環は泣き上戸
週明けの夕方、また開店前の時間だが俺は環と結を連れて「バー花束」の階段を上っていた。
今日はカシラとママにお礼を言いに来たのだ。
「いらっしゃい」
扉を開けると、ママの声が飛んできた。
カウンターの中でグラスを磨いている。開店前の店は照明が半分だけで、いつもより広く見えた。
カシラは先に来てビールを飲んでいた。
二人が俺の後ろで固まった。
無理もない。カウンターの向こうに身長百八十超えのママ、その隣に肩幅が扉と同じカシラ。この二人が並んだ空間は、初見にはやや情報量が多いだろう。
「あら」
ママが俺たちを見て、ニコッとする。
「うまく行ったみたいじゃない」
「おかげさまで」
「やっぱり焚き火に限る」
カシラが満足そうに腕を組んだ。
二人が笑って、その空気に押されるように環と結がおずおずと椅子に座った。
緊張からか二人はほとんど喋らなかった。
ただ、ママはこういうときの扱いが上手い。
結の前にジンジャーエールを置く。環の前にはコーラ。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
「あら、いい返事ね」
それきり、ママは二人に何も聞こうとしない。
代わりに、自分の話を始めた。
「見た? うちの看板」
「うん」
「電気、切れてましたね」
「二文字よ。二文字。もう『バ 花 』なんて読めやしないでしょう。よく『ばか』って読まれちゃうのよ」
結が小さく吹き出している。
空気が緩んでいく。
ママはカウンターに肘をついて、笑顔で二人を眺めていた。
「牡丹さん」
結がグラスを置いて口を開く。
「あの、失礼だったらすみません」
「なあに」
「あの、お綺麗です」
ママの動きが止まる。
「……あらやだ」
「本当です。あの、お化粧も何ですけど、所作もとても綺麗で勉強になります」
「初めて言われたわ。ふふ、ありがとうね」
「はい。今度兄の前でやってみようと思います」
環もコーラのグラスを両手で持ったまま口を開く。
「ボクも思った」
「あらやだ、二人して」
「でも、それだけじゃなくて」
環がカウンターの上に視線を落とす。
「ボクたちのこと、大事にしようとしてくれてるの、分かります」
言い方はぼそぼそとしていて、目も合っていない。
だが、ママには十分だったらしい。
ママは口元を押さえて何かを耐えている。それから勢いよく俺に向き直った。
「日向ちゃん」
「はい」
「あんた、この子たちを離すんじゃないわよ」
「離しませんよ。うちのメンバーですし」
「そういう意味じゃないの」
「え」
「はあ。いいのよ。分かってなくて」
ママはそう言って、カシラのグラスにビールを足す。
カシラが「まあ日向はこういうやつだ」と言いながら、なぜかしみじみ頷いていた。
「じゃ、改めて」
全員のグラスが揃ったところで、俺は立ち上がる。
「ここみっしゅ、二人になりました」
二人。たった二人でも、俺にとってはこれ以上なく心強い二人。
「ここまで来られたのは、みなさんのおかげです。ありがとうございます」
「カシラ、牡丹ママ。相談に乗ってくれて、ありがとうございました」
「あら、いいのよ」
「おう。これからも頼れ」
「では、ここみっしゅのこれからに、乾杯!」
グラスが鳴った。
結のジンジャーエールと環のコーラ。俺の炭酸水。それにビールが二つ。
この店のカウンターに未成年が二人並ぶのは、たぶん初めてだと思う。
――そこから、十五分ほど経った頃だった。
俺の左隣で、環が妙に静かになった。
あれ、いつもと様子が違う?
「……環?」
返事がない。
顔を覗き込むと、耳の先まで赤かった。目がとろんとしている。
え、酔ったのか?
瓶を確認する。よくあるコーラだ。アルコールの表記はどこにもない。
「おい、環。まさかお前、コーラで」
「……ひなたぁ」
泣いているし、声が間延びしている。
何だか嫌な予感がする。
「ゆ、結ぃ」
環が、隣の結の腕を掴んだ。
「はい」
「結、ずるいよぉ」
いつもの環と違いすぎて結が固まる。
「え、環さん。ずるいって何がですか?」
「ひっく、だってさぁ」
環がカウンターに突っ伏す。
「ずっと一緒に住んでるじゃん。朝も夜も。ごはんも作ってあげてるじゃん」
「それは、家族だから一緒に暮らしてますし」
「ボクだって、日向のそばにずっといたいのに」
店の中の全員が一斉に俺を見る。
俺はグラスを持ったまま動けない。
「でもさぁ」
環が顔を上げる。目が潤んでいた。
「日向に、素直に言えるわけないよぉ。なんでボク、こんな性格なんだよぉ。うう」
「た、環、落ち着けって。ほら、水飲むか?」
「こんなんじゃ日向に、き、嫌われちゃ……」
顎が震えている。
「ふえええええええん!!」
店内に、想像を絶する音量の泣き声が響き渡る。
「あらあら、まあまあ」
ママが慌ててカウンターを回ってきて、環の背中をさする。
「よしよし。かわいそうに」
「牡丹さぁん、ボク、ボクねぇ」
「分かってるわよ。ええ、分かってる」
「うええええん!」
結が俺を見る。
なぜか睨んでいる。
「兄さん」
「なんだ」
「兄さんのせいです」
「なんでだよ!」
「日向ちゃん」
ママも振り返る。
「あんた、ちょっとこっち来なさい」
「俺、何もしてないですよ」
「そこがいけないのよ」
「そ、そんなの理不尽だ」
「日向」
カシラまでジョッキを置いて、低い声を出す。
「男が泣かせたら、それはもう男の責任だ」
「泣かせてないです。絶対コーラのせいですって!」
「お前……この後に及んでそれか。根性叩き直してやる」
「ふええええん!」
「兄さんのせいです」
「日向ちゃんのせいよ」
「日向、謝れ」
四方から言われた。
俺はこの日、生まれて初めてコーラを恨んだ。




