キャンプ場と、後輩の悪意
※いじめ表現が出ます
心美市の北側は山だ。
海のイメージが強い街だが、市域の三分の一は山林で、その奥に湖がある。名前は美心湖。市名をひっくり返しただけの、ひねりのない名前だ。
市営のキャンプ場は、その湖畔にある。
土曜の朝、俺は市の軽トラを借りに市役所に行った。カシラの道具一式を積んで、二人を迎えに行く。
最初は環だった。
「おはよ」
「……お前、それ」
黒のキャップをかぶって、大きめのTシャツ。下はカーゴパンツ。足元はスニーカー。
いつもの完全武装ではない。マスクもサングラスもない。
「なに」
「いや、どんな服でもお前には似合うんだなと」
「当たり前でしょ。ボクのこと知らないの?」
環はそう言って、荷物を入れていく。テキパキとした動作。時間に厳しい世界にいたんだなと思う。
当たり前のように助手席に乗る。距離が近づく。
「よろしくね」
「お、おう」
「なんか緊張してる?」
「そんなわけないだろ。ほら、動くぞ」
「ふーん?」
「ねえ、日向」
「なんだ?」
「もっと、こっち見てよ」
「何言って……!」
「今、ボクと日向、二人だけだよ?」
「ば、ばか言ってないで行くぞ」
環を正面から見れない。俺は急いで車を出した。
次にうちの前に着く。
結が出てきて俺は二度見した。
白いシャツの上に、クリーム色の薄い上着。下はオレンジがかったショートパンツで、その下に黒い厚手のタイツ。頭にはつばの小さい帽子。
可愛い。兄の贔屓目なし、いや贔屓していいだろう。結は可愛い。
「……ずいぶん気合い入ってるな」
「キャンプの服を調べました」
「ほう」
「……どうですか?」
つばの下から上目遣いに聞いてくる。
「そりゃ、可愛いよ」
「そうですか!」
結はそれだけ言うと、くるりと背を向けてさっさと車に乗り込んだ。
車が動き出して、しばらくみんな無言だった。
予想していたけど、気まずい。
俺からキャンプに誘ったんだから何か話題を振らないと。
「そうだ。カシラが焚き火台貸してくれてさ。焚き火をしようと思うんだけど」
「え、本当ですか? 私、やってみたかったんです」
結の声が、明らかに弾んでいた。
「ボクも」
助手席から声がした。
「マシュマロ焼くやつ、やってみたい」
「あ、それ私も」
二人が初めて会話をしている。
俺はハンドルを握りながら、少しだけ息を吐いた。
――なんだ。
二人とも、単純に楽しみにしていたらしい。
ならいける。焚き火とマシュマロさえあれば、この一泊はどうにかなる。
山道を三十分ほど進むと、木立の切れ間から水面が見えてきた。
湖だ。
窓を開ける。
「……涼しい」
助手席で環が言った。
「兄さん、湖です」
「ああ、やっとついたな」
「はい!湖、後で行ってみたいです」
「ボクも行きたい。日向、一緒に行こ」
このまま喧嘩しないで終わると思っていた自分の甘さを呪いたい。
※
えーと。この後、めちゃくちゃ喧嘩しました。
①テントの配置
「なんであんたが真ん中なの」
「あなたが兄さんの隣のテントなんて、考えられません。夜に何をするか信用できません」
「あんたがしたいだけでしょ」
「そ、そんなことありません!兄さんを守るのは妹の役割です!」
②カレーを作り
「兄さんは、これくらいの大きさのお肉が好きですよね?」
「ああ、ありがとう」
「……嫌味なやつ」
「なんですか?」
「別に?つくしてるつもりの女って、痛いよね」
「〜〜っ!」
包丁を持った人間二人が、包丁を持ったまま向かい合った。
夕方になり、焚き火の時間になる。
完璧な静寂だった。誰も何も語らない。
「……あの」
「「なんですか(なに)」」
「いや、何でもないです……」
俺はカップを両手で包んで、湖を見た。
カシラは、火を囲めばなんとかなると言った。
……盃を持ってくればよかったのかもしれない。
ふと、結がタオルを持って立ち上がった。
「シャワー、行ってきます」
管理棟の裏にコインシャワーがある。歩いて三分ほどだ。
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫ですよ兄さん。それとも」
「ん?」
「一緒に浴びますか?」
「……っ!?暗くなる前に戻れよ!」
「はーい」
結が歩いていくのを、環が横目で見ていた。
「結と一緒に、」
「無理」
取りつく島がなかった。
<結視点>
コインシャワーの前には、木のベンチと自販機がある。
着いたとき、先に人がいた。
女子が三人。全員同じくらいの年齢に見える。
私は足を止めた。
見たことがある。たぶん、同じ高校の一年生だ。
――どうして、こんなところで。
心臓の音が急に大きくなった。
「あ!」
一人が私に気づいた。
三人の会話が途中で止まる。
「……こんばんは」
軽く頭を下げる。
そのまま通り過ぎようとした。
「あれ」
背中に声がかかった。
「結先輩って、学校復帰したんでしたっけ」
足が動かなくなる。
悪意のある声ではなかった。純粋に不思議に思っている、という響きだったと思う。
「……今年から、通ってます」
「あ、そうなんだ。ずっと来てないって聞いてたから」
「二年間、休んでました」
「あー、やっぱり」
「ほら、言ったじゃん。あの話の人だって」
「えー、どの話?」
「言っていいのかな」
「もう言ってるじゃん」
三人が笑った。
――ああ。
だめだ。その笑い声を聞くと固まってしまう。
「だって、付き合ってた年上の大学生のこと、殴ったって……」
息が浅くなる。
「えー! まじ!?」
一人が、大げさに口を押さえた。
「全然見えないけど。そんな感じなの?」
「ち、違うよ……」
声が、掠れた。
喉の奥が、うまく開かなかった。
違う。付き合ってなんかいない。あの人は勝手に、私のことを――
そこから先が言葉にならない。
「えー、でも殴ったのは本当なんでしょ」
「知らないけど」
「怖ー」
三人はそれだけ言うと、また自分たちの話に戻った。
もう私の方を見ていなかった。
どこかのお店の話をしている。誰かの彼氏の話をしている。私のことを忘れたみたいに。
――そうだ。
この子たちにとってこれは会話の一つでしかない。
湖に来て、シャワーの順番を待って、たまたま知っている顔を見かけて、そういえばあの話の人だと思い出した。それだけのことだ。明日には忘れている。来週には、話したことも覚えていない。
私が気にしているだけだ。
二年前のことも。
私はタオルを胸に抱えたままその場に立っていた。
自販機が低く唸っている。背後で木がざわめいていた。
シャワーを浴びなければ。
そう思うのに足が動かなかった。今この足を動かせばあの子たちの横を通ることになる。通ればまた何か言われるかもしれない。言われなくても目が合うかもしれない。それがどうしようもなく怖い。
テントに戻れば兄さんがいる。
だめだ。
こんな顔で戻ったら兄さんは気づく。
兄さんは、私が何か言われたら必ず何かをしようとする。二年前もそうだった。私のために自分の全部を投げ出した。もう二度とあんなことをさせたくない。
だから、笑って戻らないといけない。
なんでもない顔で。シャワーが混んでたとか水が冷たかったとか、そういう話をして。
私はしばらく、その場から動けなかった。
結が去ったあとのコインシャワーには三人が残っていた。
一人がジャージのポケットから何かを取り出した。
小さなポーチだった。淡い色の女の子らしいやつ。結がシャワー室に入ったのを見計らって洗面台の隅に置いてあったのをさっきこっそり抜いておいたものだ。
「これ、あの人のっしょ」
「うわ、やば。ちゃんと返しなよ」
「返すよ? あとで」
三人が顔を見合わせて笑った。
「一人の時に返してもつまんないじゃん。あの人、誰かと来てるっぽかったし」
「知り合いの前で?」
「そう。前の話、蒸し返してやろっかなーって」
「あの元不登校の先輩、泣いちゃうんじゃない?」
「性格わっる」
言った子も笑っていた。
自販機の光の下で、三つの影が寄り集まっている。
「だってさ」
ポーチを指先で回しながら、その子が言った。
「私、結先輩のこと嫌いなんだよね」
「あー、分かる」
「私の彼氏もこの間、結先輩のこといいって言ってたし。ムカつくんだよね。あの人顔だけじゃん」
「ほんとそれ」
「また不登校になってくれないかな」
「そうしちゃえばいいじゃん」
三人が声を揃えて笑った。
その笑い方は、さっき結の前で見せたものとまるで別物だった。
次回、軽いざまぁです




