幻術
誰だ、あれは。
ある程度覚悟していた蓮玉でさえ、そう思っていた。澱んだ目。息を飲むほどの威圧感。纏う空気は完全に嗜虐的なものだ。本能が警鐘を鳴らしている。近づきすぎるのは危険だと。
あれが紘毅というなら、攻撃することを主は望まないだろう。だがあの目はこちらに攻撃する機会をうかがっている目だ。避けることは可能だろうが、しかし避け続けることに意味が発生するかどうか。
「…紘毅の様子がおかしくなったのは、楠木から閃光が飛び出してきてからだったね」
紘毅から視線を外さず、蓮玉の隣に立つ誄岑は確認するようにそう言った。答える蓮玉もまた、視線は動かさない。
「ああ。光はまっすぐに紘毅に向かっていったように思う」
もっとも、その瞬間はほとんど全員が目を潰されていたから、はっきりと見えてはいないのだが。
「あの光。正体は幻術師の魂ってところかねぇ」
「蓋然性は低くない」
「紘毅に憑りついたか。楠木とともにくたばればよかったものを」
「取り外し可能なら助かるんだがな」
同胞の言葉に、誄岑はそうだねと薄く笑った。
「では、取り外しにかからなければね」
右手が光って、彼女の指先から肩を覆うように焔が出現した。すでに両手には苦無を持っている。
「誄岑!」
後ろから聞こえてきた主の声に、誄岑は振り向かずに答える。
「心配せずとも、あなたの大切な人を傷つける気はないよ」
その言葉に、朱莉は軽く首を振る。そんなこと、疑ってもいない。
「誄岑も、まだつらいんでしょう? 怪我をしないで!」
楠木と戦って重症に陥ってからいくらも経っていない。なんとか回復したとはいえ全快とは言い難いことを、主はちゃんと理解しているのだ。
主の言葉に、誄岑は背中でうなずいた。
「――承知した」
とはいえ、怪我をさせずに怪我もせず、今の紘毅を取り押さえられるかどうか、あまり自信は無かったのだが。
誄岑の言葉を、合図としたようだった。まるで朱莉からの視線が外れるのを待っていたように、紘毅が動いた。
ほとんど前動作を見せないで、瞬間的に蓮玉、誄岑との間合いを詰めたのだ。あまりの速さに、思わず精霊二人が跳び退るほど。
朱莉と奏琳は結界に護られているし、姿を現さない楼峻に攻撃するのは不可能だ。したがって、蓮玉と誄岑は迷わず飛翔した。飛翔すると同時に派生させた蓮玉の風が唸り出す。とにかく拘束して、紘毅から幻術師の魂を追い出すか消滅させなければならない。朱莉の治癒と浄化の能力を使えば、可能なはずだった。
だが。
「なっ――」
空中にいる蓮玉の目前に、紘毅がいた。
嗤っていた。
「貴様…」
操られているとはいえ人間であるはずの紘毅が、飛翔した風の精霊を追いかけてきたとでもいうのか。
ありえない。
「蓮玉!?」
「蓮!」
朱莉に続いて誄岑の声が聞こえたが、そちらを向く余裕はなかった。紘毅の腕が蓮玉の喉元に伸びてきたからだ。反射的に避けて、思わず腰の長剣を取ろうとした手を理性に抑えつけられる。
「…くそっ」
そんなに優しいつもりはない。生温い考えをしていては朱莉を護れない。だが考えるよりも先に手が止まった。その事実が、蓮玉を苛立たせた。
ひゅんっと耳元で音がして、焔を纏った苦無が蓮玉の頬を掠めて通り過ぎた。誄岑の援護だが、正確に紘毅に当たるようには繰り出していない。彼女もまた、理性がそうさせているのだろう。
避ける必要もないような苦無を見送って、紘毅は身体を回転させて誄岑の間近に移動した。誄岑は迷わず次の苦無を手に取る。峰となっている部分で、伸びてきた紘毅の腕を受け止めた。そのまま一瞬膠着する。
「紘毅、しっかりしろ。目を覚ませ、紘毅!」
言ってみるが、聞こえてはいないようだった。紘毅は薄く笑うと、誄岑の目の前から消えた。動作どころか残像も残さないほどの速さで。これには誄岑も目をむいた。
「…何故」
まさか、と思い当たったとき、紘毅は蓮玉の後ろにいた。
「蓮!」
「くっ!」
誄岑の声がなければ、確実に攻撃されていた。丸腰の紘毅がどう攻撃してくるのかは判らないが、だからといって受けておく理由にはならない。
どうにか動きを止めようと風を繰り出すが、どういうからくりなのか流れるような動きですべてを回避されてしまう。
「蓮、聞け! もしかしたら…」
近くまで飛翔してきた誄岑が叫ぶ。だが最後まで聞くことは出来なかった。いつの間にか移動した紘毅が、誄岑を背後から握り合わせた両拳で叩き落したからだ。
「誄岑っ!」
朱莉の悲鳴。宥めようとする奏琳の声が続いて響くが、聞き入っている場合ではない。風を操って、とっさに誄岑を包み込む。それでも勢いは完全に殺せず、蓮玉はどうにか追いついて彼女が地面に叩きつけられるのを防いだ。着陸する瞬間に地面が柔らかい波を見せたのは、楼峻が気を回したのだろう。
「おい!」
少々乱暴に揺さぶると、誄岑はすぐに目を開けた。二、三回頭を振った彼女は、幸いにも意識ははっきりしていた。
「すまない。大丈夫だ。それより紘毅は…」
「拘束する。もはや手段は選べん」
立ち上がった蓮玉は、長剣に手をやった。先ほど誄岑がしたように峰打ちなら、大した怪我を負わせることはないはずだ。そもそもちょっとした傷なら朱莉が治す。治癒能力を使うごとに朱莉の気力体力も削がれていくのであまり使わせたくはないが、そんなことを言っている事態ではない。
紘毅に怪我をさせること、それにより朱莉からの叱責を受けること、朱莉に能力を使わせることにより押し寄せるであろう自責の念。それらすべてを背負う覚悟をして、蓮玉は剣を腰から引き抜いた。
次の瞬間、奪われた。
「な、に…」
蓮玉から剣を奪った紘毅は、澱んだ目を細めて笑った。今度こそ、驚愕と戦慄が蓮玉の背中を駆け抜けた。
紘毅は空中にいたはずである。誄岑を追って下降する瞬間、まだ空中にいたのを確かに捉えていた。なのに、なぜここにいる。なぜ先ほどまでと寸分違わぬ場所に立っている?
そんなことはありえない。たとえ風を纏う術を見につけたとて、人間が精霊よりも速く動くなどできるはずが――。
そこまで考えて、思い当たった。
「まさか貴様…」
「そうだ、蓮。もしかしたら紘毅は…」
それ以上の言葉は必要無かった。まったく同じ考えに、思い当たっていたからだ。
二人の顔を見ながらにぃと笑った紘毅は、その推測に肯定を示していた。
つまり、彼は動いていないのだ。最初から一歩も。
「…そうか。これが、幻術…」
目が合った瞬間から、幻術を見せられていたのだろう。紘毅が目の前に来たという幻、避けても隣にいるという幻、誄岑を叩き落すという幻を見せて地上に降りてこざるをえない状況を作り、下降してくるときもまだ紘毅は空中にいるという幻。そして、長剣を奪う時を狙っていたのだ。紅爛の剣に拒絶されたときから、得物を探していたのだろう。
伝説の戦いにおいて、蓮玉には不可解なことがいくつかあった。その内の一つが、四精霊が全員ついていながら、なぜ紅爛が命を落とすほどの戦闘になったのかということだ。
原因が判明した。四精霊ですらも、抗えないのだ。幻術師が操る術に。
「思った以上に厄介な術ということらしいね」
言ったのは誄岑だ。蓮玉と並んで、先ほど紘毅に殴られたと思しき後頭部をさする。痛みは無かった。
「だが、確実に殴られた感触があった。いやはや、思い込みというのは恐ろしい」
苦笑しながら言っているが、眼はまったく笑っていない。
厄介どころの話ではないということだ。このままでは、何が術で何が現実なのか判らなくなる。今回は殴られただけだったが、例えば剣を持って刺されたという幻術を見せられた場合、人間はひとたまりもないだろう。
「蓮玉、誄岑…」
後方から、主の声が聞こえてくる。二人とも振り向かなかった。朱莉の顔を見れば、紘毅を攻撃すると決めた心が揺らぐ。
紘毅は、確かめるように奪った長剣を何度か振った。蓮玉の剣は風を派生させるが、それは風精霊の手にあってこそ最大限の能力を発揮する。紘毅が扱ってもそよ風を起こすのがせいぜいで、『風の武器』としては役に立たない。だが風を扱えないというだけで、それは紛れもなく鋭利な剣だ。紘毅はただでさえ剣術に長けていた。今の紘毅が武器を手に入れたらどうなるか、あまり考えたくない。
手になじませるように柄を握りなおし、紘毅は剣を構えた。口元の歪んだ笑みは消え、視線は真っ直ぐに前を向いている。その視線が捉えているのは風と火の精霊ではない。
「紘毅…」
朱莉だった。




