楠木
蓮玉が向かったのは村の外れ。楠木がある場所だ。だが、そこに異常はなかった。
「おい、蓮玉。なんも変わってねぇじゃねぇかよ。これがどうかしたのか?」
「何も、変わっていない?」
紘毅の言葉に問い返したのは誄岑だ。怪訝そうに紘毅を見ている。紘毅はますますわけが解らなくなった。本当に、何も変わっていないのだ。
紘毅の目には。
「…やはり、そう見えるか…」
一人、意を得たようにうなずいたのは蓮玉だった。いい加減、説明が欲しい。紘毅はもやもやとした気持ちで蓮玉を見たが、蓮玉が向き直ったのは自分の同胞に対してだった。
「封印が解かれていた」
低い声に、誄岑が目を見開く。ややあって、「そうか」とだけ答えた。
「姫を迎えに行ってくる」
誄岑は、何も言わずにうなずいた。一人取り残された紘毅が何か言うよりも早く、蓮玉が振り向いた。
「貴様も来い」
「は? ちょっと待てよ、説明を…」
「姫の元へ向かいながらだ。時間が勿体無い」
にべもなく言われれば、紘毅は黙るしかない。置いてけぼりなのは気に食わないが、朱莉を迎えに行くと言われれば付いて行きたいのだ。なにより、あの蓮玉がここまで焦っているということが朱莉に対する心配を積み上げた。迷っている暇は無い。
「行くぞ」
長身の蓮玉が、紘毅を乱暴に掴みあげる。が、そこに待ったがかかった。紘毅でも蓮玉でも誄岑でもなく。
「な…」
楠木が、伸びた。紘毅に向かって。
伸びたどころではない。何本もの枝が、意思を持ったかのごとく紘毅に向かってくる。そこにあるのは、明らかな害意。
「どけ!」
反応できない紘毅に、鋭く蓮玉の声が投げられる。風の結界が出来て、伸びてきていた枝が弾かれた。そこに、間髪いれずに焔が踊りかかる。誄岑だ。
「るいし…」
「何をしている!」
紘毅にかぶさるように蓮玉が声を上げる。これには紘毅が驚いた。どう見ても、今の焔は誄岑からの手助けだ。怒る理由がどこにあるのか。だが、誄岑は蓮玉に振り向かない。
彼女の両手にある小手は、もはや小手ではなかった。小手という防具から、焔を纏う苦無に変幻している。
「行きなよ」
視線は楠木に向けたまま、誄岑は言う。
「ここに残ってここを護れと、わたしは姫から仰せつかっている」
朱莉は決して精霊たちに命令をしない。いつもいつも、申し訳なさそうに「依頼」という形で願う。その真意を知っているからこそ、精霊たちはいつも全力でその依頼に報いるのだ。
「行けと言っているだろう。どうした、蓮玉。耳が遠くなったか?」
からかうように、誄岑は笑う。背中を見せたまま。
「たわけたことを言うな。……文句は帰ってきてからだ。嫌でも聞かせるからな」
「それは楽しみだね」
それきり、蓮玉も誄岑を見なかった。
「行くぞ」
「へ…うおっ?」
簡潔に言った蓮玉が、紘毅の襟首を掴む。乱暴に持ち上げられて、次の瞬間には宙に浮いていた。風の結界の中に放り投げられたらしい。結界は紘毅一人を包んでいるだけのもので、蓮玉の姿は見えなくなっていた。直感的に、この結界自体が蓮玉なのだと、紘毅は知った。
「てめっ! もうちょっと丁寧にやれ!」
「貴様相手にそんなことしていられるか。時間が無い」
結界の中に、蓮玉の横柄な声が響く。紘毅はちらりと足元を見た。浮いているという感覚は無く、木登りでもしているような、不安定な足場がある。そのずっと下方に、誄岑がいた。
楠木が、彼女に向かってしなっていく。紘毅が見届けられたのはそこまでで、結界はとんでもない速さでその場から遠のいた。
景色がどんどんと流れていく。視力のいい紘毅でも、流れを追っていくのがやっとだ。結界の中にまったく風はなく、ああ結界なんだから当然かと思いつつも、どこかで暢気に便利だなぁなどと考えてみる。
だが次の瞬間には一人で残してきた誄岑のこと、出て行くと伝えてこられなかった太慎のことが気にかかり始める。とどのつまり、一人で黙っていると落ち着かないのだ。
「…なぁ」
「なんだ」
無視されるかとも思ったが、不機嫌そうな蓮玉の声はしっかり返ってきた。
「なんで、俺が楠木に怒られるんだ」
「…貴様、あれが怒っているなどという生易しいものと思ったのか」
「だって楠木だぞ? なんで俺に向かって来るんだよ」
「わたしが知るか。そもそも貴様、あんな場面で呆けるな。自分で避けろ」
「そりゃ驚くだろ、いきなり楠木が伸びて来れば! なにか? 登って遊んだりかくれんぼに使ったり薪代わりにしたり朱莉とけんかしたときに泣き言言ったりこっそり蓮玉の悪口言ったりしたのが悪かったのか?」
「…覚えておこう」
人型ならば、くっきりと額に青筋が浮かんでいただろう。
「俺、あの木に護られていたって聞いてたんだけどな…」
「どういうことだ?」
ぽそりといった言葉に、蓮玉が反応する。
「俺、あの木の根元に捨てられてたんだよ。知ってるだろ?」
「ああ」
「親父が言ってたんだよ。俺を見つけた日はすげぇ雨で、生まれたばかりの赤ん坊がそんな雨に降られても生きていたのは、あの木のおかげだって。根の隙間と、枝とか葉っぱとかが重なって俺を風と雨から護ってくれてたんだってよ」
そして、豪雨にも拘らずくうくうと眠る紘毅の傍らには、今も背負っている大剣が置かれていた。
「なんかきついじゃねぇか。なんとなく、今も護られてるような気がしてたのに」
何も言わない蓮玉に、紘毅は言ってみる。
「謝ったほうがいいのかな」
「誰に、何を」
「楠木に。何かを」
「木に謝ってどうする」
「いや、なんもしないより幾らかいいんじゃないかと」
「思考は悪くないが方向が間違っている」
「なんだそれ」
そういえば、と紘毅は重ねて訊ねる。
「俺の目には、楠木には変化が無かったように思えるんだけど。お前らにはどう見えていたんだ?」
「端的に言えば雰囲気だ。無色の炎を纏っているように見えた。黙ってこちらを睨みつけているような」
同じ大自然に身を置く四精霊だからそれが見えたのだろう。想像するしかなかったが、紘毅は一応そうかとうなずいた。
「でも、なんでそんなことに?」
「現段階では判らない」
言い切って、蓮玉は黙った。
判らないものは仕方が無い。他の疑問をぶつけることにする。もっとも気になっていることを。
「なぁ、そんなに朱莉が危ないのか?」
「奏琳と楼峻が付いている。めったなことは起こらないだろうが」
「じゃあ、何をそんなに心配してるんだよ。黙られると気になって仕方がねぇだろうが」
「あの女は、おそらく操られている」
「あの女って…。あのばばぁあか?」
「他に誰がいる」
「操られているって、誰に?」
「操られているというより、幻術にかかっている」
「術? なんだそれ」
話についていけない紘毅に、蓮玉はいらいらと舌打ちをする。
「それよりも、村の雰囲気がおかしかったがどういうことだ」
「ああ、あれは…って話逸らしてんじゃ…あ!」
「どうした」
突然思い出した。診療所の、というより村全体のあの混乱。最初の夫婦の家に行く前に、自分は何か見なかったか。
見はしなかったか。楠木が、揺れる様を。
「…楠木が?」
一連の騒動を話すと、蓮玉の声にも硬さが増した。
「ああ。一瞬だったし、気のせいかと思ってたんだけど」
「そうか…」
それきり蓮玉は黙ってしまい、紘毅が何を言っても黙殺された。自分だけわけが解っていないことが歯がゆかったが、あまりに喚くと朱莉の元へ行く前に振り落とされるかもしれなかったので黙っていた。




