楼峻
紘毅たちの住む村から都まで、馬車なら四日ほどで着く。一日目の今日は、村がある地方を出るだけで夜になるだろうとのことだった。
淡々と説明する伯母に、朱莉はただうなずくことしか出来ない。数刻走ったあたりから陽が高くなり、昼餉時になる。馬車が止まったのは、村からだいぶ離れた町の、食事処が並ぶ通りの一角だった。
「昼食を摂ります。お金はあげるから、好きなところに入って勝手に食べてきなさい。わたしは寄るところがあります。一時したら戻るから、あなたは食べたらすぐに馬車で待っていなさい。いいわね?」
いいわねと言っておいて、朱莉の返事も待たずに歩き出す。御者もついていくところを見ると、単なる御者ではなく雇われた付人なのだろう。その背中に、朱莉は小さな声で了承の返事をした。
那珂から渡された食事代は、少なくはなかった。一人で食べるには多いほどだ。それは、朱莉に好きなものを好きなだけ食べさせようとしているわけではなく、後々で吾妻一族の者たちにちゃんと面倒を見ていたと認識させるためだ。放った言葉は残らないが、渡した金なら朱莉が使わなければ残る。たくさん残っていればいるほど、たくさん渡したことになり、結果的に那珂が朱莉の面倒を見ていたということになる。
だからといってどうとは思わなかった。自分の食事代になる程度の資金は持って来ているから、使わずに済んで良かったというくらいだ。
しかし渡された金を全部使ってしまうと、後で何を言われるかわからない。それでなくても、朱莉は金を使うことがあまり上手ではない。小さな村では、診療に使う機器以外はほとんどが物々交換で賄えるからだ。
少し迷ったが、朱莉は結局もらった金を財布にしまった。
二頭の馬が繋がれている木の根元まで戻って、ちょこんと座る。荷物の中から握り飯を二つと竹筒を取り出した。伯母から食事が与えられないと思っていたわけではないが、念のためと思い、今朝の朝食を作るときに、ついでに握っておいたのだ。
白い握り飯を見詰めて、朱莉はしばらく動かなかった。
「…召し上がらないのですか?」
あまりに動かない朱莉に業を煮やしたのか、冠が光って奏琳が現れる。人間の形ではなく、尾の長い蝶の姿で。奏琳が蝶の姿をとると、羽根の色は濃紺だ。蓮玉と同じような曲線模様は、よく晴れた空の色をしている。
「あんまり、食欲が無くて」
細々と答えた朱莉に、奏琳は気遣うように言葉をつむいだ。
「それでも、少しでも食べませんとお身体に障ります」
「うん…。ねえ、奏琳も食べる?」
「え? いえ、わたしは…」
「そうだよねぇ。ごめんね」
「いえ。姫が謝ることではございません」
精霊たちは、人間と同じ食事を摂ることは無い。空気中にある水分や日の光、暖かな風などを栄養源としているからだ。
朱莉はため息をついた。食欲はないが、このまま食べないでいると奏琳たちが心配するだろう。後からお腹が空いても困る。そう思って、握り飯を一口かじった。
その様子を、奏琳が心配そうに見つめている。心配するだけの理由があった。何もなくても心配するが、食事のこととなるとその心配度数は跳ね上がる。
奏琳の気持ちを見透かしたように、朱莉は笑った。
「大丈夫だよ。ちゃんと食べるから。心配かけてごめんね」
「いえ…。ああ、そうです。良かったら、お水を」
「え?」
「お水を、ご一緒してもよろしいですか? わたしも、いささか喉が渇きました」
奏琳の申し出に、朱莉は少しだけ驚き、そして笑った。
「うん!」
にこやかに笑って、竹筒を差し出す。半瞬で人型をとった奏琳は、朱莉の横に腰掛けた。
「いただきます」
揃った声は、温かい風に流れていった。
朱莉は一度、倒れるまで食べなくなったことがある。その時のことを思い出し、奏琳は主が食事を始めたことに心底安堵していた。
その心中を、朱莉がどのくらい正確に理解しているかは、判らない。
「ねえ、奏琳」
「はい?」
「紘毅と先生は、もうお昼ご飯食べたかなぁ」
「そうですね。そろそろではないでしょうか」
中途半端に中空を見詰めながら、朱莉はぽつりぽつりと言葉をつむぐ。
「やっぱり、静かだねぇ」
「そうですね」
「さっきね、少し、思い出していたの」
「なにをですか?」
「馬車に、乗ったとき。十二年ぶりだなと思って」
後部の窓から顔は出せなかった。笑える自信が無かったからだ。
がらがらと音を立てる馬車に身を委ねながら、朱莉もまた、思い出していたのだ。
紘毅と初めて会ったときのことを。
「奏琳は、覚えてる?」
「ええ、鮮明に覚えております」
十二年前、朱莉は初めて馬車に乗った。道中で、紘毅のことは太慎から聞いていた。朱莉と近い歳の男児がいて、一緒に暮らすことになる。とても優しい子だから心配はいらないと。
朱莉は緊張していた。吾妻家は帝に仕えているため、朱莉は歳の近い子どもと遊んだことなどなく、それでなくても知らない人だらけの村に行くのは不安だった。
不安を抱えたまま村に着いて、太慎に手を引かれて馬車から降りると、紘毅がいた。
恐れを知らない真っ直ぐな目で見詰められ、太慎の影に隠れながらも目を逸らせなかったことを覚えている。
「姫? いかがなさいました?」
覗きこんでくる奏琳に、朱莉は力なく微笑んだ。
「…あれから、初めてなんだね。わたしが、村を出るの」
それはつまり、紘毅や太慎と離れるのも初めてだということだ。なんと答えていいのか分からず言葉に詰まった奏琳に、朱莉は「あのね」と声をかける。
「今朝、おもしろかったんだよ」
「なにがですか?」
うながす声はどこまでも優しい。
「紘毅がね、朝ご飯の準備を手伝ってくれたの」
「まあ、それは珍しい」
紘毅は、家事を朱莉に押し付けるようなことはしない。ただ、料理に関しては作るのが朱莉、片づけが紘毅と昔から決まっている。
「珍しいでしょう? でもね、全然うまくいかないの」
「こう言ってはなんですが、あまり器用な方ではいらっしゃいませんから…」
「そうなの。なのにね、手伝うって言うから包丁を持たせてみたら、大根を切ろうとして何を切ったと思う?」
問われて、奏琳はしばし考える。今朝見た限りでは、紘毅は指に怪我などしていないようだった。包丁ではまな板は切れまい。となると。
「まな板においてあった、別の食材でしょうか?」
「ううん。包丁」
主の言った言葉が理解できずに、奏琳はそのまま聞き返した。
「包丁で、包丁を、ですか?」
「違うの。包丁を渡したんだけど、使い慣れてるほうがいいからって、自分の剣を使ったの。それでね、傍に置いてあった包丁をすぱーんと」
「……それはそれで、器用であるような…」
長剣で包丁を切る光景。同胞である火精霊が見たら、腹を抱えて笑ったかもしれない。
「紘毅、おっちょこちょいだよねぇ」
それは果たしておっちょこちょいだよねぇなどと言っている場合かどうか奏琳には判りかねたが、とりあえず主が笑っているので良しとした。奏琳も表情を和らげ――瞬く間もなく蝶の姿へと戻った。
「朱莉」
同時に響いた声に、朱莉が身を硬くする。那珂と御者が戻ってきていた。
「伯母上…。お、おかえりなさい」
「そんなところで何をしているの。乞食にでも間違われたらどうするの?」
「あの、お天気が、良かったから…」
最後まで言わせず、那珂は大げさに首を振った。
「あなたはそんなにわたしに恥をかかせたいの? 本当に、なんでも利用しようとするんだから。卑しい子ね」
俯いた朱莉の肩に、奏琳が止まる。人間の姿でいたほうが那珂を威圧できるだろうが、そうするとまた昨日のようにわざとだなんだと騒がれる。
普通の人間に精霊たちの姿が見えるのは、彼らが人の姿を取ったときだけだ。蝶のときは、主である朱莉と、彼らが見せてもいいと判断した人間にしか見えない。
「早く馬車にお乗りなさい。そんなところで待っていたって誰もなにも恵んでなんかくれないわよ」
那珂には見えない角度で、朱莉が奏琳の羽根を撫でた。決して攻撃しないようにという意味だ。
「はい。すぐに行きます、伯母上」
と、馬車に向かっていた那珂が突然なにかにつまずいた。
「きゃぁっ!」
「お、伯母上!?」
慌てて駆け寄れば、那珂の足元の地面が浅く陥没していた。気付かずに足を取られたらしい。
「大丈夫ですか?」
貸そうとした朱莉の手は振り払われた。自力で起き上がった那珂は御者に怒鳴る。
「あなた、こんなところに馬車を停めるなんてどういうつもり? 怪我をしたらどうしてくれるの! 御者ならそのくらい確認なさい!」
言うだけ言ってから、いらいらと馬車に乗り込んだ。御者はあたふたと頭を下げている。朱莉も黙って馬車に乗り込んだ。だが本当は知っていた。もちろん奏琳も知っていた。
あの場所に、本当は陥没など無かった。朱莉が馬車に乗ろうとした瞬間、陥没は消えてちゃんとした地面に戻ったのだから。それどころか、馬車の扉に向かって緩やかな盛り上がりが作られた。朱莉が乗りやすいように。
「…お叱りにならないでくださいね」
小声で言った奏琳に、朱莉は笑って首をふる。
「しないよ。ありがとう。……楼峻」
地精霊の名を、楼峻という。
めったに姿を見せない彼が、那珂をつまずかせたのだ。普段はよほどのことが限り動かない精霊なのだが、主に対する那珂の態度はさすがに腹に据えかねたらしい。
姿こそ見せないものの、それでも護ってくれている。紘毅も太慎も、きっと自分を応援してくれている。朱莉は嬉しくなった。
大丈夫。がんばる。がんばれるよ。
再会は遠くないと、信じているから。




