蓮玉
朱莉は、自分の伯母を大の苦手としている。彼女の前に立つと、昔から萎縮してしまってろくに話せなくなる。目を合わせるのもつらいほど。ここ数年会っていなかった上に先触れも無く急に来られたので、不安は膨らむばかりだ。
伯母のことを特に嫌っているわけではない。苦手なだけだ。では何故苦手なのか。
伯母のほうが、朱莉のことを一方的に嫌悪しているからだ。憎悪と言ってもいい。
その理由を朱莉は知っている。それは確かに理不尽なもので、逆恨みにも近いものだ。だが朱莉には伯母の気持ちが解らないでもない。だから伯母の態度も仕方ないと思っているところがある。思っていてもやはり嫌われるのはつらいので、結果的に萎縮してしまうのだ。
一方、紘毅のほうは伯母のことを徹底的に嫌っている。その点では、蓮玉とも気が合っている。
「失礼します…」
扉を二回叩き、呟くように言って、朱莉は応接室の扉を開ける。中では、上座に近いところに伯母の那珂が眉間に皺を寄せて座っていた。朱莉の姿を認めた瞬間、さらに皺が深くなる。
不機嫌そうに朱莉を見て、視線が朱莉の腕にある冠で留まった。そんな那珂の脇、下座側に太慎が座っている。老人は、朱莉に小さくうなずいて見せた。
「お久しぶりね。朱莉」
ようやく冠から目を離した伯母は言った。
「はい。伯母上。お変わり無さそうで…」
「おかげさまでね。…何をしているの。早く扉を閉めてお座りなさい」
「すみません」
小さな声で返答して、朱莉は紘毅から離れ、那珂の正面に用意された座布団に座った。紘毅は扉近くから動かず、蓮玉は紘毅の肩に止まったままだ。もっとも、蓮玉の姿は那珂には見えていない。彼の姿は、彼が見せると決めた相手にしか見えないのだ。
「わたしは、朱莉と話をしに来たのだけど?」
那珂は、太慎と紘毅を交互に見ながら不遜に言った。暗に、部屋から出て行けということだ。だが冷たい視線を受けても、老人は動じなかった。
「なに、邪魔をする気はありませんよ。聞かれて困る話でもありますまい」
「姪と二人で話したいのよ。気を遣うのが礼儀ではないの? ああ、こんな田舎ではそんな礼儀も通じないのかしら。礼儀という言葉くらいはご存知?」
あまりの物言いに朱莉が抗議の声を上げようとするが、老人の視線が遮る。
「存じておりますよ。まあ、なんの先触れも出さずに突然手ぶらでやってくるのが都の礼儀というところまでは存じませんでしたが」
しれっと言い放つ老人を、那珂はむっとして睨みつける。
「田舎には田舎の礼儀がございましてな。お客人と大事に預かっている娘を二人だけにしないというのもその一つ。都人がご存じないのは仕方あるまいが、ここはご理解いただけませんかのう」
「そんな田舎の礼儀に付き合ってあげる義理は無いわ」
「ではこちらとしても都会の礼儀に付き合うことはできませんなぁ。朱莉を連れてここから出ますか? まあ、出来るものなら、ということになってしまいますが」
太慎の言葉に、那珂は顔を引き攣らせた。絶対に出来ないことを解っていて敢えて言っているからだ。
一方の紘毅は感心していた。さすがだ、親父、と。
この、太慎という老人。普段は好好爺然として温厚な気性をしてはいるが、一度怒らせるとそれはそれはすさまじいほどの怒りを見せる。それも、声を荒げるわけでも物に当たるわけでもなく、普段とそう変わらない表情のまま、辛らつな言葉を投げつけるのだ。
理不尽なことで怒ることは絶対にないし、誠意を持って謝ればしつこく言ってきたりもしないのだが、太慎はとにかく、筋が通っていないことが嫌いなのだ。
その性情は、拾われてきた紘毅にも立派に受け継がれているが、本人はそうと気付いていない。
怒りで顔を赤くした那珂は、小さく震えた。
「なんと無礼な…」
「伯母上。ご用件を」
ここで、か細い声ながらも朱莉が口を開いた。
「ここは、太慎先生のお住まいです。太慎先生がどこにいるかまで、伯母上が指示なさるのは…」
「お黙りなさい!」
朱莉が肩を跳ね上げる。
「あなたが口出しすることではありません」
「……申し訳ないです」
「まあいいわ。本題に入りましょう。どうせここに居る人たちにも伝えないといけないのだし」
那珂は、一つ息をついて朱莉を見た。
「朱莉。――都へ来なさい」
朱莉も紘毅も、一瞬では反応できなかった。最初に反応したのは、太慎だ。
「…と、おっしゃいますと?」
「都に、流行り病の被害が出ています。医者の数が足りていません」
「なんと…」
「まあ、こんな田舎には情報が届いていなくても当然でしょうけどね」
「ええ、おかげさまでつい先ほどまでは平和に暮らしておりましたよ」
相変わらず笑みを作ったままの太慎の言葉に那珂は目をむいたが、無視することに決めたのかとりあえず何も言わなかった。
「朱莉。あなたはまだまだ半人前で経験も能力も足りないけれど、いないよりはいくらか足しになるでしょう。あなたも都へ来て手伝いなさい。むろん、反論は無いわよね?」
言われて、朱莉はやっと小さく反応した。
「流行り、病…?」
「さっきからそうだと言っているでしょう。人の話はちゃんと聞きなさい」
「母上と、父上に被害は…」
「出ていないわ。今のところ」
「そうですか。良かった」
「いいから、早く準備にかかりなさい。時間が勿体無いわ」
煩わしそうに指示を出す那珂に、太慎が問いかける。
「流行り病と申しますと、どのような症状が出ておるのですか?」
「どんなって…。そうね、だから…。高熱と、絶え間ない吐き気。それに、体中に斑点が出て、ひどいかゆみがあるのよ」
「それはひどいですな。被害の人数と拡大の速度は?」
「正確な人数は判らないけれど、帝のお屋敷周辺に住んでいる民はほとんど。帝はまだかろうじてご無事だけど、家臣は何人か倒れているわ。速度は、速いと思うわね」
「では、こちらでも何か対策を練らねばなりますまいな」
医師の顔になった太慎を、那珂は馬鹿にしたように笑う。
「あなたがわざわざ策を講じずとも、わたしたちが薬を作れば分けてあげるわよ」
「おや、それは頼もしいことですな」
「伯母上…」
「よく聞きなさい、朱莉」
口を開きかけた朱莉を遮って、那珂は一段と厳しい声を出す。
「あなたの経験や知識などに、何も期待はしていません」
なら呼ぶんじゃねぇよ。
紘毅は両手を握り締めていた。かなり前から目が据わっている。爆発しないのは、ひとえに朱莉の立場を慮ってだ。那珂の顔など見たくもないので、朱莉の背中に視線を投じる。あの小さな姿の前に立って、全てを代わってやれればいいのに。
紘毅の心の中など知りもせず、那珂は続ける。
「あなた自身ではなく、あなたが従える四精霊」
その言葉に、ぴくりと蓮玉の羽根が動いた。
「彼らの力を、こういうときこそ役に立てなさい。あなたが来ても足手まといにならなければいいようなものだけど、あなたがいなければ精霊たちは動かないのでしょう?」
「でも、伯母上。彼らは」
「都に着いたら、あなたは何も考えずわたしの指示するとおりに彼らに命令なさい。役目はそれで十分よ。あと、余計なことはしないで。どうせ技術じゃ役に立たないのだから。いいわね?」
紘毅が無言で足を踏み出しかけたのと、小さく風が起こったのは同時だった。紘毅の肩から飛び立った蓮玉の、黒い羽根が淡く光っている。起こった風は紘毅の四肢に巻き付いて拘束した。この風は、自然に派生するものではない。
「伯母上。彼らはわたしの家臣ではないのです。命令のみで動かすことは出来ません。無論、病を治すために尽力してくれると思いますが、それは彼らの意思を尊重した上で…」
朱莉の言葉に、伯母は大仰にため息をついて見せた。
「どうしてあなたはそうやってわたしを馬鹿にするのかしら」
朱莉が慌てて首をふる。
「いえ、伯母上。わたしは」
「よくもまあ、目上の者にそんな口が利けたものね。育った環境も悪かったのでしょうけれど、元の素材が悪かったとしか思えないわ。あなたはどこまでわたしを見下したいの?」
「そんなつもりは…」
「正直におっしゃいなさいな。あなたはわたしを見下しているのでしょう? いいのよ、知っていたから怒らないわ。でも朱莉。たまたま精霊を呼び出せたからっていい気になるのはもうおよしなさい。あまりにみっともないもの。あなたが愚かで逆にかわいそうになるわ」
顎を上げて言う那珂に、朱莉は俯いた。その後方で、風は段々と大きくなる。
「わたしはね、そんなあなたの愚かさに早く気がついて欲しいのよ。それがあなたの為にもなるの。解る?」
朱莉は俯いたまま応えなかった。はいとは言いたくなかったし、わかりませんというのも違う気がしたからだ。怒りはなかった。哀しいと思うだけだ。
これ以上ないほどの怒りを表したのは、紘毅のほうだ。
「朱莉が、愚かだと…?」
あまりにも低くて小さな声だったので、声に気がついたのは隣にいた蓮玉だけだった。
「落ち着け。姫の心象が悪くなる」
そんなことは紘毅も解っている。気位ばかり高い朱莉の伯母は、朱莉が――というより吾妻の一族のものが、田舎の小さな診療所で暮らしていることを快く思っておらず、さらに紘毅の存在が気に障って仕方がないのだ。
出自もろくに判らない、教養もない人間は、吾妻家に関わってはいけないらしい。
紘毅は、那珂が朱莉につらく当たる理由に自分が少なからず関わっていることを知っている。自分の言動が、朱莉に迷惑をかけることを自覚している。だから何年かに一度、那珂が現れるときには極力口を出さないようにしているのだ。
同席しなければ済むような話だが、そうしたらしたで挨拶も出来ない無礼な子どもとして、朱莉に紘毅といることが如何に愚かであるかを諭すのだ。のみならず、紘毅を育てた太慎に対して思いつく限りの暴言を吐いてみせる。
そして、その後で必ず朱莉が泣く。
紘毅としては、それを避けたかった。だからずっと我慢していたが、すでに握り締めた両の拳には感覚が無い。
朱莉は、どんなに嫌でも那珂から逃げたことはない。伯母の自分への態度が逆恨みだと解っていながら、それを甘受している。捨て子である紘毅を理由にして余計につらく当たっていることを知っていて、どれほど悔しくても哀しくても、どんなに泣いても紘毅を責めたことはただの一度もない。
その朱莉の、どこが愚かだというのか。
「蓮玉、放せ。限界だ」
紘毅を拘束している風を起こしたのは、蓮玉である。蓮玉は、身体を前に向けたままちらりと紘毅を見た。
「貴様は出るな。また孤児だのなんだのと言われる。姫が傷付くだけだ」
「今も十分傷付いてるだろうが!」
「解っている。――わたしが行く」
言い終わらないうちに紘毅に自由が戻り、半瞬後に部屋全体に風が起こった。扉側から、上座へ向かって。突風といってもいい。紘毅は咄嗟に両腕を顔の前で交差させて身をかばったが、全力で、両足で踏ん張っていてもわずかに身体を扉側へ押し返された。
閉められた部屋の中で突風が起こるなど誰も想像しない。太慎が座布団からよろけ、那珂は悲鳴を上げた。ただ一人、朱莉だけは長い髪の一本も揺らすことなくその場に座ったままだった。これは当然である。
蓮玉は、朱莉を護る為だけに風を起こすのだ。
「れん…」
「姫。許可なく動いたこと、どうかご容赦願いたい」
朱莉の前に降り立った蓮玉は、片膝をついて軽く頭を下げた。その姿は、黒い蝶ではない。人間で言うなら二十歳代半ばの、かなり背の高い男だった。
浅黒い肌に、腰に届かんばかりの長い髪は白銀にきらめいている。ゆったりとした衣は乳白色を基調として模様は黒く、身に付けた鎧は同じく艶やかな黒。腰には細身の長剣があり、その柄と鞘にはやはり白と黒が折り重なった曲線模様の装飾が施されていた。この剣は片刃で、殺傷能力を有した風を起こすことが出来る。
人間の姿をとった蓮玉は、朱莉を背中に庇って那珂を視線で射抜いた。
「あ、あなた…」
驚愕に目を見開いて、那珂は悲鳴にも似た声を上げる。彼女が蓮玉の姿を見たのは何年かぶりだが、その正体は知っている。
それが朱莉を嫌悪する理由であり、欲しくてたまらないものだからだ。乾いた唇で、どうにか言葉をつむいだ。
「風の、精霊…」
蓮玉の正体は、地水風火を司る四精霊の一人。この世でただ一人、朱莉だけが呼び出すことと指示を出すことが出来る存在。
そして彼らこそが、朱莉が親元を離れて暮らす原因でもある。
「女。貴様、先ほどなんと言った」
蓮玉が、低い声で詰問する。その視線は、朱莉に向けるものからは程遠い。
「貴様、姫を通じて間接的に我ら四精霊を操る気か」
言いながら、目が剣呑に細められる。
「身の程知らずが」
蓮玉が右手を翳す。それが合図であることを、朱莉は知っていた。だから、必死で蓮玉にしがみついた。
「だめ!」
「姫?」
「止めて、蓮玉。お願い」
人の姿をとった蓮玉は、背が高い上に相当な筋肉質だ。朱莉一人腕にしがみついてきたところでどうということもない。そもそも、精霊たちに現実社会の質量はあまり関係が無い。
だが、朱莉は彼の主である。むやみに振りほどくわけにはいかない。
「姫。お手を離していただきたい」
蓮玉の言葉に、朱莉はかぶりを振った。
「攻撃しないで。…お願いだから」
蓮玉は、応えなかった。ただ、一瞬目を伏せて静かに腕を下ろす。それが、了承の意思表示だった。朱莉はほっと息をつく。
「ありがとう」
その朱莉の手首を、ぐっと掴む手があった。紘毅である。
「こう…」
「行くぞ」
言って、返事も待たずに歩き出す。
「え。あの、紘毅…」
「お待ちなさい!」
金切り声が上がる。紘毅は、心底嫌そうに振り返った。
「なんだよ、ばばぁ。うるせーな」
「なっ、なんて口を…。いえ、あなたに言葉遣いなんて求めていないわ。朱莉!」
びくりとして、朱莉が振り返る。
「い、いつから精霊がそこに…。最初から待機させていたのね? わたしは騙されないわよ。わざと攻撃させて、わざとわたしを庇うような真似をしたのでしょう? なんて姑息で卑怯なことを思いつくのかしら!」
「思いついたのはあんただろ、化粧おばけみたいな顔しやがって。本物のおばけがびっくりするだろうが」
「紘毅!」
さすがに朱莉が声を上げるが、紘毅に聞く気は無い。
「朱莉は絶対愚かじゃない」
まっすぐに、強く那珂を見据える。その強さは、暖かさとして朱莉の手に直接伝わってきた。
誰も、何も言わなかった。
「…行こう」
朱莉は、今度は抵抗しなかった。おとなしく紘毅に連れられて行く。
蓮玉はちらりと那珂、そして太慎に一瞥をやり、そのまま黒い蝶の姿に戻る。その時点で、那珂には蓮玉が見えなくなった。




