序幕
雨が、降っていた。
くぅくぅと寝入っている赤子に、老人はゆっくりと手を伸ばす。
雨は、容赦なく老人を叩きつけた。
伸ばした両手は、震えていた。
*
ここに、伝説がある。
数百年の昔、まだ、人に人ならざる能力がかろうじて残っていた頃。世の中に、幻術師と呼ばれる一族が存在していた。
彼らの能力は、その名のとおり幻術。使用方法によってはどんな能力よりも秀でたその能力を、残念ながら彼らは暴力という形でしか使用しなかった。血の繋がった自分たちだけがこの世で特別だと信じていた。
とりわけ一族の長は術に秀でており、一族に逆らう人間には、術を使って身を焼かれているような幻覚を見せ、思い込みで死にいたるまで苦しめたという。彼らは一つの村に狙いを定めると、まさに猛獣の勢いで村を食いつくし、恐怖という鎖に絡めとられた村人たちは、生きるために唯々諾々と幻術師たちに従うしかなかった。
かろうじて村を逃げ出した人々の訴えを聞き、当代帝は兵を動かした。帝を守るために雇っていた術師の数人も送り込み、討伐しようとした。しかし、幻術師たちはそのことごとくを退ける。のみならず、帝にその座を明け渡せと要求した。さもなければ、国中を蹂躙すると。
帝は断った。だが、幻術師たちを討ち取ることも捕縛することも出来ないまま、時は過ぎていく。
もはや、幻術師一族が世界を征服するのは時間の問題かと思われた。みな、諦めることを生きることと思い始めていた。
しかし、ある日。そんな現状はたった一人の女性によって打破される。
伝説は、語る。
たった一本の剣で幻術師一族郎党すべてを打ち滅ぼした女性。艶やかな黒い髪に、黒曜石のような瞳。その瞳から放たれる眼光は何者よりも強く澄んでいた。
彼女は、何もない空間から火を起こし、風を操って敵の自由を奪い、氷の矢を放ち、大地を陥没させたという。戦いを見ていた村人は、妖術だと信じた。
数十人もいた幻術師たちは彼女の前に次々と散っていき、最後に残ったのは幻術師の長。その頃には満身創痍だった女性は、妖術ではなく諸刃の剣で長と対峙した。
やがて長も散る。村はずれに生えていた巨大な楠木が、彼の墓場となった。
そして、ほどなく彼女も散った。彼女の素性はまったく分からなかったが、彼女の名は世界を救った神女として、今もなお広く知られている。
彼女の名は――紅爛。




