信じてくれた人
※いじめ表現が出ます。
結が戻ってきたのは日が完全に落ちてからだった。
髪が濡れたままタオルを首にかけて、まっすぐテントの方へ歩いていく。
「おかえり」
「……ただいま」
声が小さい。
俺は湯を沸かしていた手を止めた。結は焚き火の前の椅子に腰を下ろすと、それきり動かなくなった。膝に手を置いて火を見ている。ずっと見ている。まばたきの回数が少ない。
「シャワー混んでたか」
「いえ」
「腹減っただろ。カレーあっためるぞ」
「はい」
何があったんだろう。さっきと比べて明らかに暗い。
環がこちらを見た。目だけで「なにあれ」と聞いてくる。俺が聞きたい。
しばらくして、環が口を開いた。
「ねえ。その髪、乾かさないと風邪ひくけど」
「……そうですね」
「ドライヤーくらいやってきなよ。持ってきてたでしょ」
「……はい」
環の眉が寄った。
いつもならここで「黙っててください」が飛んでくる。元気付けようとしたのか?環の言葉は嫌味となり、行き場を失って宙に浮く。
「……ちょっと」
「なんですか」
「……まあ、なんでもないけど」
俺はカレーを温め直しながら、結の横顔を見ていた。
「結」
「はい」
「向こうで何かあったか」
「何もありません」
俺は湯を沸かし直して、ため息を飲み込んだ。こうなったら聞いても無駄だろう。
時間を置くことにしよう。
「……俺、シャワー行ってくるな」
「はい」
「火から離れるなよ」
俺は懐中電灯を持って管理棟の方へ歩き出した。
<結>
兄さんの足音が遠ざかって、焚き火の音だけが聞こえる。
九条さんは向かいの椅子に座って、枝を一本ずつ火に放り込んでいる。話しかけてはこない。今はそれがありがたかった。
目の奥がまだ熱い。泣いてはいない。泣いてはいないけれど、気持ちが一度向こうへいってしまうと、自分では戻せない。
ーー違うって言えばよかった。
いつもあとから思う。あの話が出てくると私は何もできなくなる。二年前からずっとそうだ。
「あー、いた!」
暗がりから声が飛んできた。
ランタンの光が三つ。さっきの一年生たちだった。
「結先輩、化粧品忘れてますよ。シャワーのとこに置きっぱなし」
差し出されたのは私のポーチだった。
「……ありがとう」
受け取る手が震えていないか、そればかり気にしていた。
「いえいえ。誰のか分かんなかったんですけど、これ結先輩っぽいなーって思って」
私の気にしすぎだった。
この子たちは親切な子たちだ。
お礼を言わなくちゃ。
そう、思ったのに。
「――あれ?」
一人が私の後ろを見た。
焚き火の向こうに九条さんが座っている。
「もしかして、九条環!?」
三人が同時に前のめりになった。声のトーンが完全に変わっていた。さっきまでとは別の生き物みたいだった。
「うそ、まじで?」
「写真! 写真撮っていいですか!」
「顔ちっさ。芸能人って加工なしでこれなんだ。やばい、フォロワーに自慢できる」
九条さんは枝を放り込んだまま、目を合わせず何も答えない。
「あ、そうだ」
一人がこちらを見た。
「結先輩には、気をつけてくださいね」
「なんで?」
九条さんが当然の疑問を持つ。
やめて。
「だって」
言わないで。そう思っても、思い通りにならないことは知っている。
わずかな間があって。
「問題あった人だもんね」
空気が笑いへと変わっていく。
「ちょっと、やめなって」
笑顔のまま言う。
知ってる。私はその言い方を知っている。止めるふりをする人がいちばん楽しんでいるんだ。二年前から変わらない。
私は昔から学校で浮いていた。自分で言うけれど、理由はたぶん顔だと思う。外見が周りより整っているらしい。自分ではよく分からないけれど、そのせいで何もしていなくても目立ったし、何かあればすぐ話題になった。そんなこと望んだ覚えは一度もないのに。
「問題?」
九条さんの声だった。三人がそちらを向く。
「あ、聞きます? 結先輩、昔付き合ってた年上の彼氏を殴ったらしいですよ」
「そうそう。彼氏の方は結先輩に尽くしてたのに、なんかメンヘラ? みたいになっちゃったって」
「こわーい!」
ぽろ、と涙が落ちた。
自分の頬を伝って膝に落ちて、それでやっと泣いていることに気づいた。
やめて。
全部嘘だ。付き合ってなんかいない。
あの男は友達を何人か連れてきて私を車に押し込めようとした。
無理矢理私の自由を奪った。腕を掴まれて声が出なくて、足が動かなくて、指一本まともに動かせなかった。 今も思い出しただけで震えが止まらない。
そこに兄さんが来た。
兄さんは殴っていない。私と車の間に割り込んで、あいつを押しただけだ。あいつは尻餅をついて、それだけだった。兄さんが来なかったらと思うと本当にゾッとする。
なのに次の日から噂が流れた。浦沢結はメンヘラだったって。
二年、学校に行けなかった。
二年経ってもまだこれだ。やっぱり私がいるとこうなってしまうんだ。
「あ、そうだ。九条さんも気をつけたほうがいいですよ」
声が、私の頭の上を素通りしていった。
「九条さんの彼氏のことも、この人狙ってくると思います」
膝の上で、指が固まった。
「すぐ体も許しちゃうみたいだし。ね、ほんとキモいよね」
3人が大笑いし。
私は、体を小さくした。
肩を縮めて、顔を伏せて、膝の上のポーチを両手で抱え込んだ。そうすると少しだけ楽になる。二年間で覚えたことだ。頭を下げて小さくなって、通り過ぎるのを待つ。
「……っ、ぅ」
涙が、勝手に出てくる。
言ったことがない。誰ともそんな話をしたことがない。男の人と手を繋いだこともない。あの日、腕を掴まれたのが、私が男の人に触られた最初で最後だ。
それでも、みんなが私を責めながら笑う。
笑われるたびに、じっとしているたびに、私の中の何かが少しずつ削れていく。
兄さんがいなくてよかった。
兄さんにだけはこんな話、絶対に聞かれたくない。
きっと九条さんはこの子たちの話を信じるんだろう。だって私のことが嫌いなはずだ。兄さんにも言うのかもしれない。兄さんは環さんのことが、多分好きなんだと思う。環さんの言うことを信じるかもしれない。そしたらきっと、私は一人になる。もしそうなったら、私は耐えられない。
考えただけで涙が止まらなかった。
「っ、お、おにぃ……ちゃ、」
「え、お兄ちゃん?」
「いつも兄さん兄さん言ってるのに、ほんとはそうなんだ」
「聞いててキモいよね」
「ねえ、あんた達」
九条さんが立ち上がった。火明かりが下から顔を照らしている。
「それ実際に見たの?」
「え」
「見たのかって聞いてるの」
三人が顔を見合わせた。
「……いや、聞いた話ですけど」
「ふうん」
九条さんの視線がこちらに移った。
私から目を逸らさない。まっすぐな視線。
「ねえ、結。あんた、本当にメンヘラだったの?」
息が止まった。
「あんた、本当にその先輩を殴ったの?」
どうして。
どうして、この人がそれを、この子たちの前で聞くの。
私を貶めるつもりなら、これ以上ないタイミングだった。何を言っても信じてもらえない。ずっとそうだった。担任の先生にも、友達にもそう言った。だけど結局みんな私を信じてくれなかった。だから私は黙ることを覚えた。黙っていれば、話は勝手にどこかへ流れていく。
でも。
この人は逃げ道を用意しなかった。三人が見ている前で、まっすぐこちらを見て、私に聞いた。
私に、聞いた。
「違います!」
声が裂けた。涙がぼろぼろ落ちた。みっともなかった。
「違います!私、私!そんなこと、してません……!」
自分の声が夜に響いて、それから静かになった。
三人が固まっていた。
九条さんは、しばらく私を見ていた。
「そう」
そう言って、焚き火の方に向き直る。
「じゃあ、違うんでしょ」
――え。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。本人がそう言うのなんて当たり前じゃ」
「見てないんでしょ、あんた達は」
九条さんの声が低くなった。
「見てもいないことを、面白いって理由で人に喋った。今この子がどんな顔してるか、ちゃんと見なよ」
誰も何も言わなかった。
「あとさ。さっきの、体がどうとかいうやつ」
九条さんが三人を睨みつける。
「あれ、言われた側は一生消えないから。あんた達が飽きて忘れたあとも、この子は一生の傷になるよ」
「……そんな、大げさな」
「大げさ?」
九条さんが、ゆっくり首を傾けた。
「ボクも同じ思い、味わったんだよね」
誰も、答えられなかった。
「それと、さっきからうるさいよ。写真だのフォロワーだの。ボクはあんた達のコンテンツじゃないし、この子もそうだから」
沈黙が、たっぷり数秒あった。
一人がスマホをポケットにしまった。
「……何よ」
小さい声だった。
「顔がいいからって。行こ、行こ」
「ね、タバコ吸ってるアイドルなんて誰も見ないよね」
「行こ」
三人はランタンを振り回しながら、来た方へ戻っていった。足音が遠ざかって、また焚き火の音だけになる。
※
九条さんは何事もなかったみたいに椅子へ座り直した。
私はポーチを握ったまま、しばらく動けなかった。頬が濡れているのが分かるのに、拭う気力すら出てこない。
「……な、なんで」
声が掠れた。
「なんで庇うんですか。私のこと、嫌いなくせに」
「別に」
九条さんは火を見たまま言った。
「ボクが信じられなかっただけ」
「……信じられなかった?」
「あんたが人を殴るって話が。想像できなかったんだよね」
枝を折る音がした。
「それに、噂ってボクはこの世で一番嫌いなんだよ」
――ああ。
そうだ。この人は。
この人は、私よりずっと大きなものを噂ひとつで奪われた人だ。
私はそれを、うまく理解できていなかったんだ。
私は、この人に証拠なんて何も出していない。説明もしていない。私はただ違いますと叫んだだけだ。
この人はそれだけで私を信じてくれた。三人から庇ってくれた。
「環さん」
「なに」
「兄さんは、あげませんからね」
九条さんがこちらを見た。
そして、私に向かって初めて笑った。
「言うじゃん」
火がぱちりと鳴った。
「日向はボクに夢中になるけどね」
本当に、ムカつく人。




