守りたいもの(三) 焼け跡も犯人も見ず、氷の辺境伯が、はじめて声を荒げた
外の空気はこんなにも冷たくて、こんなにも甘かった。
地面に膝をついて、私は抱えていた小さな体を、そっと差しだした。
「ニナ! ニナぁ……!」
ハンナさんが、駆け寄ってきて娘を抱きとめた。ニナちゃんはげほげほとせきこんで、それから火がついたように泣きだした。泣ける、ということは息ができているということだ。声が出る、ということは生きている、ということだ。
「よかっ……よかった、ニナ、ニナ……!」
ハンナさんは娘を抱きしめて地面にくずおれて、もう私にお礼を言う言葉も出ないくらい、ただ泣いていた。私はその母と子を見て、へなへなとその場に座りこんだ。
まにあった。
まにあって、よかった。
右の腕が、じくじくと熱を持っていた。見ると袖が焦げて腕の皮膚が、赤くただれていた。ひきつるように、痛んだ。けれどその痛みよりも先に、私の目は上を向いてしまった。
社殿を、見上げてしまった。
赤い炎にすっかり包まれた、うちの社殿。
そのなかにあるはずのものが、思い浮かんだ。
書き溜めた、お守りの札の棚。まだ祈りをこめる前の、真新しい札が何百枚と積まれていた。参拝に来てくれた人たちの、名前を書きつけたつけ帳。「腰の痛みがとれますように」「赤ん坊の夜泣きがなくなりますように」「遠くへ働きに出た息子が無事で」ひとつひとつ誰かの願いがあの帳面には、記されていた。
あれは、ぜんぶ。
誰かの祈りの予約席だったのに。
まだ渡していない札の一枚一枚が、いつか誰かの手に握られるはずだった。つけ帳に並んだ名前の、その人たちの一日を、これから守るはずだった。それがいま炎のなかで灰になっていく。
喉の奥が、熱くなった。煙のせいだけじゃ、なかった。
火は社殿を焼きつくして、ようやく力を失っていった。
男衆が最後まで水をかけつづけて、まわりの木立に燃えうつるのだけは、なんとか食いとめてくれた。けれど社殿そのものは、もうどうにもならなかった。柱が屋根が黒い骨みたいになって、崩れ落ちていく。あれほど毎日みんなで手を入れ、飾り拝んできたうちの社は——焼け落ちた。
全焼だった。
鳥居だけが火の勢いが届かなかった参道の入り口で、ぽつんと無事に立っていた。そのむこうに広がるのは、黒い灰とまだ熱を持ってくすぶる、焼け跡。
けれど。
私はゆっくりとまわりを見まわした。
男衆がすすだらけの顔で肩で息をしている。女衆がけが人はいないかと、駆けまわっている。ハンナさんはニナちゃんを抱いて、まだ泣いている。取り押さえられたあのすすけた外套の男は、縄をかけられて地面に転がされている。
人はひとりも欠けていなかった。
社は焼けた。けれど人は誰も死んでいない。ニナちゃんも、無事だった。
……それだけで私はじゅうぶんだと思った。思おうとした。
「聖女さま、この男、ザルクの残党でさ」
ガンツさんが縄をかけた男をあごでさして、苦々しく言った。
「前に街道であくどい偽の社を建てて、あんたにこてんぱんにされた、あの商会のさ。逆恨みってやつだろうよ。……けどこいつ口を割らねえ。どうも上のほうから、見て見ぬふりの後押しがあったくさいが、そこの尻尾は、出さねえようにできてやがる」
上のほう。
その言葉に、私はなにも言わなかった。言ったところで、証しは立たない。教会がこの男に火をつけろと命じた——そんな書きつけは、どこにも残っていないだろう。いつもそうだ。手を汚すのはいつも、こういう末端の人たちで、命じたほうは涼しい顔で、どこかにいる。
男は領兵たちに引き立てられて、山を下りていった。
私は灰の匂いのする焼け跡のまんなかに、ぽつんと立っていた。右の腕がずきずきと痛んだ。膝が笑っていた。急に、体じゅうの力が抜けていくようだった。
ふと足もとの灰のなかで、なにかが、ちり、と小さく光った。
膝をついてまだぬくもりの残る灰を、そっと払いのける。——出てきたのはあの古い鈴だった。本殿の軒に吊るしていた、前世からの私の鈴。
柱も屋根も札棚も、なにもかもが黒い骨になったのに。この小さな鈴だけは、すすに汚れただけで、焼けもせずひしゃげもせず灰のなかにころんと残っていた。拾いあげるとちりん、といつもと少しも変わらない、澄んだ音がした。
——孤児院で目を覚ましたあの朝も、なぜかこの鈴だけが手のなかにあった。教会の十年、とうとう誰にも取り上げられなかった。そして今この火のなかからさえ、私のもとに残ってくれた。
私はすすだらけのその鈴を、そっと胸もとに握りしめた。あなたはずっと私といっしょにいてくれるのね、ありがとう。
馬のいななきが聞こえたのは、日が西の山のむこうへ傾きかけたころだった。
参道を、一頭の馬が駆けあがってくる。土煙を巻きあげて、鳥居の手前で荒々しく止まる。飛びおりたその人は、外套の裾をひるがえして、まっすぐこちらへ歩いてきた。
ジークさまだった。
報せを聞いて、出先から馬を飛ばしてきたのだろう。氷みたいに整ったお顔は、いつもよりずっと白かった。息が乱れていた。あの、なにごとにも動じない辺境伯さまが、息を切らしていた。
ジークさまは焼け落ちた社殿を見なかった。
縄をかけられて連れていかれた犯人の話も、聞かなかった。
まっすぐに私のところへ来て——そして、いきなり私を抱きよせた。
息が、止まるかと思った。すすと煙にまみれた汚れきった私を、ジークさまはかまいもせず強く抱きしめた。腕の力が、痛いくらいだった。その胸が、大きく上下しているのがわかった。
「……無事か」
耳もとで、押し殺したような声がした。
「けがは。どこか痛むところはないか」
「……だいじょうぶ、です」
私はその腕のなかで、なんとかそう答えた。
「腕を、少し。でも、たいしたことは……。それよりあの火は放火でザルクの残党が。……子どもが社の中に逃げ遅れていて。それで、私……」
そこまで言ったとき。
私を抱く腕がぴたりと止まった。
ジークさまはそっと私を離した。そして両手で私の肩をつかんで、顔をのぞきこんでくる。その目が私の焦げた袖と、赤くただれた腕に留まった。
整ったお顔から、すうっと血の気が引いていくのが見えた。
「——お前が、入ったのか」
声が低く震えた。
「火の中に。……ひとりで」
私は、こくりとうなずいた。
その、つぎの瞬間。
ジークさまのいつも凍りついたみたいに動かないお顔が、ぐしゃりと崩れた。怒りと恐れとそれから、名前のつけられないたくさんのものが、いちどきにあふれ出したみたいだった。
「——馬鹿者!」
はじめて聞く大声だった。
「子を助けたのは、いい。それは、いい。だが——お前まで焼け死ぬ気か! お前に、もしものことがあったら俺は……!」
そこでジークさまは、言葉を詰まらせた。「俺は」のそのさきを、どうしても言えないまま、ぐっと奥歯をかみしめた。
私は、ぽかんとその人を見上げた。
怒られている。ジークさまに、怒られている。犯人にでも火にでもなく——私が、火の中へ入ったことを。
でもその怒りはただの怒りとは、ちがっていた。声はあんなに荒いのに、私の肩をつかむ手は、まるで私がまだそこにいることを、確かめずにはいられないみたいに、震えていた。「俺は」のそのさきにこの人が飲みこんだ言葉が、なんなのか。私にはまだうまくわからなかった。
わからないのにその飲みこまれた言葉の重さだけが、胸にずしりと落ちてきた。
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