旅立
翌日。朝の早い時間に、馬車に乗って再び那珂は現れた。玄関先で待っていた朱莉を見て、当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす。馬車から降りようともせず、さっさと乗るようにあごをしゃくる。御者は見向きもせず、朱莉のそう多くもない荷物は、紘毅が馬車に積んだ。
「じゃあ、行ってきます」
馬車に乗り込む前に、朱莉はくるりと振り返って笑顔を作った。
「くれぐれも気をつけて。治す側が病にならないよう。落ち着いたら、いつでも帰っておいで」
「はい。先生」
暖かく見送る太慎にうなずいてから、朱莉は紘毅に向き直った。
「行ってくるね」
「ああ。…あんまり無茶するなよ」
「うん。紘毅も、あんまりやんちゃしないようにね」
「お前も、腹出して寝るなよ」
「大丈夫だよ。紘毅じゃあるまいし」
軽口を叩くも、いつものように軽やかではない。朱莉は口を開きかけ――その背中に、声がかかる。
「何をしているの。早くなさい」
太慎も紘毅も、この場にいないことにされている。朱莉ははいとだけ答えて、紘毅に笑いかけた。
「…行って来るね」
だめだ無理だいやだ行くなやめろやめてくださいなんなら俺も行く。
とは言えず、紘毅は間を置いてからうなずいた。
「おう。行って来い」
太慎に向かってぺこりと頭を下げ、馬車へ乗り込んでいく。その後ろ姿を見ながら、紘毅はふと朱莉が村に来たときのことを思い出した。
朱莉と、初めて会ったときのことを。
「あの時も、朝早かったっけかな…」
小さく呟く。
朱莉が馬車に乗り込むと、窓から顔を出す間も与えず、二頭の馬は走り出した。がらがらと音を立て、大地を蹴って馬車は遠くなっていく。この音を聞くのも、十二年ぶりだ。あの時との決定的な違いは、近づいてくるか離れていくか。
朱莉が村に来たのは十二年前。何ヶ月かに一度、都へ買い物に出ていた太慎が、連れて帰ってきたのだ。生まれつき身体が弱く、都の空気が合わないために村で暮らすことになったと聞かされた。
よく覚えている。太慎が帰ってくると聞いて、紘毅は馬車を出迎えに走ったのだ。まだ幼かった紘毅は、太慎が帰ってくるのを他の村人の家で心待ちにしていた。太慎は、いつも必ず僅かながらの菓子と都の話を手土産に帰ってくる。今回はどんな珍しい菓子だろう、どんな話を聞かせてくれるのだろうと、胸を高鳴らせて馬車の扉が開くのを待った。
そして、出てきたのが太慎に手を引かれた朱莉だった。
紘毅は驚いた。当時、村には紘毅より小さい女児はいなかったし、着ているものも都の衣だし、髪も綺麗に結わえてあったし、もしかしてこれが噂に聞く人形というやつか、とさえ思った。
だが朱莉は人間だった。太慎の影に隠れ、そっと伺うように紘毅を見ていた。
あの黒くて大きな瞳に、吸い込まれそうになったことを覚えている。
朱莉は後部の窓から顔を出そうとせず、馬車はだんだんと遠くなっていく。姿が完全に見えなくなる前に、紘毅は家の中へと戻った。振り返ることはしなかった。今度馬車を見るのは、朱莉を出迎えるときだ。そう、決めていた。
「さて、と…」
家の中に戻った紘毅は一人、呟いた。
朱莉がいなくとも、やることはいっぱいある。さっき三人で食べた朝餉の後片付けをして、井戸の水を汲んで、診療時間になる前に診療所の掃除、薪割りもしなければならないし、午後になれば剣術を教えている子どもたちがやってくる。普段は朱莉が相手をしている小さな女の子たちも、今日からはしばらく紘毅が面倒を見ることになるだろう。
別に一生会えなくなるわけでもなし、都へ行って帰ってくるだけだ。都には病が蔓延しているというが、朱莉には精霊たちがついている。そう簡単にはやられまい。特に、蓮玉は朱莉の伯母のことを徹底的に嫌っている。精神的な面でも、朱莉を護ってくれるはず。心配は要らない。
大丈夫だろうと一人うなずいていたら、後ろから声がかかった。
「…紘毅。お前、なにやっとるんじゃ」
「ああ? 食器の片づけだよ。見てわかんねぇのか」
「ほう、わたしには薪を洗っているように見えるがの」
「ん?…げっ!」
食器を洗っていたはずの手は、いつの間にか薪をじゃぶじゃぶと洗っている。紘毅は自分の行動に愕然とした。
「なんてことだ…。親父! 流行り病がここまできてるのかも知れねぇ! こういう症状が出ることも…」
「無いわ。早よ片付けんかい」
にべもなく応えて、太慎は診療の準備をするべくさっさと歩いていった。
紘毅の異変は、午後にも起こった。
「なあ、兄ちゃん。何やってんの?」
剣の練習をしている少年たちが、心底不思議そうに紘毅を見あげてくる。
「あん? 剣術以外の何に見えるってんだ」
「ごぼう」
「なに?…うおっ!」
子どもたちに剣術を教えるのに、いつもは振り回しやすい太くて長い棒を使っている。その手に、今日はなぜかごぼうがあった。
「な、何故だ…」
「そんなの、決まってるじゃん」
がっくりとうなだれた紘毅に、子どもたちは寄ってくる。
「決まってるって、なにが?」
「朱莉ちゃんがいないからだよ」
「はっ!?」
「そうだよー。いまさらなに言ってんだよ」
「おおおおまえらこそなに言っちゃっちゃってんだ!」
手に持っていたごぼうを、さらに折れんばかりに握り締め、紘毅は叫んだ。
「いっちゃっちゃって兄ちゃんこそなに言ってんだよ」
「これは違うんだよ、俺はちょっとほらあれだ、日頃の疲れが大根に出ただけなんだよ!」
「大根じゃなくてごぼうだよ! わけわかんないよ、兄ちゃん!」
「だいたい兄ちゃん、普段疲れるようなことしてないじゃんか!」
「やかましい! してるんだよ、こっそりと!」
「じゃあ、兄ちゃんは朱莉ちゃんがいなくてさみしくないの?」
「あ、いや、それは…」
「ぼくたちはすっごくさみしいのに!」
「なにをぅ? おまえらより俺の方が寂しいに決まってんだろが! ぶっちゃけ泣きそうなんだよ実は!」
何故か威張って言い放ち、手にしていたごぼうはぼきりと音を立てて折れた。
そのやり取りを、子どもたちの母親たちが茶をすすりながら見ている。診療所は、診療するためだけには使われていない。村人たちの憩いの場としても解放されていて、母親たちの情報交換は菓子を持ち寄ってここで行われることが多い。
紘毅たちを見守りながら、主婦たちは会話に花を咲かせる。
「あらあらまぁまぁ、言っちゃったわよ。さみしいって。しかも泣きそうなんですって」
「あ、涙落ちちゃったわ。でも大丈夫よ。紘ちゃんは、気づかれてないと思っているもの」
「紘ちゃんが朱莉ちゃんのことを好きなことなんて、朱莉ちゃん以外はみーんな知ってるのにねぇ」
「言っちゃだめよ。せっかく本人が誤魔化せていると思っているんだから」
「わかってるわよぉ。面白くなくなっちゃうものね」
娯楽の少ない村で、主婦たちの茶飲み話の種にされていることも知らず、紘毅は子どもたちと言い合っている。のどかで平和な、いつもの村の風景だ。青い空と、広がる大地。少し離れた小高い丘に、そびえたつ楠木。いつもの風景だった。
このときは、まだ。




