氷が溶ける夜(二) 逃げずに、自分の足で
私の頭のなかが、熱くなった。
こういうとき私の口はいつも、勝手に動いてしまう。困ったことがあると丸くおさめようとして、するりと逃げてしまう。
そのいつもの言葉が、喉もとまでせり上がってきた。
——お代は。
その一言が、口からこぼれ落ちそうになった。この気持ちには、いくらお包みすればいいのだろう。そう言って笑って話をうやむやにしてしまえば、楽になれる。いつもの、私のやり方で。
けれど。
私は、その言葉をのみこんだ。
ぐっと奥歯をかんで、喉のところで押しとどめた。
だめだ、と思った。今日だけは、それを言ってはいけない。
だって、ジークさまは逃げなかった。火のなかに飛びこんだ私を見て、抱きしめて怒ってそれでもまっすぐに、心のなかを見せてくれた。この人はいちばん言いにくいことを、ちゃんと言葉にしてくれたのだ。
なら、私も逃げちゃいけない。
ちゃんと聞いた。だったら、ちゃんと返さなくては。
私は、顔を上げた。まっすぐにジークさまの目を、見返した。
こわかった。正直に言えば、足が少し震えていた。逃げないというのは、こんなにもこわいことなのかと、はじめて知った。いつも丸くおさめて、するりと抜けてそうやって私はたくさんのことから目をそらしてきたのだ。
でも今日は、そらさなかった。
これは逃げるための一歩ではなくて。自分の足で立つための、一歩だった。
「……ジークさま」
私は、口を開いた。
「少し、待っていただけますか」
言ってしまってから、あわてて続けた。ジークさまの表情が、ほんの少しでも曇る前に。
「——断るんじゃ、ないんです。ちがうんです。そうじゃなくて」
言葉が、うまくつながらない。伝えたいことはちゃんと、胸のなかにあるのに、それをかたちにするのが、こんなにもむずかしい。
私は右の腕の布を、きゅっと握った。
「あなたの、いまの言葉。……うれしかったんです。すごく、うれしかった。うれしくて胸がいっぱいで、それで」
ひとつ、息を吸った。
「だから、こわいんです。いま、ここで『はい』って言ったら。私、きっと。……あなたに、ぜんぶ寄りかかってしまう」
ジークさまは、なにも言わなかった。
急かさなかった。傷ついた顔も、しなかった。ただ静かに、私の言葉を待っていた。焼け跡の火を消すために走りまわった、あの騒がしさが嘘のように、この人はじっと動かずにいてくれた。
その静けさが、かえって私の背中を押した。
この人は私のこのたどたどしい言葉を、最後まで聞いてくれる。そう思えたから、私は続けることができた。
「私、ずっと」
言いながら胸の奥のふだんは蓋をしている場所が、ほんの少しだけ開いた。
「誰かに、なにかを差し出すことでしか。……そばに、置いてもらえなかったんです」
孤児院にいたころ、私はいつも、いい子でいようとしていた。順番を譲って小さい子の世話をして、そうすれば頭をなでてもらえたから。なにも差し出さない子は、いちばんうしろにまわされてしまう。それを体が、覚えていた。
教会にいたころも、そうだった。祈って働いて役に立って、そうしているあいだだけ、私はそこに居てもよかった。働いた分だけ、居ていい。そういう場所だった。
だから。
もらう、ということがこわい。もらってばかりだと、いつかいらなくなって、捨てられてしまう。そんな気がどうしても、してしまう。
——でも、それではダメなんだと、わかっている。心の奥ではわかっている。
この宵に、この焼けた匂いのなかで、私のいちばんの心の奥を全部ぶちまけてしまったら、また私はダメな私のままこの人を頼ってしまう。
だから私は、そこから顔を上げた。
「——だから、いちど、自分の足で、ちゃんと立ちたいんです」
声が、少ししっかりした。
「あなたに、寄りかかるためじゃなくて」
私は、ジークさまを見た。
「——となりに、立つために」
言い終えて私ははじめてまわりが見えた。
焼け跡が、そこにあった。灰と炭とまだ立ちのぼる細い煙。私の小さなお社が全部燃えてしまった、その跡が。
不思議なことにそれを見てももう、胸はふさがなかった。
さっきまで、悲しみの置き場所が見つからなかったのに。いまその灰の上になにかがうっすらと、見えはじめていた。
燃えて、なくなった。
なら、また建てればいい。
——それも前よりずっと大きく。
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