入り口に、桃生尊(ももうみこと)が立っていた。


「……どうも」


 結が、俺の背中に隠れていた。

 恐怖。それがはっきりとわかる顔。

 俺のシャツの裾を掴んでいる指が震えていた。爪が食い込むほど強く握っている。


 二年ぶりだった。

 電話越しでもない。写真でもない。同じ部屋の五メートル先に、この声がある。


 俺は、体をずらした。

 結の視界から、桃生を完全に隠せる位置に立つ。


 桃生の後ろに、女の子が二人いた。

 一人は小柄で、金髪のボブ。前髪が眉の上で切り揃えられていて、顔立ちだけなら中学生に見える。

 もう一人は、背が高い。栗色の髪を後ろで一つに束ねている。

 俺の視線に気づいて、その子が小さく頭を下げた。


「おっと、紹介します」


 桃生が振り返った。


「こちら、グロリアスのセンターの翠(すい)さん。それと、候補生の凛さんです」

「よろしくお願いします」


 二人が同時に頭を下げた。

 俺も下げ返した。


「聞きましたよ。アイドル活動を始めたそうじゃないですか。応援しています」

「どうも」

「それで、誰かと思えば日向くんでしたか」


 桃生が笑った。


「私も心美市に住んでいましたからね。何か力になれることがあったら言ってください」

「……」

「でも、驚きました。環さんと、結さん」


 名前を呼ばれて、結の指が俺の服を掴んだ。


「だって」


 桃生は、心底不思議そうな顔をする。


「未成年で喫煙した人と、私を殴った人じゃないですか」

「違う」


 結の声だった。

 喉に引っかかったような、掠れた声だ。

 それでも出ている。俺の背中の後ろから、確かに。


「そんなこと、してない」


 言い終わって、結の呼吸が乱れる。

 それだけを言うのにどれだけのものを使ったのか、俺には計りようがなかった。


「しましたよ」


 桃生は微笑んだまま言う。


「少なくとも、世間はもうそう信じています」


 部屋の空気が重くなる。


「デビュー、できるんですか」


 桃生が首を傾ける。


「してもいいと思いますが。どうなるか、分かりますよね」


 俺は何も言えない。

 言えることが、一つもなかった。

 議会に上がる。記事になる。二年前の話が掘り返されて、結の名前と環の名前が並ぶ。市が主催した企画で、と書かれる。

 全部、想像できてしまう。


「でも、皆さんなら大丈夫!」


 桃生が明るい声を出した。


「きっと、なんとかなりますよ。それだけお伝えしたかったんです」

「……そう」

「あとこの町に野暮用がありましてね。明日には帰ります。お隣の市同士、頑張りましょうね」


 桃生が背を向けた。

 足音が遠ざかっていく。


 翠が、扉のところで足を止めた。

 こちらを見ていた。正確には、環だけを見ていた。


「環」


 環の肩が、わずかに動いた。


「フェスで待ってる」


 それだけ言って、翠は出ていった。

 環は何も言わなかった。マスクの上の目だけが、扉の方を見ていた。


 最後に凛が続こうとして、足を止めた。

 床に落ちたままのマーカーに気づいたらしい。

 少し迷ってからしゃがんで、それを拾った。

 立ち上がって、ホワイトボードの受け皿にそっと戻す。


「……あの」


 小さい声だった。


「今日は、突然すみませんでした」


 俺は何も言えなかった。

 廊下から声が飛んだ。


「凛、遅いですよ。本当にあなたは使えませんね」

「あ、す、すみません」


 凛は慌てて頭を上げて、走っていった。

 扉が閉まった。

 

 桃生尊。俺の妹に乱暴しようとした主犯。そして今は隣の市にいる。

 フェスできっと会うだろう。その時までに解決しなければならない問題が山積みだった。

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