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朱莉と紘毅

 桜が完全に散ったばかりの季節。村を駆け抜ける風は心地いい。ここ数日はずっと晴天だ。ふと思いついて、彼は手近な木に足をかけた。ある程度上って、太い枝の一つに腰をかける。見晴らしもよく、枝と葉はちょうどいい影を作り、風がさらに気持ちよくなった。

 と、自分の家の勝手口が開く。予想していた通りの顔が出てきて、彼は口元を綻ばせた。

「しゅーりー」

 上方からかけられた声に、少女は顔を上げた。少し驚いて、それから呆れたように笑う。

「そんなとこにいると危ないよ、紘毅(こうき)

 小さな村にある小さな診療所。ここが紘毅の家だ。勝手口から出てきた少女の名を、朱莉(しゅり)という。

 紘毅は色素の薄い茶色の短髪。藍白色の貫頭衣を身にまとって、動きやすいようにところどころを革紐で止め、下半身には黒茶色の袴。草履を履いた足を枝から投げ出し、ぶらぶらと揺らしている。溌剌と笑うその顔には生気が溢れ、いつでもいたずらっ子のように目が輝いている。背中にくくりつけられた長剣は、彼の相棒でありお守りだ。

 一方の朱莉は、白く玉のような肌に大きな眼が特徴だ。まっすぐ伸びた黒髪をゆったりと結んでいる。珊瑚色の小袖に襷をかけていて、袖から覗く腕は白く細い。左の手首に嵌めている幅のある色彩豊かな冠が、日の光を浴びて輝いていた。

「よねさんとこの屋根修理はもう済んだの?」

「ああ。ちゃんと塞いできたよ。もう雨漏りもしないだろ。たぶん」

 答えながら朱莉を見下ろしていた紘毅は、彼女の両手にある大きな水張り桶を見て首をかしげた。

「あれ、なんでまた汲みに行ってんだ? 水なら、今朝俺が補充したばっかりなのに」

「さっきの診療でたくさん使っちゃったの。足りなくなってからじゃ遅いから」

「ふうん」

 答えてから、勢いをつけて木から飛び降りた。体勢をまったく崩すことなく朱莉の前に降り立って、その手から桶を奪う。

「持って行ってくれるの?」

「おう。っていうかお前じゃ二つは持てないだろ。呼びに来いよ」

「一個ずつなら運べるかと思って。紘毅はよねさんとこだったし」

「そりゃそうか。じゃあまあ、いい時に戻ってきたな。さすが俺」

「うん。ありがとう」

 朱莉が嬉しそうに笑って、二人は、並んで井戸へと歩き出した。


 この二人。決して夫婦ではない。世間様で言う、恋仲でもない。立場だけを言うなら同じ村に住む村人同士。幼馴染というのも一応当てはまるが、一番近いのは兄妹かもしれない。

 紘毅は孤児だ。いつ、どこで産まれたのかも、その両親も定かではない。

十七年前の夏。雨飛沫で視界が曇るほど激しい雷雨の日。村外れにある楠木の根元に、布に包まれて置き去りにされていたのが紘毅だ。今まさに産み落とされたばかりの赤子の隣には、今も紘毅が背中に担いでいる大剣が置かれていた。往診帰りに通りがかった診療所の医師が、彼の育ての親だ。

 一方の朱莉は、紘毅が拾われてから六年後、四歳になる歳に訳あってこの診療所に預けられた。それからずっと同じ家で一緒に育ってきたのだ。

 二人は共に里親の診療所を手伝っており、紘毅は近所の子どもたちに剣術も教えている。

 誰が教えたわけでもないのに、紘毅は歳を追うごとにその長剣を自在に操れるようになっていった。平和な村なので、剣が血に濡れたことはなく、その使い道はもっぱら薪を割ることに使われているが。

「で、今日の夕飯は?」

 井戸から汲み出した水を桶に移しながら、紘毅が朱莉に聞く。

「うーん。何にしようかなぁ」

 朱莉は、姓を吾妻という。吾妻といえば、知らぬものはいないほどに有名な薬師の家系だ。

 この世に薬師は多々あれど、吾妻の薬師は特別なのだ。薬師――つまり医者であるが、まず使う薬が違う。一般的に薬師は、薬草を煎じて薬とするが、吾妻家が煎じるのは薬草と認識されている草だけではない。一般人にはただの雑草も、効果がないとされている木々でさえも治療に利用する。煎じるだけでは効果のない植物から、薬になるだけの力を引き出すのだ。それだけの能力が、吾妻の家系には備わっている。

 それだけではない。吾妻家の最大の特徴は、結界だ。

 吾妻家の薬師は、治療の際に結界を作る。患部に外気が触れないよう、また薬に雑菌が入らぬよう、患部の周りに結界を張って治療を行なうのだ。吾妻の薬師は、薬師であると同時に結界師でもある。

 この能力は、完全に生まれ付きのものだ。努力しだいで薬草に詳しくはなれる。呪文も覚えられる。印も結べる。しかしいくら詳しくなろうとも、印を結んで呪文を唱えようとも、それに呼応する能力が無ければただの知識だ。力としては生きないし、発動もしない。

 数百年の昔は、吾妻のほかにも、さまざまな能力を有した民族が多数存在していたという。しかし、元から多くなかった民族は能力保持のために一族のみの婚姻を繰り返し、結果として衰退していった。吾妻が生き残れたのは、その術の属性によるものだ。

 事実上、朱莉は吾妻家の中でも能力者の中でも、現時点では最後に産まれた子どもである。両親二人とも秀でた術者であり、現在は村から遠く離れた都で、帝のお抱え薬師として働いている。

朱莉の歳は十と五つ。夏が終わるころには一つ歳を取る。幼さを残しながらも凛とした顔立ちは、あと数年もすれば間違いなく誰もが振り返るほどの眉目となるだろうと、もっぱらの噂だ。


 桶を二つ持って歩く紘毅の隣で、朱莉は考えながら言う。

「さっきお野菜をいっぱいもらったし、新鮮なお魚もあるし。煮付けにしようかな」

「賛成。味噌汁は豆腐にしてくれ」

「またー? 好きだね、お豆腐。じゃあ買いに行かなきゃ」

「俺が行くよ。お前も来るか?」

「断る。貴様一人で行って来い」

 唐突に、低くてよく通る成人男性の声がした。

「げっ」

 反射的に、紘毅が後退る。次の瞬間、朱莉の左手首にある冠が光った。青白い閃光が天空へと走り、あまりの眩しさに紘毅は目を細める。やがて光はゆっくりと収束していき、一頭の蝶がそこに現れた。

 それは、自然に生息している蝶よりもかなり大きい。羽根を広げた姿は朱莉の顔を覆うほど。漆黒の羽根には幾筋もの白い曲線模様が走り、白銀色の尾は一尺程度。蝶であるがゆえに表情は読めないが、朱莉を庇うように紘毅の正面に浮遊する様は、あまり機嫌が良さそうではない。

「…蓮玉…」

 れんぎょく、と呼ばれた蝶は、朱莉に振り向いて軽く会釈した。人間のそれと違って、身体ごと傾ける形ではあったが。

 人語を操る蝶は、当然普通の蝶ではない。

「なんで急に出て来るんだよ?」

 食って掛かるのは紘毅だ。彼は、蓮玉(れんぎょく)を苦手としている。

「わたしが出てくるときは大抵が急にだ。今更だろう。何を言っている」

 蓮玉は誰に対しても、またいかなる場面にあっても大抵は不機嫌そうな態度を取る。それは常に不機嫌だからではなく、元々そういう性格なのだが。彼が本当に不機嫌なのかそうではないかを判別できる者は少ない。

 距離は詰めぬまま、紘毅はさらに言う。

「どういった理由があって出て来たのかって言ってんだよ」

「貴様が我が姫にいらんちょっかいを出そうとするからだ」

「なんもしてねぇだろが!」

「二人で出かけるだけで十分だ」

 にべもなく言われ、引きつった顔の紘毅に蓮玉はさらに畳み掛ける。

「そもそも毎日毎日豆腐豆腐と言うな。姫が飽きてしまわれるだろうが」

「蓮玉、いいんだよ。わたしもお豆腐、好きだし」

「姫のそのお心遣い、こやつにはもったいないものと存ずる」

 蓮玉は朱莉のことを姫と呼ぶ。朱莉の存在こそが蓮玉の命に直接繋がっているからだ。

「姫にこうまで気を遣わせるとは…」

 蓮玉は、やれやれとでも言いたげに息を吐いて紘毅を見た。

「やはり、貴様に姫はやれんな」

「なっ」

「え?」

「ちょっと待て! なんでお前が決める! っつーか俺はまだ欲しいなんて言ってないだろ!」

「まだとか言っている時点でおかしいということに気がつけ、愚か者」

「誰が愚かだ、ここは正直者だと褒めるとこだろ」

「わかった、褒めてやる代わりに姫はやらん」

「褒めてない上に代わりになってない!」

 ぎゃんぎゃんと言い合う一人と一頭に、朱莉は首をかしげた。

「ねえ、二人とも。なんの話?」

 素朴な疑問に、紘毅と蓮玉はぴたりと動きを止めた。

「いやべつになんでもないけど、蓮玉が俺にいじわるなんだよ」

「いえべつに姫のお耳を煩わせるようなことではありませんが、この子どもに世の(ことわり)を少々」

「俺は世の中からも断られてんのか!」

「字が違うわ、馬鹿者!」

 言い返そうとした紘毅を遮るように、後方から声がした。

「朱莉や」

 診療所の勝手口が開いて、老人が手招きをしている。この診療所の医師であり、朱莉の師匠であり紘毅の育ての親である。老人の名を、太慎(たいしん)という。

 老人は、年齢だけを言うなら紘毅の親というより祖父といったほうが近い。柔和な顔つきはいかにも小さな村の好好爺で、的確な診療と温厚な性格は村の人々にたいそう親しまれている。太慎の家系は、もう何代も前からこの村の医師なのだ。

 太慎は朱莉の肩近くに蓮玉の姿を認め、驚く様子もなく頭を下げた。彼は蓮玉の正体を知っている。

「先生。ごめんなさい、水ならすぐに…」

 慌てる朱莉に、太慎はいいやと首を振った。

「お客じゃ」

「わたしに?」

「ああ。伯母上が来られた」

「え…」

 朱莉の顔に、瞬時に緊張が走る。紘毅の表情も変わり、蓮玉は目を細めた。もっとも、蝶である彼が眼を細めても、誰も気付きはしなかったが。

「伯母上、が?」

 恐る恐るといった風に問い返す朱莉に、太慎はうなずく。

「手を洗って、応接室に来なさい。待たれておる」

「あの、でも…わたし…」

「なあ、それ絶対に会わなきゃなんねぇの?」

 横合いから、紘毅が口を挟んだ。太慎は、困ったように笑いながら返答する。

「都から、遠路はるばる来られたのじゃからな。会わないわけにもいかんじゃろう。これ、呼んでもいないのにという顔をするでない。お前も同席して構わんから、来なさい」

 草履を履いて出てきた太慎は、下を向いてしまった朱莉の肩にぽんと手を置く。

「会うだけ会ってきなさい。なに、わたしも紘毅も同席する。案ずることは無かろうて」

「はい…」

 力なくうなずいて、朱莉は表玄関に向かう。勝手口からそのまま上がっていかなかったのは、表玄関から行ったほうが応接室まで遠いからだ。その後ろを、紘毅と蓮玉が静かについていく――わけが無かった。紘毅はずかずかと歩いて、蓮玉はその紘毅の肩に止まってついてくる。

「おい朱莉。逃げるなら今だ。俺が許す。あんなばばぁに会うことはない。逃げちまえ」

「姫。こやつなどに頼らずとも、姫が会いたくないと一言おっしゃればわたしがあなたを連れて逃げます」

「こら朱莉、いいか、どうせ会ったところでお前の気分は沈む一方だ。ここは一つ、腹痛で寝込んでることにするってのはどうだ?」

「待て、腹痛であれば太慎殿が最初からそう言う筈ではないか」

「そりゃそうか。なら急な腹痛だ。これでどうだ」

「見舞いだといって部屋まで来たらどうする」

「だったら急な頭痛で」

「同じだ。たわけ」

「うるさい、お前も考えろよ」

「姫がご命令を下さらないことにはどうにもできん」

「命令がないとなんもできんのか!」

「我らはそういう生き物だ」

「ええい、お前ってやつは――」

「…二人とも」

 それまで黙っていた朱莉が、静かに口を開く。

「どうした朱莉、逃げるか? よし、どこに行く? よねばあちゃんとこでまんじゅうでももらうか?」

 朱莉は、首を振った。

「逃げないよ。もう部屋の前だもん。中に入ったら静かにしててね」

「え、いつの間に」

「貴様がべらべらと話しているうちにだ」

「あー、なるほど。ってお前もだろうが!」

 冷静な声に、納得しかけた紘毅が声を荒げる。そんな一人と一頭を見て、朱莉は笑った。

「大丈夫だよ。二人がついててくれるなら平気。だから、静かにしててね?」

 その顔に、何も言えなくなる。朱莉は、応接室に入る前に隣の診療室に入り、たすきを外してまくっていた袖を下ろし、髪をまとめていた紐を解いた。艶やかな黒髪が、ふわりと漂う。

「着替えてる時間は無いから、これでいいよね。じゃあ、行こうか」

「…おう」

 返答する紘毅の肩の上で、蓮玉も不機嫌なままにうなずいた。

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