誄岑
看病をする側が空腹で倒れたら元も子もない。だから夕餉を作って来い。簡単なもので構わない。
太慎に言われて、思い出したように空腹が襲ってきた。だがもはや米を研ぐ気力もなく、残っていた冷や飯を握る。そうしてやっと紘毅が夕餉にありつけたのは、日付が変わる直前だった。
「……疲れた」
呟いて、紘毅は居間の卓袱台に突っ伏した。
太慎は診療室で仮眠を取っている。治療という治療はしていないものの、病気らしい症状はまったくないのに、誰一人として起こすことすら出来なかった太慎。
普段は医者として村人たちに頼られている彼の、その屈辱感と無力感はいかほどのものか。
仮眠を取るから部屋に戻れと言われた紘毅だったが、この状況で仮眠を取るような里親でないことは知っていた。
突っ伏したまま動かない紘毅の向かいに、一つの気配が現れる。特に驚いた様子もなく、紘毅は視線だけをそちらに向けた。
「…誄岑、か…」
「お久しぶり」
紘毅に名前を呼ばれた紅い蝶は、凛とした女性の声でそう応えた。
「朱莉に付いていったんじゃなかったのか?」
「姫からのご依頼。誰か一人は残ってくれってさ」
「朱莉が?」
紘毅は、のろのろと顔を上げた。蝶は、紘毅のちょうど真向かいに浮遊している。
「しかし、お前は本当に面白い子どもだねぇ」
蝶の姿をしていても、声で笑っていることがわかる。紘毅は拗ねたようにまた顔を伏せた。
「なにがだよ」
「存在が、だよ。この三日間、お前の珍妙な言動にはかなり笑わされた」
「珍妙言うな」
「では微妙?」
「それもどうよ」
火の精霊、誄岑。彼女が人型をとることはめったにない。紘毅はもちろん、朱莉ですらろくに見たことがないほどだ。
「気にしているのかい?」
「なにを?」
少し低い声での問いに、紘毅は視線を上げた。紅い蝶の声は、暖かい。
「孤児と言われたことを。…少しくらいは、傷付いたんじゃないかと思ってね」
紘毅は少しだけ目を見開き――やがて、伏せ気味に笑った。
「なんだ、それで出て来たのか?」
朱莉に言われてこの地に残っていたといっても、それは本当に朱莉に言われたからだけだろう。おそらくなにかあったらここを護るようにと言われたのだろうが、今日は紘毅に危険が迫ったわけではない。そもそも、精霊は人間の諍いになど関わりを持たない。
「別に、そんな気にしてるわけでもねぇんだけど…」
誄岑は、火の属性ということから想像できるような激しい性格をしていない。決して冷たいわけではなく、全てを燃やし尽くす焔というより暖炉のような暖かみを感じさせるのが彼女だ。
特に危険なわけでもないのに今この場で出てきたということは、彼女なりに心配してくれたのだろう。
「久々に、言われたなぁと思って」
孤児のくせに、と。
「がきの頃以来だから…。少し、思い出してただけだよ」
「そういうのを、人間は気にしているというのではなかったかと思うけどね」
「ああ、そうかも」
意外なほどあっさりと、紘毅は認めた。誄岑の言葉に同情も憐れみもなかったからかもしれない。
「昔さぁ、俺が近所の奴らとけんかするじゃん? ま、子ども同士の小競り合いだから、翌日にはけろっとしてるんだけどさ」
紘毅は立ち上がって汲み置きの水を湯飲みに注ぎ足した。もう一つ湯飲みを取って、誄岑の前に置く。こうしたところで、飲まないであろうことはわかっているのだが。
「でも、けんかの最中は本気でやりあうわけだよ。めちゃくちゃ腹が立って。原因なんて、たぶんすげぇくだらねぇことなんだけど」
「そうだろうね」
誄岑が相槌を打つ。湯飲みに手はつけない。紘毅はそれを気にすることなく胡坐をかいて座り直した。その表情は暗くない。
「でもさ、いつだったか。けんかしたときに誰かが俺に向かって「孤児のくせに」って言ってさ。……俺はそのときまで、自分が捨てられてたってこと、知らなかった」
紘毅は衝撃を受けた。太慎が本当の親ではないことは知っていたが、預けられたのだと聞いていた。太慎は、決して紘毅が捨て子だったのだとは言わなかった。
「その場の勢いなんだけどさ、その言葉の意味も知らずに俺は捨て子だって、要らないから捨てられたんだって、言うんだよ」
いつものけんかの延長戦だった。子どもというものは、無垢で純粋だからこそ、平気で相手の心を抉る。
時には刃物よりも強く残忍な殺傷能力を持つ、言葉の威力を知らないままに。
「そしたら朱莉が泣いた」
それでも、いい過去ではないはずの昔語りをする紘毅の表情は曇らない。
「あの時の朱莉の泣き方はすごかったよ。本当、どうしたらこんな泣けるのかっていうくらい」
誄岑は黙ってうなずいた。誄岑に限らず、精霊たちは全員そのことを知っている。姿は見せなかったものの、ずっと見守ってきたのだから。その時も、その前も、後も。
「あれから、一度も言われてなかったんだよな、と思って。孤児って言葉自体、久々に聞いたよ」
朱莉が大泣きしたことにより、紘毅とけんかをしていた子どもたちはものすごく反省して、二度とその言葉を使わなくなった。もとより、村の大人たちは紘毅の出自に難癖をつけたりしない。紘毅が拾われたばかりの頃、太慎の男手一つでは大変だろうと村のみんなが子育てを手伝ってくれたくらいだ。のみならず、太慎が都まで診療道具を買いに出かけるときは、誰からともなく預かってくれた。
太慎の人望もあってのことだろうが、この村は、そういう村だ。
「ああ、だからこそ、か…」
久々に言われたあの言葉が、こんなに胸の痞えになるとは。言われるとは、思っていなかったから。
「まあ、病気みたいだし、悪気もないだろうし。本当のことなんだから仕方ねぇわな」
「そうだねぇ。でも、それは気にならない理由にはならないと思うけどね」
紅い蝶の身体が光った。
「本当のことは、言わなくていい場合も多いからね」
現れた女性は、ゆっくりと湯飲みを持ち上げて口に運んだ。
「ごちそうさま」
ことりと、湯飲みを置く。
艶やかな、赤い髪。基本的には、蓮玉や奏琳と似たような出で立ちをしており、その色の基調は赤。鎧の紋章は濃紫。動きやすいようにか、奏琳よりはやや着物の裾を短くしてあるが、帯は長い。細い首にかかっている珠数は淡い乳白色。薄く紅を引いた細い唇が、白く聡明な顔立ちによく似合っている。
彼女の獲物は、両腕に嵌めた濃紫色の小手。あの小手が変形するところを、紘毅は一度だけ見たことがあった。
「その格好、久々に見た」
「久々にしたからね」
そう言って、誄岑は笑った。気を遣ってくれたことは明白だったが、紘毅は口には出さなかった。聞いてみたのは別のこと。
「なあ、なんで誄岑ってあんまりその格好しないんだ? 蓮玉や奏琳なんて、しょっちゅう人の形してるのに。あんまり好きじゃないとか?」
問いかけに、誄岑はあいまいに笑った。肩を竦める。
「ちょっとね。別に嫌いじゃないんだが、うるさい奴が…」
言いかけたとき、風が起こった。戸惑う間もなく、その場に黒い蝶が現れる。これには、紘毅のみならず誄岑も驚いたようだった。蝶は、瞬く間に人の形を取って紘毅を見下ろした。
「蓮玉? どうしたんだよ。お前も朱莉に付いていったんじゃ…」
「姫を迎えに行く。だがその前に確かめることがある。貴様も来い」
「はぁ?」
「蓮玉。どうした?」
誄岑が声をかける。彼女が人型をとっていることに多少怪訝そうな顔はしたが、蓮玉はそのことについては黙っていた。
「姫が危ない」
「なんだと?」
紘毅の表情が変わる。
「都に病など流行ってはいない。あれはあの女の偽りだ」
「ちょっと待てよ、お前今まで…」
「蓮玉は、今まで都へ行っていた」
状況についていけない紘毅に、説明をしたのは誄岑だった。
朱莉が馬車で都へ発つと同時に、蓮玉は風を使って先に都へと向かった。那珂の言葉を確かめるためと、本当に流行り病なら朱莉の安全を確保するため、ある程度の病原菌を自然の力で浄化させることが目的だ。完全に病原菌を滅するなら誄岑の焔や奏琳の聖水のほうがいいのだが、ことは急を要した。精霊たちの中で一番速く動けるのが蓮玉である以上、蓮玉が先行するのが良かったのだ。風である程度蹴散らしておけば、完全な浄化は朱莉が都についてからでもできる。
だが、蓮玉が都で見たものは。
「平穏だった。流行り病などない」
「なんだそれ! どういうことだよ」
当然聞き返す紘毅に、なぜか蓮玉は言いよどんだ。
「おい?」
「…確認が先だ」
「なんの」
問答をする間も惜しいといわんばかりに、蓮玉はさっさと身を翻して外に出た。わけがわからず、紘毅と誄岑もあとに続く。
そうやって無人となった居間に、一人分の影が落ちた。太慎である。老医師は、三人が出て行った扉を、ただじっと見つめていた。
暗鬱とした目だった。




