再会
十二年前。
わずか四歳の朱莉が、四精霊全員を呼び出した。それが、始まりだった。
吾妻の家系は代々薬師。その特徴は結界と、独特の薬の使い方。ではその能力と知識はどこから来たものなのか。
その情報源こそが、四精霊である。吾妻の初代当主が呼び出した地水風火それぞれの精霊が、当主に知識を与え、力を貸したのだ。
だが、膨大な知識と甚大な能力は、到底普通の人間一人に納まりきるものではない。初代当主が亡くなった後、知識が薄れていくことを恐れた次代当主は、考えた末に自分に三人の側近を作り、地水風火それぞれの知識を一人一人が持つことにした。結果、地なら地、水なら水の精霊をそれぞれが呼び出すことに成功し、吾妻の発展はそこから始まった。
四人ですべての知識を網羅し、お互いを補い合う。それが、吾妻だった。だが永く口から口へと伝えられていく中で知識は少しずつ漏れ始め、やがて一人の精霊さえ呼び出すことは難しくなっていった。
吾妻の現当主は朱莉の父親だが、彼は精霊を一人も呼び出せない。現当主だけではない。前当主も呼び出せなかったと、朱莉は聞いている。何代か前の当主はひとり呼び出せたらしいが。
――精霊を呼び出せる者が、時期当主となる。
そんな決まりがいつから出来たのかわからない。呼び出せるものがいないときは前当主の子どもや兄弟が当主をしているが、精霊たちと通じることが出来れば、巨大な吾妻一族の頂点に立つことが出来る。誰もがその実力を認めるからだ。
皆がその力を欲しがった。帝に仕えていれば相応の身分とそれに見合う報酬が与えられるが、その上で精霊たちをも味方につけてしまえば怖いものなど無い。帝すら、掌握できる力。事実、帝の吾妻に対する信頼は絶対的なもので、歴代当主の中には帝を影で操っていた代すらある。
一族の誰もがそれを欲した。無論、真面目に薬師としての勉学にいそしむ者もいたが、勉学などそっちのけで、死に物狂いで毎日精霊に呼びかける者もいた。
だがその力を手に入れたのは、まだ権力の意味さえも知らない、ただの幼女だった。
ある雷雨の日。幼女は、本当に何の前触れもなく精霊たちを召還した。
両親はもちろん、一族の誰もが驚いた。そして、その力を欲した。
ある者は朱莉を懐柔しようと養子縁組を持ちかけ、ある者は脅迫まがいの真似で朱莉から呼び出し方を聞き出そうとし、またある者は――朱莉の両親は、朱莉を殺そうとした。
当時、次期当主の座が決まっていた朱莉の父親は、娘を取り込もうとする一族の手、特に那珂の手をことごとく阻んで、朱莉を護ってきた。精霊たちを自分の手で動かし、名実共に吾妻の頂点に立つために。
幼い朱莉が転べば奏琳が出てきて傷口を浄化し、暗闇が怖いといえば誄岑が仄かに明かりを灯した。蓮玉や楼峻が表に出てくることは少なかったものの、邪心を持って朱莉に近づこうとする者は、必ず砂嵐に阻まれた。
だが精霊たちは、朱莉の呼びかけに応じはしても、決してその力を朱莉以外のためには使わなかった。当然である。彼らを呼び出したのは、朱莉であって他の誰でもないのだから。
娘の能力が自分たちのために使えないと知ったとき、両親は朱莉を恐れた。いずれ、この幼き娘が頂点に立つ日が来る。その時、自分たちはどうなるのか。どうなっているのか。朱莉がいる以上、どんなに幼くても当主になるのは朱莉だ。一度精霊を呼び出せる者が現れたら、その者が死ぬまで同じ精霊を呼び出せる者は現れない。せめて朱莉が呼び出したのが一人ならともかく、あろうことか娘は四精霊全員を呼び出してみせた。
このままでは約束されていたかの地位につけなくなる。人生最大の目標だった精霊を従えることさえ、朱莉が四人とも呼び出してしまったことで希望はなくなった。彼にとって耐え難い屈辱だった。そして、それは彼の妻にとっても。朱莉の母親は、夫を諌めるどころか積極的に手を貸した。彼女は、吾妻の頂点に立つために前の夫と別れていた。
彼らは精霊たちを呼び出すために必死だった。いくら前当主の息子であっても、誰かが精霊を呼び出してしまったら全てが気泡と化す。真実の当主となるには、精霊を呼び出すしかない。その為に、必死に努力してきた。なのに、努力という言葉も知らないような幼女が、ぽんと手に入れたのだ。しかも自分の目の前で。欲しくてたまらなかった、それまでの人生のほとんどを費やしてきても手に入らなかったものを。
わずか四歳の娘が。
気に入るわけがない。自分の子どもならばこそ、余計に気に入らない。朱莉にできることが、親である自分には一生できないのだ。一族からの嫌味も日に日に増していく。
父親はあの手この手で呼び出し方を聞き出そうとしたが、朱莉は呼び出そうと思って呼び出したわけではないので答えられない。何より、精霊たちが出てくるまで朱莉はその存在すらも知らなかった。
結果的に、娘を手放すことを両親はためらわなかった。朱莉さえいなくなれば、自分が精霊を呼び出せる可能性が出てくる。それは、何事にも変えがたい誘惑だった。
冷静に考えれば、精霊の加護を受けている朱莉を、ただの人間に傷付けられるわけがない。実際、朱莉にもった薬はすべて浄化され、やがて結界が張られた。朱莉は、精霊たちによって命を護られたのだ。
そのことに不満を持ったのは、誰よりも、朱莉だった。
「おかあさんは? おとうさんは?」
何も知らない少女が、隔離といってもいいような状態で精霊たちに聞いてくる。いくら幼子が相手とはいえ、隠し切るのも限界が近づいていた。
朱莉は泣いた。両親に会いたくて泣いた。母親の作ったおにぎりが食べたくて泣いたし、父親に抱き上げられたくて泣いた。外で遊びたかったし、一人で入浴するのは寂しかった。
「おとうさんは? おかあさんは?」
蓮玉が結界を張ってから、何人たりとも朱莉に近づくことは出来なかった。食事も精霊たちが用意した。自宅で出されるものはもう信用できなかったから、山菜や米を採ってきては奏琳が調理した。
太慎が都にやってきたのは、朱莉が食事を摂らなくなってすぐのことだった。村では手に入らない医学書や医療器具を買いに来て、偶然朱莉と出会ったのだ。独りで泣いていた、朱莉と。
太慎は朱莉を迷子と思い、住所を聞いて家に送り届けた。むろん、その間も姿を消した精霊たちが付いていた。悪意を持たない人間は久しぶりだったので、精霊たちも黙って見ていることにしたのだ。
そして、朱莉を連れて帰った太慎に両親が告げる。
「この子は重い病なのです。どうか、太慎殿の村で療養させてやってください」
初対面の老人に、しかも天下の吾妻がそんなことを頼むということが、常軌を逸脱した両親の精神状態を物語っていた。太慎は、朱莉の状態を見てそれを承諾した。承諾しなければ取り返しが付かなくなると、老人の勘が告げていたのだ。
食事を摂らなくなっていた朱莉はやせ細り、骨が浮き、泣きすぎて目がくぼんでいた。何よりも太慎が朱莉を連れて帰ったとき、すでにあたりは暗くなっている時刻で、朱莉はしゃっくりを起こすほど泣いていたのだ。それなのに両親のどちらとも、帰ってきた朱莉を抱きしめようとはしなかった。おかえりとさえ言わなかった。
医者たちの間に知らない者はいないというほど高名な吾妻は、こうして娘を捨てた。
しかしこのことは、朱莉は知らないはずだった。生まれつき身体の弱かった朱莉を、空気の良い田舎に預けたということにしておいた。太慎と精霊たちが、そう口裏を合わせたのだ。殺されかけても両親を求めて泣いた、朱莉の心を護るために。
「知ってたよ」
静かに言葉を紡ぐ朱莉。頭を肩に預けられた奏琳は動けなかった。何を言うのも憚られた。楼峻も動こうとしない。同じく、動けないのだろう。
「あのね、何年も前にね」
そんな精霊たちを知ってか知らずか、朱莉は言葉を続ける。泣いている様子はない。
「紘毅が、村の子どもたちに捨て子ってからかわれたことがあったの」
ほんの数刻前、遠い村では紘毅が同じ話題を誄岑に持ち出している。
「あの時ね、言われたのは紘毅だったのに、すごく悲しかったの」
奏琳も覚えている。あの時の朱莉の泣き方はすごかった。
「わたし、たくさん泣いちゃって、紘毅が慌ててた」
精霊たちとて慌てていた。
「でもね、紘毅が…」
間が出来たことを不審に思い、奏琳がそっと朱莉を覗き込む。少女は、唇をかみ締めていた。
「…姫」
「紘毅がね、それ以来、わたしが泣いていると必ず来てくれるの。いつ、どこで泣いていても、来てくれたの。大丈夫だよって言って。…不思議だよね」
そうして、朱莉の涙を止めるのも、いつも紘毅だった。
「わたし、きっと、それに甘えていたんだね」
泣いているときだけではない。転げまわるほど笑うときも、食事のときも、出かけるときも。朝も昼も夜も、紘毅がいた。いつも、いた。
初めて会ってから十二年。
今、初めて紘毅がいないのだ。
「伯母上が村に来たとき、わたしが行きたくないって言ったら、紘毅はきっといいよって言ってくれたと思うの。でも、そうやってわたし、紘毅に甘えたままじゃいけないって思って」
あのとき、血が滲むほどに握り締めた拳を見て、朱莉は都へ行くことを決めたのだ。
十二年前から変わらぬ、強く真っ直ぐな瞳で那珂を睨んだ紘毅。それに較べて朱莉は、那珂の視線を受け止めることも出来ない。両親のことを割り切ることも、諦めることもできない。何も成長していないのだ。朱莉だけが。
「だから、わたし、ちゃんと…」
もう少しだけでも、胸を張れるように。紘毅を介してではなく、受け止められるように。
「強くならなきゃって、思ってるのに…」
「しかし、姫。それは、泣かない理由にはなりませんよ」
奏琳の言葉は、奇しくも誄岑が紘毅にかけた言葉に類似している。紘毅がそうであったように、朱莉がぐらつくには十分だった。
「姫が弱いとは思いませんが、強くなるのに泣いてはならぬなど、誰も決めてはおりません。何度も泣いて、それを乗り越えることで強くなるのだと、わたしは思います」
時間があった。それから、朱莉は、再び手ぬぐいを目元に当てた。
「みんな、優しいね」
出てきた声はもう震えていた。
「いいえ。姫には到底及びません」
手ぬぐいを握る手に力が入る。
「…紘毅に、言わないでね?」
「お約束します」
限界が、きた。
「……こうきにあいたい…」
消え入るようにそう言って、朱莉は泣いた。ただ泣いた。声を押し殺す朱莉の肩を、奏琳は静かに抱いていた。泣き止ませることが叶わないならば、せめて主が泣ける場所だけは、どうしても守りたかった。
が、一瞬で静寂は破られる。
「朱莉―――――――――――――――――――っ!!」
妙に耳になじむ叫び声が聞こえたかと思うと、それはいきなり朱莉たちの前方、やや距離を置いて降りて――いや、落ちてきた。勢いあまってそのまま朱莉たちのほうへ転がってくる。
「がっ! ごっ! べっ! げふっ!」
どこかぶつけるたびに情けない声を上げながら、それは朱莉の目の前まできてやっと止まった。呆然と、それを見ている朱莉と奏琳。ぽとりと、手ぬぐいが落ちた。
がばっと顔を上げたそれは、見間違えようもなく。
「おお、朱莉! 無事か? ってうわ、なんだお前、なに泣いてんだ。どうした? あのばばぁになんかされたか! かわいそうに、つらかっただろう!」
朱莉の両肩を掴んで、声を上げるのは、どう見てもやっぱり。
「…こーきだ…」
やっと、それだけ呟いた。
「ってかお前、ちょっと見ない間に痩せたんじゃねぇ? もしかしてあいつにろくに飯も食わせてもらえなかったんじゃねぇだろうな? おおよしよし。がんばったな。だがもう大丈夫だ。村に帰ってたらふく食え! ついでに俺もたらふく食う」
ついで、黒い蝶が姿を現した。
「貴様などより姫が先だ。何のためにここまで来たと思っている」
「あ、蓮玉! てめぇよくも俺を振り落としやがったな」
「貴様が珍妙な声を上げるから手加減を誤ったのだ。まったく、行動が珍妙なら言葉も珍妙だな」
「珍妙珍妙言うな!」
「では奇妙」
「お前に言われると腹が立つわ!」
がなる紘毅を見る黒い蝶の表情は読めない。だがやれやれと言いたいのであろうことは誰の目にも明らかだった。
一方、奏琳は朱莉を見詰めていた。朱莉はぺたんと座り込んだままで、相変わらず呆然と紘毅を見ている。
敵わない、と思った。おそらく自分は今、少しだけ哀しそうに笑っている。悟られないように、そっと手ぬぐいを拾った。もう必要ないだろう。
朱莉の涙は止まっていた。
「よし。帰るぞ、朱莉!」
なにがどうよしなのか。大体、なぜこんなところに突然降って来たのか。何の説明も無い。呆けている朱莉の代わりに、奏琳は伺うように蓮玉を見た。
「姫。我々は貴女をお迎えに参りました。村に帰りましょう」
「…え?」
その言葉に、朱莉はやっと反応した。
「な、なにそれ。どういう…」
「ご説明は戻る途中で」
その口調が常になく焦っているようだったので、朱莉は言葉を止めて蓮玉を見た。
「……あれを、一人残してきたゆえ」
「あれって?」
「誄岑だよ。一人で戦ってるんだ。楠木と」
「楠木?」
紘毅の答えに朱莉は首を傾けて聞き返したが、奏琳は固まった。
「蓮玉…」
小さくうなずいた黒い蝶を見て、奏琳は悟った。おそらく楼峻も理解した。
封印が、解かれたのだと。そして今、誄岑が。
「姫。村へ、帰りましょう」
朱莉を促して、奏琳は立ち上がる。
「奏琳?」
「誄岑が…」
その時だ。
「やっと来たのね!?」
奏琳の言葉を遮ったのは、場違いなほどに甲高い叫び声だった。
「伯母上…」
那珂が、御者を連れて戻ってきていた。反射的に、紘毅と蓮玉が朱莉をかばうように前に出る。
「あなたたち…」
朱莉は身を竦ませた。この場をなんと言えば。だが、那珂が発した言葉は朱莉の想像を超えていた。
「わたしを、迎えに来たのね?」
嬉しそうに、どころではない。満面に嬉々を湛えて那珂は笑っていた。それから、ややあってから気が付いた。那珂に精霊たちが見えていることに。奏琳は人の形を取っているが、蓮玉は蝶のままなのだ。見えるわけがないのに。
「お、伯母上…?」
「やっとわたしを迎えにきてくれたのね? やっぱり、嘘ではなかったのだわ」
うっとりと目を細める女に、一同は目を瞠る。なんだ、この展開は。
「なんだ、誰かばばぁを迎えに来るのか?」
「知るか、相変わらず人語が通じん女だ」
「伯母上のあんな嬉しそうな顔、初めて見た…」
「姫。恐れながら、そういうことを言っている場合ではないのではないかと」
四者四様に呟くが、那珂は嬉しそうな顔のまま聞いていない。遠くを見て、なにかぶつぶつと呟いている。那珂のやや後方にいる御者は、不思議そうな顔で那珂と朱莉たちを見比べていた。




