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氷が溶ける夜(四) まだ、名前をつけない

それはプロポーズの言葉では、なかった。さっきの「好きだ」の、返事を求める言葉でもなかった。


 もっと大きくて、静かな約束だった。


 いっしょに、やろう。この灰になったお社を、前よりずっと大きく建て直して。舞のお社を建てて、遠くの村にまで祈りを届けて。それを二人で。となりあって。


 私はうなずくことも、返事をすることもできなかった。ただ目の奥が、じんと熱くなった。


 保留のはずだった。私は「少し待ってください」と、言ったのだ。なのにいつのまにか、私たちはその先のずっと遠いところをいっしょに、見ていた。


 焼け跡の風がまたひとつ灰を巻いた。


 その灰はもう、悲しいものには見えなかった。


 やがてジークさまが、ふっといつもの調子に戻った。


「冷えるな。今日は、マーサのところに泊まっていくのだろう」


 そう言って私の包帯を巻いた腕を、もう一度ちらりと見た。心配そうに。それでいて、それを悟られまいとするように。


「腕を、冷やしすぎるな。……送っていく」


 私は、小さくうなずいた。


「……はい」


 なにに対する「はい」なのか、自分でもよく分からなかった。けれど、それでもよかった。断らなかった。それがいまの、私の精いっぱいの答えだった。


 その夜。


 マーサさんの家の、小さな客間で。私はなかなか、眠れずにいた。


 窓の外では、虫が鳴いていた。秋の虫だ。もう夏は、とっくに終わっていた。


 枕もとに小さな木彫りの人形が、置いてあった。


 狛犬の、アンの木彫りだ。宵宮の日に、屋台の鈴当てでジークさまが当ててくれたもの。ほんとうはいくつも当てて、ぜんぶ私に渡そうとしたのを、私が一つだけ、と言って受け取った、その一つ。


 火事のあと、焼け跡から拾い出したのだった。社務所の棚の奥に置いてあったのが、奇跡みたいに焼け残っていた。すすで真っ黒に、汚れていたけれど。


 私はそれを、布でそっと拭いてやった。


 黒いすすが少しずつ落ちて、木の白っぽい肌がまた見えてきた。まん丸の目と笑っているみたいな口が、出てきた。


 そのまん丸の目と、私は目が合った。


「……なによ」


 私はつい、小さな声で言った。


「なにか、言いたそうな顔して」


 木彫りのアンは、もちろんなにも言わなかった。ただまん丸の目で、じっと私を見ていた。まるでなにもかもお見通し、というように。


「……何も、言わないでください」


 私はその木彫りを、ぎゅっと両手で包んだ。


 胸が、まだ鳴っていた。


 もう、火事のせいだとは言えなかった。走ったせいでも、煙のせいでもない。それはとっくに、分かっていた。ずっと前から分かっていて、分からないふりをしていただけだ。


 この、胸の音に。


 名前をつけてしまえばいい。ほんとうはその名前を、私はもう知っている。


 ——けれど。


 私はまだ、それをしなかった。


 あと、もう少しだけ。この名前のないあたたかいものを、そっと胸に抱いていたかった。名前をつけてしまったら、それはもう後戻りできなくなる。そんな気がしたから。


 木彫りのアンを枕もとに、そっと戻して。私は、目をつむった。


 窓の外で、秋の虫が鳴いていた。


 その音を聞いているうちに、いつのまにか私は眠っていた。


 それから、数日が過ぎた。


 焼け跡のすぐわきに、小さな仮のお社を建てた。ガンツさんたちがあっという間に、組み上げてくれた掘っ立て小屋みたいな社務所だ。大きなお社を建てるのは、これからだけれど。それまでのあいだも、お守りを待っている人がいるから。


 私の腕のやけどは、だいぶよくなっていた。御神水で冷やしたおかげか、思ったよりもずっと早く。もう包帯も、取れていた。ただ、祈りで治療しても、右の腕にうっすらと赤い跡が残ってしまった。


 ジークさまとは、あれからいつもどおりだった。


 朝迎えに来て社まで送ってくれる。お守りが売れれば「よかったな」と、短く言う。過剰に銅貨を払う人がいれば、あいかわらず「五枚だ」と突き返す。あの宵の焼け跡での、あれやこれやがまるでなかったみたいに。


 ——ぎこちなく、ならなかった。


 それが私には、少し不思議でそしてうれしかった。あんなに大切なことを、言い合ったのに。私たちは次の朝もその次の朝もちゃんといつもどおりに、笑って話すことができた。たぶんそれが私たちのいいところ、なのだと思う。


 その日も、よく晴れた朝だった。


 私は仮の社務所の板戸を、からりと開けていつもの声で言った。


「本日も、お守りは銅貨五枚です」


 誰もいない境内に、私の声だけがひびいた。アンがあくびをして、ウンがまだ眠そうにしていた。秋の朝の澄んだ空気が、気持ちよかった。


 ——そのときだった。


 山道のほうから、ばたばたとなにかが駆け上がってくる音がした。


 私は、顔を上げた。


 参道を小さな人影が、転がるように駆け上がってくる。息を切らして。何度もつまずきそうになりながら。


 その子が、着ているのは。


 ——見覚えのある、灰色の下衣だった。教会のいちばん下っ端の聖女が着る、あの質素な服。


 その子が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


 私は、息をのんだ。


「——ミレイユ⁉」

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

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 ——お代は、銅貨五枚。……ではなく、ブックマークをひとつ、いただけたらうれしいです。

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