道中
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
爽やかな朝の日差しの中、朱莉が差し出した湯飲みを、奏琳が両手で受け取る。二人並んでの食事は、朱莉が村を出てから欠かされることがなかった。
都までの旅は、ほぼ順調に進んでいた。午前中から夕方にかけて馬車を走らせ、夕餉にちょうどいい時間までには宿を取る。朱莉にとって気が楽だったのは、那珂が金に糸目をつけずに必ず二人別々の部屋を取ったところだ。昼餉を一緒に摂ることはあるが、宿での夕餉と朝餉は別々だった。おかげで堂々と奏琳が出てきて一緒に食事が摂れるし、小言を聞かされる時間が少しでも減った。
「もう、都の入り口にいるんだよね?」
「そうですね。夕べ、確かに伯母上殿がそうおっしゃっていましたから」
「そっか。じゃあ、今日中には父上や母上とお会いできるかな?」
そう話す朱莉は微笑んでいたが、どこかに影があった。今朝からではない。村を出てからずっと、少しずつ顔色が悪くなっているのだ。
「姫。やはり、お疲れなのでしょう? お顔の色が…」
「平気だよ?」
朱莉は笑う。
「馬車に慣れてないだけだよ。大丈夫」
にこりと笑って一線を引かれてしまえば、それ以上問い詰めることはできない。だが奏琳は知っている。朱莉が夜中に何度も起きていることを。察した奏琳が出てくる前に、強引に目元を拭っていることを。そして、小さく震えていることも。
奏琳がどんなに言葉をかけても、朱莉は笑って大丈夫だと言う。それは、穏やかでありながら明らかな拒絶。それでも食事は摂っているから一応安心はしているが、量は多くない。
村を出てから今日で四日目だ。あと何日かかるかわからないが、都を出て村に帰るときは、先に都に入っているはずの蓮玉の風で帰るべきだろう。馬車などというまどろっこしい手段は選んでいられない。
奏琳の願いは、その日の内に叶えられることとなる。
朝餉を食べ終わると、朱莉は手早く準備をして宿の表玄関に出る。毎日、朱莉が玄関に出てくるときには玄関先で馬車が待っているのだ。朱莉が馬車に乗り込んでから、ややあって那珂が出てくる。一度だけ那珂と同時に玄関に下りて行ったら遅いと怒鳴られたので、朱莉は毎日必ず先に乗っておくことにしていた。
今日も、伯母は朱莉の後に馬車に乗ってきた。朱莉は少々居住まいを正す。
「おはようございます。伯母上」
「ええ。おはよう」
帰ってきた簡素な返事に、朱莉は一瞬だけ驚いたあと嬉しそうに笑い、姿を消していた奏琳と楼峻は瞠目した。
あの那珂が、朱莉に挨拶を返したのだ。そんなことは今までありえなかった。青天の霹靂と言っていい。事実、昨日も同じように挨拶した朱莉に、彼女は化粧道具を取り出して化粧をし始めたのだ。朱莉の存在など目に入らない、挨拶など耳に届きもしないということを体現して見せた。
その後で、昼餉のとき馬車を降りた那珂の歩く道だけやたらでこぼこ道になっていたのは、道理というものだろう。
彼女の異変はそれだけではなかった。返事が返ってきたことを喜ぶ朱莉に、那珂は淡々と告げる。
「少し、寄り道をします。といっても無駄な寄り道ではありません。都に着く前に入用のものを購入するだけです。依存はありませんね?」
昨日までは問答無用で寄り道も買い物もしていた。那珂が動き回るその間、朱莉はどうすることも出来ずにただ待っていた。時間も行き場所も告げずに買い物とだけ言って姿を消すのだ。御者を荷物持ち代わりに連れて行かれると、馬の番をするのも朱莉だった。
だが今日の那珂はどうだ。朱莉に挨拶を返した上、寄り道の確認まで取っている。精霊たちが瞠目するのも無理はなかった。
「よかったら、お買い物のお荷物を…」
「結構よ」
だが朱莉の申し出をにべもなく断るさまは、やはり那珂だった。
「非力なあなたが一人いたところで荷物が増えるだけよ。あなたは待っていなさい。そう時間はかからないわ」
「…はい」
だが荷物扱いされても、朱莉は那珂が挨拶をしてくれたことが嬉しかった。どう足掻いても彼女は伯母なのだ。邪険にされれば苦しいし、簡潔でもそっけなくても、答えがあれば嬉しい。
太慎が言っていた。毎日必ず挨拶をしなさいと。それは、どんな相手であっても。それは医者である前に、人間であることの第一歩だからと。
太慎に報告したくなって、朱莉は一人笑った。
*
やがて、ここで買い物をすると言って馬車を停めたのは、都へ行く道からは少し外れた、周囲を森に囲まれた静かな町だった。宿を出発してから幾分も経っておらず、日はまだ昇りきってもいない。
「ここで…。お買い物をなさるのですか?」
思わず朱莉が口を挟んだのも無理はない。もう少し行けばもっとにぎやかな町にいけるだろうに、馬車が停まったのはどう見ても小さな田舎町だった。しかも、時間が早いために開いている店は多くなさそうだ。
「わたしがここと決めたのです。文句があるなら先に行っていてもいいのよ?」
「いえ、そういうつもりでは…。すみませんでした」
「そんなに急がなくても、今日明日中には両親に会えるわ。…どんな顔をするかしらね?」
「……」
応えない朱莉を鼻で笑って、那珂は御者を連れてさっさと歩き出した。完全に姿が見えなくなってから、奏琳が出てくる。
「少し、お散歩なさいますか?」
その問いに、朱莉は首を横に振った。
「そんなに時間はかからないっておっしゃっていたし、迷子になっても困るから」
精霊たちが付いているのだ。そうそう迷子になることはない。精霊たちは、道ではなく空気や気配を辿って移動を行う。そんなことは朱莉も承知のはずだが、休みたいと言外に伝えているのだと感じ、奏琳はおとなしく従った。
馬車をつないでいる木の陰に、朱莉と奏琳は座り込む。ふと思い立って、奏琳は朱莉に手ぬぐいを所望した。
「いいけど…。どうしたの?」
首をかしげながらも、朱莉は清潔な手ぬぐいを差し出す。礼を言ってそれを受け取ると、奏琳は手ぬぐいを広げて自分の目の高さに掲げた。奏琳の手を離れても、手ぬぐいは落下することなく宙に浮いている。そのまま、奏琳は両手を重ねるように手ぬぐいに近づける。見る見るうちに、両手が光って手ぬぐいを水が包み込んだ。
奏琳が呼び出した水は、どこまでも優しく、清らかに透明で、陽の光を浴びてきらきらと光った。
「…きれい…」
呟いた朱莉に、奏琳はにこりと笑う。聖水を受けた手ぬぐいは、程よく湿ったまま奏琳の手に落ちてきた。
「失礼いたします」
断って、畳んだ手ぬぐいを朱莉の額に当てる。ひやりとして、とても気持ちが良かった。
「奏琳?」
「少しでも、疲れが取れると良いのですけれど」
優しい声に、朱莉は額に当てられていた手ぬぐいを、目を隠すように下へずらした。
限界が近いことを、誰よりも朱莉が知っていた。
「姫?」
「だめだねぇ、わたしは」
「なにがでしょうか」
「……弱いから」
こてん、と朱莉は頭を奏琳の肩口につけた。奏琳は、少なからず驚いた。精霊たちの主は、こんな風に頼ってきたことなど一度も無かったからだ。
「姫…」
「ごめんね。こんなに、弱くて」
「なにをおっしゃいます。わが主は弱くなどありませんよ」
「弱虫だよ…」
「真に弱き者は、つらいときに他者を思いやって笑うことなど出来ません」
めったに無い、奏琳の強い口調。それが、彼女が真剣であるということを何よりも伝えていた。
「弱き者は、優しさを持ちえません。あなたはとてもお優しい。…なにより、優しさという強さを持ちえない者に、我ら四精霊を呼び出すことなどできません」
朱莉は奏琳を見た。怖いほどに真剣で、今にも泣きそうな顔がそこにあった。
「…ごめんなさい」
傷つけてしまったのだと。心優しい精霊を、自分の言葉で傷つけてしまったと思った。しかし奏琳は首をふる。
違うのだ。奏琳が泣きそうなのは、主にここまでの思いをさせてしまった自分へのふがいなさから。しかしここで泣くのは卑怯なことだと知っている。朱莉がますます自分を責めてしまう。だから奏琳は泣かなかった。今、泣くべきなのは奏琳ではない。
「ずっと、震えていらっしゃいますね」
朱莉の肩がびくりと震えた。
「何を、そのように怯えていらっしゃるのですか?」
訊かずにいようかと思っていた。朱莉が隠すのなら、無理に聞きだすことは出来ないと。だが、このままでは朱莉が壊れてしまうような気がした。
紘毅も太慎もいない今、この幼い主を護れるのは精霊だけなのだ。朱莉は決して弱くない。だが、自分で自分の心まで護れるほど強くもない。今は、まだ。
間があった。そして、朱莉はゆっくりと言葉をつむいだ。
「…父上と、母上は、どうしていらっしゃるかな…」
今度は奏琳がびくりとなる番だった。動揺を懸命に押し殺して、朱莉に悟られまいとする。無駄であることを、半ば悟りながら。
「…姫のご到着を、心待ちにしていらっしゃると思いますが…」
朱莉は、くすりと笑った。
「嘘が下手だよ。…わたし、知ってるよ」
「…何を、でしょうか」
「わたしは、捨てられたんだよね?」
確信を持った問いかけに、奏琳は何も言えなかった。




