タイトル未定2026/07/11 14:40
冷めた目で朱莉を見た紘毅は、立ちはだかる精霊二人など眼中にないかのように真っ直ぐに歩き出した。朱莉に向かって。
「…捉えるよ」
誄岑の言葉には、確固たる意志があった。呼吸を見計らっていたように、紘毅の足元の土が突然陥没した。楼峻の力で、大地が紘毅の足を絡め取る。間を置かず、動きを読んでいた誄岑が苦無を投げた。後追いするように蓮玉が風を派生させる。焔を纏って飛ぶ苦無の一つ一つを違う強さの風で煽って、連続攻撃になるように緩急を付けたのだ。
足を取られている紘毅は、避けることもできずに苦無を四肢に受ける―――はずだった。
「なっ…」
驚愕の声を上げたのは精霊たちの誰だったか。紘毅は、こともあろうに苦無をすべて素手で受け止めたのだ。苦無の焔は紘毅の手を焼いているのに、痛みを感じないのか表情を変えぬまま。
手に持った苦無を投げ捨てて、紘毅は大地に長剣を突き刺した。地響きがして、彼の拘束が解ける。
「楼峻!」
誄岑が叫ぶと同時に、紘毅が走り出した。再び苦無を投げるが、今度は剣の一振りで落とされてしまう。
「くそっ!」
どうしても、急所を狙えない。
せめて、あれが紘毅の姿をしていなければ。
歯噛みする誄岑の前に、蓮玉が出る。丸腰の彼は両手で風を派生させ、いくつものかまいたちを紘毅に向かわせた。さすがにすべては避けきれず、紘毅の四肢にいくつもの切り傷が入る。しかし彼は止まらなかった。
「痛みを感じないのか…!?」
にぃと笑った紘毅の進む道が、今度は激しく盛り上がる。体制を崩した紘毅はしかし、再び大地に剣を突き立てる。
「がぁっ!」
誄岑でも蓮玉でもない。楼峻の声だった。
「楼峻、どうした!」
「楼峻!」
大地のうねりが収まっても、楼峻からの返答はない。顔色を変えた精霊たちを嘲笑うかのように、紘毅はさらに駆けて来る。もう、ほとんど距離はない。
「蓮玉、誄岑、かがんでください!!」
後方から聞こえた声に、二人は咄嗟に身をかがめる。その二人の頭上を、氷の矢が何十本と駆け抜けた。奏琳だ。風の結界は、奏琳の氷なら通り抜けられる。
これは思わぬ伏兵だったのか、紘毅は避ける間もなく顔や両足を切られて膝を付く。しかし、今の紘毅はどう見ても痛みを感じていない。何事もなかったかのように、彼は立ち上がって剣を構えた。剣先は相変わらず精霊たちではなく、まっすぐに朱莉に向けられている。
「止まれ紘毅! 貴様、朱莉様のことまで忘れたか!」
叫んだ蓮玉に、ぴくり、と紘毅の腕が止まる。構えた剣の切っ先を、一瞬下げた。機を逃さず、誄岑が畳み掛ける。
「朱莉様だ、紘毅! 決して危害を加えないと、お前自身に誓っただろう!」
「紘毅!!」
響いたのは朱莉の声だ。ややあって、紘毅は切っ先を完全に下げ、歩みを止めた。俯いた表情が見えなくなる。
そのまましばらく動かなくなり、誰も何も言わなかった。
「…紘毅、か?」
やがて、伺うように蓮玉が言う。
「こう…」
刹那、紘毅は剣を横なぎに振り払った。切っ先を下げた状態からではない。紘毅は肩の高さでまっすぐに剣を振り払っていた。
下げたように見せられていたのだ、幻術で。
「――――――――――――っ!!」
蓮玉が、誄岑が、奏琳が吹き飛んだ。あるいは診療所に、あるいは畑に、あるいは大地に叩きつけられる。
「かはっ!」
精霊たちは人間ではないので、叩きつけられても傷ができることも血を流すことも無い。だが痛みは人間と同じように感じるし、そのまま意識を失うこともある。
「蓮玉、誄岑、奏琳!!」
結界の中から、朱莉は必死に精霊たちを呼んだ。だが、誰一人としてもぴくりともしない。
「楼峻!」
大地の精霊は先ほどから一度も返事がない。半狂乱になって叫ぶ朱莉に、紘毅が一歩一歩近づいてくる。
結界の中で、朱莉は思わず身を引いた。
「紘毅…。紘毅、ねぇ、起きて…」
やがて二人の距離はおよそ二間というところになって、紘毅はそこでいったん足を止めた。見下ろしてくるその瞳があまりにも冷たくて、朱莉は固まってしまう。
「こう…」
言いかけた朱莉を遮るように、紘毅は剣を真一文に薙いだ。あまりにもあっさりと、風の結界は崩れ去る。衝撃によって、朱莉はぺたんと座り込んだ。
精霊の作った結界が、他人によって壊される。それは、結界を作った精霊の力が著しく低下していることを示す。そのことに思い当たって、朱莉の心臓の鼓動が跳ね上がった。
「蓮玉…」
返事は無い。ただ、彼との約束が心にある。
――約束を、していただけますか。
是、と朱莉は応えた。精霊たちは自分が護ると。
震える視線を彷徨わせれば、大地に叩きつけられた精霊たちが目に入った。太慎が待っているであろう診療所と、今も眠っている村人たちの家も。
約束を、守らなければ。精霊たちを、ひいてはこの地に住む人々を護らなければ。
頭のどこかでそう思いながらも、身体は動いてくれない。こうしている間にも、紘毅はさらに近づいてくる。座り込んだまま身を引いていくと、何かが手に当たった。
「あ…」
さきほど紘毅を弾いた、紅爛の長剣だ。この場では唯一紘毅を止められるであろう、破魔と浄化の力を持つ長剣。
だが。
ゆるゆると、朱莉は首を振った。
「…そんな…そんなこと…」
解っている。紘毅が幻術師として覚醒している以上、封じられるのはこの長剣と、紅爛の子孫である朱莉しかいない。いやたとえ子孫ではなくとも、もう朱莉しか残っていない。精霊たちはみな倒れてしまった。
彼らは約束を守り、朱莉を護って倒れていった。朱莉は知っている。蓮玉も誄岑も、本気で紘毅の急所を狙ってはいなかった。奏琳の氷の矢も、四肢にかすり傷を付けただけだった。めったに現れない楼峻が倒れたのは、顕現して後ろから素手で紘毅を羽交い絞めにしようとしたからだ。それが意識的なものであれ無意識のものであれ、彼らは朱莉だけではなく紘毅も護ろうとしてくれていた。それにより、彼ら自身が倒れてしまっても。
その思いに、主として朱莉は報いなければならない。
一方でただの朱莉として、紘毅に刃を向けたくない。
だって相手は紘毅なのだ。どうして刃を向けられようか。今になっても、朱莉の名を呼ぶ紘毅の声が、頭に響いているのに。
護らなければ。封じなければ。
真逆に走っていく感情に叫びだしたくなりながら、それでも朱莉の手はゆっくりと長剣へ伸びていた。がくがくと震える手で柄に手をかけると、先ほどと同じように手に馴染んだ。
その瞬間、やるべきことが固まった。
紘毅は、もう間合いを詰めている。二尺ほどの距離を取って、すっと長剣を朱莉の喉元に突きつけた。
「紘毅」
小さく呼んでみたが、もう紘毅には届かない。彼はただ、口角を上げた。数百年越しの仇を取れることに歓喜しているのだ。
「紘毅、ごめんね」
呟いて、朱莉は自分の喉元にある切っ先を左手で掴んだ。当然、じわりじわりと左手から出血する。切っ先を握ったまま、朱莉は立ち上がった。右手に紅爛の、左手に蓮玉の剣を持って。
紘毅が力任せに長剣を引く。朱莉の手から鮮血が舞う。今度は朱莉の胸に剣が向かってくる。朱莉は避けない。自分に結界を張った。剣が弾かれて地に落ちる。次の瞬間、朱莉は結界を解いて紘毅に抱き付いた。右手に紅爛の剣を持ったまま。
ぴたりと、紘毅が止まる。
「紘毅。この三日間、寂しかったよ。離れるのは、もう無理そう」
紘毅の胸元で小さくそう告げる。
「だから――一緒に行くね」
紘毅を斬って、返す刀で自害する。もうそれしか残っていない。
朱莉が死ねば精霊たちも遠からず死んでしまう。だが吾妻に器を持った人間が産まれれば、精霊たちはまた呼び出せる。
けれど紘毅は違う。もう、産まれては来ない。しかし紘毅を倒さなければ、この村はもちろん世界が滅んでしまう。約束も守れない。
こうするしかなかった。
紘毅がいないなら、朱莉だっていないのと同じだから。
渾身の力を込めて紘毅を刺そうとした、その刹那だった。
紘毅が、朱莉を抱きしめ返した。
「こう…」
そうして、紘毅は朱莉から長剣を奪った。剣は紘毅を拒否して、ばちばちと彼の右手を焼いている。
「紘毅、手が!」
伸ばした朱莉の手を、紘毅は左手で掴んだ。
「え…」
「……り…」
朱莉の手からは血が流れ出ている。
ぼたぼたと流れるそれを、紘毅はそっと撫でた。
「紘毅…」
自身の右手を焼きながら、左手は朱莉の傷を撫でる。そうすることで、暴走しそうになる力を抑えつけているようだ。その表情は、血が滲むほどに歯を食いしばっている。
「…ぐ…」
彼の食いしばった歯も両手も、痙攣するように震え始める。やがて朱莉から左手を離すと、紘毅は両膝を地につけた。破魔と浄化の力で、もう立っていられないのだ。離した左手で、右手首を折れるほどの力で掴むと、痙攣しながら左手までも焼かれ始める。
「紘毅」
彼の正面に膝をついた朱莉は、そっと名前を呼んだ。
「こうき」
何度も何度も。何度でも、名前を呼ぶ。
「紘毅、ごめんね」
祈るように、希うように。
「痛いの、嫌いなのにね」
呟くように、言葉をつむぐ。
「護ってくれて、ありがとう」
手の上に零れ落ちた涙が、出血の赤黒さを少しだけ中和した。
「ありがとう、紘毅」
紘毅は、約束を守っているのだ。なにがあっても朱莉に危害を加えるようなことは絶対にしないと、自分の宣言を守っているのだ。自分の両手を焼いてまで。
朱莉は、静かに彼の焼かれる右手を両手で包み込んだ。
「もういいよ。手、放そう?」
言いながら、治癒の力を発動させる。優しく青白い光が、二人の手を覆った。
紘毅の両手から力が抜けて、やっと剣を放す。からんと音がして、二人の間に紅爛の剣が横たわった。治癒の光は少しずつ収束していき、やがて完全に収まると無傷の手がそこにある。
「…紘毅?」
固まってしまった紘毅を覗き込もうとすると、彼の目は血走ったままだった。鬼の形相で、荒い息をしながら朱莉を睨み付けてくる。
「紘毅…つっ!」
刹那、紘毅は右手で朱莉の襟首を掴んだ。しかし、そのまま締め上げられることはなかった。紘毅自身の左手が、右手をぎりぎと止めているからである。
両手どころか身体全体が痙攣している。朱莉にまで振動が伝わるほどに。
「…う…お…」
「紘毅…」
「うおあああ!」
叫びながら、紘毅は朱莉を突き飛ばした。そのまま、紅爛の剣を拾って朱莉から距離を取る。治っていた右手が、再び焼かれ始めた。
「紘毅!」
「来るな!!」
怒鳴られて、追いかけようとした中途半端な姿勢のまま固まる。反対に、紘毅は身体を引きずるようにしてさらに二、三歩後退した。
「ふ、ざけんな、てめぇ…」
無傷の左手も柄に添えて、紘毅は両手で剣を持つ。両手が焼かれ始める。
紘毅は、叫んだ。
「俺の身体で、勝手なことしてんじゃね――――――――――――――――――っ!!」
万物を吹き飛ばすような怒声は、村中に響き渡った。呼応するように、気絶していた蓮玉の手がぴくりと動いた。
「…………………う…」
うっすらと目を開け、瞬時に状況を思い出してがばっと顔を上げる。
視線の先で彼が見たのは、長剣で自分の胸を貫いた、紘毅の姿だった。
「こう…」
「紘毅!!」
固まっていた朱莉が弾かれたように駆け出す。両手を差し出すも間に合わず、紘毅は仰向けに倒れた。剣を胸に突き刺したまま。
「やだ、紘毅! 紘毅!!」
紘毅の血が衣服に付着することも厭わず、朱莉は剣に手を添えた。引き抜こうとするその手を、次いで駆けつけた蓮玉が制す。
「落ち着いてください。今引き抜いたら出血多量で助かりません」
「でも!」
「風で傷口を塞ぎます。それから引き抜いて、治癒を」
「でも、引き抜くのは誰が…」
「わたしがする」
蓮玉のやや後方から声がして振り向くと、誄岑と奏琳が互いに手を貸し合って立ち上がっているところだった。多少ふらついてはいるものの、顔色はそんなに悪くない。
「楼峻は…」
「ここに」
声がした。いつもよりは頼りないが、はっきりとした声だ。
蓮玉は、誄岑が追いつくのを待たずに風を派生させた。脈打つように流れ出ていた血液が止まる。
と、紘毅が動いた。
「紘毅!」
飛びつかんばかりの勢いで朱莉が叫ぶ。紘毅の目はしばらくうつろに動き、朱莉を認めて色が戻った。重そうな口をどうにか開く。
「朱莉…手の、けが、は…」
「治ってる、大丈夫! それより紘毅が…」
前半だけ聞いて、紘毅は良かったと呟いた。そうして笑うのは、間違いなくただの紘毅だ。
「だーいじょうぶ…だって。このくらい、かすり傷だろ」
「どこがだ、愚か者」
言ったのは蓮玉だ。声の主に視線を移し、紘毅は何度か瞬きをした。
「……あー、ごめん、蓮玉。お前の剣、汚しちまって」
「あとで貴様が磨け。治療が終わったらな」
いつもの無愛想な声に、紘毅は苦笑して――激しく咳き込んだ。口元から鮮血が散るのが分かる。
「紘毅!」
大丈夫だ、と答えたいのに出血と痛みでうまく喋れない。口の中がさび付いたように虚しく開閉するだけだ。血の味はまずい。口に入れるなら朱莉が作った料理がいい。もう、何日も口にしていない。
「……ゅり」
せめて名前はちゃんと呼べているだろうか。
「しゅ り」
「黙れ、動くな、寝ていろ」
蓮玉に言われるまでもなく、すでに意識は朦朧としてきている。だが、今は先ほどのように意識を乗っ取られるような感覚は無い。
胸にあてがわれている朱莉の手の感覚だけで、いくらでも正気に戻れそうだ。
「しゅり」
もう一度呟いた紘毅は、そのまま目をつぶって意識を手放した。




