後日
眩しい。
つぶったままのまぶたの裏が眩しくて、紘毅は思わず両目の上に手を翳した。
が、記憶にあるよりもずっと自分の腕が重い。眉間に皺を寄せて、力を入れてどうにかまぶたを持ち上げた。
まず目に入ってきたのは、見慣れた天井だった。診療所の、自分の部屋だ。特に変わった様子はないが、窓から差し込む陽の明るさで、夜ではないことが判る。
「……っ」
言葉を発しようとして、うまくいかずに咳き込んだ。
「紘毅殿?」
思いのほか近くから、心配そうな声が聞こえてきた。声でわかる。奏琳だ。
「気が付かれたのですね?」
蝶の姿になっている奏琳が、一口大の聖水を出す。口に入れた途端に咳がおさまって、呼吸が楽になった。
「悪い、奏琳。ありがと」
「いいえ。お気が付かれて良かったです。久々に動いて、身体が驚いたのでしょう」
「久々にって…あれ?」
自分の声が掠れている。よくよく耳を澄ませば、外からは子どもたちが遊んでいる声が聞こえてきた。ほぼ毎日聞こえていた耳に馴染みのあるものだが、ずいぶんと久しぶりに聞いた気がする。
「…なにが、どうして」
こうなったんだっけ、と掠れる声でつぶやいた。ぼうっとしていた紘毅だったが、少し考えて、一連の騒動を思い出した。
紘毅の記憶は、自分で自分の胸を貫いたところまでで止まっている。なにか会話をしたような気もするが、まったく覚えていない。
そうだ、と思って衣を肌蹴てみたが、胸にも腹にも傷は残っていない。もちろん、切り裂かれて焼かれたはずの手や足も。
傷を治してくれた張本人の姿が見えなくて、紘毅はばっと奏琳を見た。
「朱莉。奏琳、朱莉は!?」
「姫はご無事です。さすがに疲れておられるようで、今日はまだ眠っておられますが」
「そうか…。無理させちまったなぁ…」
その言葉に奏琳はなにかを言おうとして止まったが、紘毅は気が付かなかった。
「なあ、俺は…いや、村はどうなった? あれから何日経った?」
「村は無事です。倒れていた村人たちも皆、元通りです。記憶は無いようですから、ご心配はいりません」
「そっか…。良かった」
「あれから五日経ちました。あなたはずっと眠っていて、皆心配しておりました」
「ごめん、心配かけて。ありがとな」
いいえ、と奏琳は言うが、声があまり明るくない。蝶の姿では表情は見えないが、疲れているだけだろうか。
「気が付いたかい、紘毅」
まったく気配がしていなかったのに、いつの間にか奏琳の隣に赤い蝶がいる。よくよく気配を辿ってみれば、近くに蓮玉もいるようだ。誄岑はともかく、奏琳や蓮玉がずっと蝶のままでいるのは珍しい。
「そうだ、誄岑。ごめんな、殴って…」
「気にしなくていいさ。本当に殴られたわけでもないしね」
「でも殴った感覚があったんだよ。なんか、無理やり夢でも見せられてるような感じで。みんなを吹っ飛ばした時だって、その時は本気でそうしなきゃいけないって、思い込んでた気がするんだよなぁ」
「おそらく、幻術師の魂に取り込まれていたのだろうね。楠木という宿主が使えなくなって、同じ血を持つお前に飛びついたのだろう。しかし、どうやって術から抜け出せたんだい? あと一歩遅かったら、いくらお前でも消し炭にしていたところだよ」
誄岑が言う。冗談なのか本気なのか、蝶では表情が見えないので判断がつかない。
「うーん。なんでだろう…。ふと気が付いたら朱莉が目の前で泣いてて…。いや、違うな。自分の顔を見た」
「うん?」
「自分の顔だよ。なにかに映ってたんだけど…。なんだったんだろうなぁ、あれ」
あの瞬間、はっきりと自分の顔を見た。だがあの場には鏡などなかった。
あの場にあったのは。居たのは――。
「あ…」
朱莉だ。
「そうだ、朱莉だ。…あいつの目に…俺が映ってたんだ」
涙を称えた朱莉の瞳。その瞳が、鏡の代わりになった。
出た結論にしばし言葉が出なかった精霊たちだが、やがて誄岑が納得したようにうなずいた。
「なるほど…。目の合った相手を幻術にかけるというなら、自分ですら例外ではなかったということだろうね。術をかけるために目を合わせるなら、解くのにも目を合わせる必要があったわけだ」
思い返してみれば、精霊たちが幻術にかけられていたときも解けた瞬間も、確かにあの時の紘毅と目を合わせていた。
いや、しかし。
「でも俺は、別に幻術師の術に掛かっていたわけじゃないよな。身体を乗っ取られただけで…」
「何を言っている。掛かっていただろう。お前を乗っ取る前、奴は楠木の中に居たのだから。楠木に掛けていた術が、そのままお前に移ったのだと思うがね」
「あ、なるほど」
納得したところで、精霊たちが同時に一つの方向を見る。
「どうした?」
「姫が目を覚まされたようです」
「あ、じゃあ俺…」
「まだ動かないでください。わたしが行って来ますから」
奏琳が答えて、そのまま姿を消した。部屋には、蝶姿の誄岑と、気配だけを覗かせる蓮玉が残る。
「あ、そうだ。蓮玉の剣、磨かなくちゃな」
「自分でやった。血がついたまま五日も放置できるか、たわけ」
「え、本当か? そりゃ悪かった。じゃあなんか…」
「貸しにしておく。いずれ二万倍の利子をつけて返せ」
切り捨てた上に突き放すような口調に、さすがに紘毅はむっとする。
「なんだよ。悪かったとは思うけどなんでそんな機嫌が悪いんだ? 大体なぁ、人と話すときはちゃんと姿を見せたらどうだよ」
「それができればそうしている」
「は?」
思いっきり怪訝な顔をしたところで、ぱたぱたと廊下を走る音がした。振り向くとほぼ同時に襖が開く。
「朱莉!」
嬉々とした表情の朱莉が、部屋に飛び込んできた。見たところ、まったく怪我も無さそうだ。
「良かった、元気そうだな。なんかずいぶん久しぶりに顔を見た気がするなぁ」
安堵のため息をつく紘毅の身体を、朱莉は確かめるように所々ぺちぺちと叩いていく。特に、穴が開いていた胸の傷が無くなっている事を確認すると、嬉しそうに笑った。
「大丈夫だよ。朱莉が治してくれたんだろ? ありがとな」
ぽん、と朱莉の頭を叩く。その時初めて、あれ、と思った。
「…朱莉?」
朱莉は笑う。いつもと同じように。なのに。
「お前、なんで喋らないんだ?」
一言も。
朱莉の声が消えているということに、最初に気が付いたのは誄岑だった。
五日前、紘毅の治療はずいぶんと時間を要した。長剣が胸を貫通したのだ。蓮玉がどうにか止血したものの、そこまでの失血がひどく、血管は激しく損傷していた。
朱莉は、長い時間を治療に費やした。およそ二刻半、まったく休まずに自分の能力を使い続けたのだ。どうにか紘毅の顔色が戻り始めたとき、入れ替わるように今度は朱莉が倒れた。
朱莉が目を覚ましたのは、それから二日が経ってからだ。人型でいる必要がなくなった精霊たちが交代で付き添い、ちょうど誄岑が当番だったときに目を覚ましたのだ。
「起き上がろうとした姫を支えようと、人型になろうとしたんだがね、なれないことに気が付いた」
すぐに残りの四精霊を呼んで試してみたが、蓮玉にいたっては止血に力を使いすぎたか、人間に見えるように顕現することも難しくなっていた。
主である朱莉の力が著しく低下したため、随身する精霊たちの力も削がれたのだ。紘毅との戦闘で、体力が多少弱まっていたのも要因の一つとなった。
「ついで、姫が言葉を出せなくなっていることにも気が付いた」
無論、すぐに太慎が診療した。咽喉、声帯ともに異常はなかった。やはり、力を使いすぎたのだ。
疲労の為に声が出なくなったのなら、時間が解決するだろうと思われた。ただ、どのくらいの時間を要するのかは誰にも判らない。
「そんな…」
愕然とする紘毅に、朱莉は微笑んで見せる。大丈夫よと、言われている気がした。
「まあ、あれだけの戦闘をしておいて、一人の犠牲者も出なかったんだから。それだけでも良しとすべきだよ」
誄岑の言葉に、朱莉がうなずく。あまりにもいつもどおりに笑うから、声が聞こえてこないのが不思議なくらいだ。
「朱莉…。あの、ごめんな。俺が…」
言いかけた紘毅の両頬を、朱莉が両手でぱちんと叩く。
「なんだよ?」
「誰のせいでもない、と仰せなのです」
「な、なるほど…」
奏琳の隣で、誄岑も言う。
「それに、誰のせいであっても関係ないさ。誰も謝罪を望んでいないし、そもそもお前を責めてもいないよ」
「なるほど」
「中途半端に謝るくらいならこの先一生姫の奴隷として尽くせということだ」
「なるほ…ってちょっと待て!」
しれっと言ってのけた蓮玉に思わず声を上げたが、声の主の姿ははっきり見えない。それも自分のせいかと思うと、紘毅は口を噤んでしまう。が、俯いた頬に今度は誄岑が長い尾で殴打してきた。
「でぇっ!」
「だから、自分を責めるなと言っているじゃないか。あ、言い忘れていたが、お前がこちらに不必要な気を遣った場合、容赦せずしばき倒すことになっているから、気をつけるんだね」
「はぁ? なんだそれ!」
「皆で協議した結果だよ。気を悪くするんじゃない」
「するわ!」
「そうまでして気を遣って欲しくないのだと、説明しなければ解らないかねぇ」
真っ向から見据えられ、紘毅は多少たじろいだ。
「お前がこれまでどおりにしていれば、なんの問題も無いんだよ」
「あなたに気を遣われてしまうと、こちらの調子も狂ってしまいますし」
「身の丈に合わぬ気遣いなど笑いを堪えるのに苦労するからな」
「人間には向き不向きというものがある」
「…お前ら…」
めったに姿を見せない楼峻の声まで聞こえてきて、紘毅は申し訳なさが吹き飛んだ。
「くそ、人が柄にもなく殊勝になったのに…」
隣で朱莉が面白そうに笑っている。その様子を見ていたら、紘毅も気が抜けた。
正直、朱莉の声が聞けないのは辛い。紘毅は、彼女の軽やかで澄んだ声が好きだから。
あの声に、名前を呼んでもらえないのは辛い。名前だけじゃない。おはようも、おやすみも。
声が聞けないのは辛いし、寂しいと思う。聞きたいと、願う。
「でもやっぱり、一番辛いのは朱莉だろうしなぁ」
ぽつりと呟くと、精霊たちは首肯して朱莉は困ったように笑った。
「じゃあまあ、喋るか。俺が代わりに」
きょとんとする朱莉に、紘毅は微笑んだ。
「声が出ない間は、俺がお前の声になるよ。全部伝えてやるから、安心しろ」
ぽんと、朱莉の頭に手を乗せる。朱莉は嬉しそうにうなずき、精霊たちもよしよしとうなずいた。
が。
「だから、なんでも俺に言えよ?」
続いた言葉に誰もが脱力したことは、言うまでもない。




