奏琳
朱莉を部屋から連れ出して、紘毅は朱莉の自室ではなく外に出た。先ほど腰をかけていた木の根元まで来て、やっと手を離す。
朱莉の反応が無い。振り返って顔を覗き込む。
「…やっぱり、泣いてるし」
声こそ上げていないものの、歯を食いしばって、肩を震わせて泣いている。紘毅は、左手を伸ばして朱莉の頭をぐりぐりと撫でた。朱莉は大粒の涙を隠しもせず、されるがままになっている。
「大丈夫だって。お前は絶対に愚かなんかじゃ…」
「ち、がうよ…」
「ん?」
泣いているせいで、声が聞き取りにくい。朱莉はもう一度言いなおした。
「違うもん。わたしのことじゃないもん」
「あ? ああ、別に俺は何を言われても気にしないから」
慣れてるし、とは言わない。
「蓮玉にも、ひどいことさせちゃった…」
「それはわたしの意思です」
黒い蝶が、朱莉の真後ろに浮いていた。振り返った朱莉は、濡れた目で蓮玉を見る。
「蓮玉は、攻撃なんて、したくないのに…」
地水風火を司る四精霊は、豊かな自然を母とする。
大自然の力は、時に地形や歴史を変えるほどの恐ろしさを持つ。圧倒的な力で以て、人間など軽く凌駕するのだ。
だが本来、自然とは優しくて暖かく、穏やかで大きなものだ。好んで何かに攻撃することは無い。ただありのまま、何者にも害されずにいられればそれでいいのだ。
その性質を知っている朱莉は、謝ることしか出来ない。自分の弱さのせいで、蓮玉に意にそぐわぬ行動を取らせてしまったのだから。
「ごめんね。あんな怖い顔させて、嫌な気分にさせてごめんね」
「姫が謝る必要はありません」
この星と生命を育んできた自然は、冷酷なものでは決してない。真の強さというものは、優しさがなければ生まれないものだ。だがだからこそ、怒らせたときの威力は甚大だ。育まれた側の人間に、止める術などありはしない。
例え精霊たちの主である朱莉であろうとも、本気で怒った精霊たちを止めるのは難しい。先ほど朱莉が蓮玉を止められたのは、蓮玉がまだ理性を保っていたからに過ぎない。
「朱莉。大丈夫だからもう泣くなって。あんまり泣いてると不細工になるぞ」
「姫に向かって不細工とはなんだ。無礼者」
朱莉の顔のすぐそばに浮いて、蓮玉が言う。
「なんだよ。元はといえばお前がぶち切れるから朱莉が泣いてんじゃねぇかよ」
「人のことを言えるか。貴様も似たようなものだっただろう」
「あの状況でおとなしくしてられるか!」
「ふん、子どもめ」
「悪かったな。って結局お前が先に割り込んだくせに俺に説教するなよ」
「貴様が出るより効果があると踏んだからだ。あれはすべて冷静な計算に基づいた行動であり、決して激情に駆られたわけではない」
「嘘つけ!」
「どっちもどっちです」
どこか呆れたような、しかし優しさに溢れた静かな声が、その場に響いた。
「あ…」
泣いていた朱莉が、腕に嵌っている冠に視線を落とす。
「奏琳…」
「姫。お手を」
冠から放たれた光に包まれて、ふわりと女性がその場に現れた。
「そのように乱暴に拭われては、お顔が腫れてしまいます」
自分の頬をこすっていた朱莉の手を取って、彼女は自身の袖で朱莉の頬を優しく撫でる。微笑は慈愛に満ちていた。
透き通る空のような色をした髪は緩やかにうねり、長さは蓮玉と同じく腰に届かんばかり。基本的には蓮玉と同じような出で立ちをしているが、基調は薄い水色で装具は濃紺。そして、蓮玉のように長剣は持っていない。長い髪の上のほうだけをまとめている飾りが、有事の際には武器へと変わる。平時の際の髪飾りは濃紺の蝶々の形だ。
彼女の名は奏琳。水の精霊である。水は、思いのままにその形状を変える。したがって、彼女の得物も彼女の意のままに形を変えるのだ。
「すぐに出て行けず、申し訳ありませんでした」
奏琳は、悲しそうに目を伏せる。
「お連れ出したい気持ちは山々でしたが、あそこでわたしまで出て行けば、伯母上様の更なる怒りを買うかと…」
「そんなの、奏琳のせいじゃないよ?」
朱莉が慌てて首をふる。奏琳は、主の頬に優しく手を当てたまま、小さく微笑んだ。
「おつらい思いをされましたね」
奏琳は、微笑んでいるのに泣き出しそうな顔をしている。心優しきこの精霊は、朱莉の痛みを自分の痛みとしてとらえるのだ。
「こらこら、二人で泣くなよ。俺らが泣かせてるみたいだろ」
「こやつに同意するのは気に食わぬが、そのとおりだ。奏琳、泣くな」
蓮玉は、同士である精霊に対しても厳しい口の利き方をする。慰めることはない。だが、彼がただ冷たいわけでは無いことは、朱莉を始め仲間たちがよく知っていた。
「それで、姫。いかがなさる」
口調を変えぬまま、蓮玉は朱莉と視線を合わせた。
「都行きの話です。お引き受けなさるのか」
「わたし…」
那珂の人格がどうであれ、都に病が蔓延していて医者を必要とするならば、行くべきなのだろう。それは朱莉も分かっている。だが口を開けば止めてしまいそうで、紘毅は黙っていた。
「朱莉や」
落ちかけた沈黙を破るように声をかけたのは、太慎だった。今度は玄関から出てきたらしく、ゆっくりと歩いてくる。
「伯母上が、宿に戻られるそうじゃ」
太慎の後ろから、不機嫌を隠そうともしない那珂が姿を見せた。朱莉の傍らに奏琳の姿を認めて、忌々しげに目を細める。
「…明日の朝、迎えに来ます。準備をしておきなさい」
「待てよ、朱莉はまだ行くとは言ってねぇだろ」
反射的に睨みつけた紘毅を、那珂は馬鹿にしたように笑う。その瞬間に蓮玉と奏琳の間に緊張が走ったことは、当人たちしか知らない。
「我が身可愛さに逃げるのかしら」
「なんだと?」
「都には病が蔓延しているわ。都に来れば、朱莉も病にかかる可能性はあるわね。それが怖いなら来なければいいけれど」
紘毅ではなく、朱莉を見て哂う。
「それで、朱莉の両親や他の一族はどう思うかしらね?」
朱莉は俯いた。言葉に傷付いたわけではない。実の伯母の視線が嫌だった。
「では朱莉。また明日」
那珂は言葉の効果と思い込んだようだ。満足そうにうなずくと、優雅に馬車に乗って去っていった。
馬車が完全に見えなくなってから、精霊二人の緊張が解けた。黒い蝶が奏琳を睨みつける。
「なぜ邪魔をした」
「攻撃をしてはならないと、姫は仰せでした」
今度こそ本当に那珂を攻撃しようとした蓮玉の風を、奏琳の水が阻んだのだ。正確には、氷が。薄い薄い、透明な氷の幕を張って蓮玉の風を押さえ込んだ。それは人間たちが誰も気付かないほどの薄い壁だったため、蓮玉が本気になれば破れないことはなかった。だが破れば飛び散った破片で朱莉たちにも被害が及ぶ。
「姫が喜ぶと思うのですか」
毅然とした視線をぶつけてくる奏琳に、蓮玉はなにも言わなかった。無言のままふよふよと飛んで、紘毅の肩に止まる。
「わたし、都へ行きます」
朱莉がそう宣言したのは、そのときだ。
「都へ、行きます。行って来ます、先生」
太慎を見て、もう一度言う。老人は、小さく微笑んでうなずいた。
「そうか…。うん、わかった。気をつけて行ってきなさい」
そう言って、朱莉の頭を撫でる。朱莉は、はいとうなずいてから紘毅を見た。
「紘毅、手」
「手?」
「出して!」
答える間もなく朱莉は紘毅の右手を両手で掴む。きつく閉じられたままだった拳を開けると、爪の形をなぞるように血が滲んでいた。
「血が…」
「ああ、そういえば」
「もう、なんでこんなになるまで握り締めるの!」
「なんで、と言われても」
握り締めた拳であの女を殴ってやりたかったとは言わない。そんなことを言ったらまた泣くだろうから。
沈黙した紘毅を特に気に留めず、朱莉は、開かせた手の上に、自分の両手を重ね合わせた。傷を包み込むように。やがて、徐々に朱莉の両手から暖かな光が漏れてくる。光は紘毅の手をもきれいに覆って、消えていくときには紘毅の手に傷は無かった。
この治癒能力こそ、蓮玉たち四精霊を従えられる、朱莉の力の一端だ。
「おー、久々に見た」
「久々にしたもん。紘毅が馬鹿なことするから」
「馬鹿って、お前な…」
「確かに馬鹿だな」
「うむ。馬鹿じゃ」
「まことに残念ながら、賢明とは言いがたいかと…」
蓮玉、太慎、奏琳に言われ、紘毅は三人をねめつける。
「おまえら…」
「わたし、都に行くけど…」
細く続いた声に、紘毅の意識が朱莉へと戻る。
「わたしがいない間に、やんちゃして怪我なんてしないようにね」
紘毅のほうを、見ないまま。
「…了解」
治った右手で、朱莉の頭を乱暴に撫でた。
その様子を、村の外れにある大きな楠木が見下ろしていた。




