意識
「紘毅、紘毅!」
「紘毅殿!!」
自分を呼ぶ声が聞こえる。朱莉と精霊たちだ。声だけで判る。泣きそうになっている。大丈夫だ、泣くな。そう言おうとしているのに、唇は虚しく開閉するだけだ。心臓を鷲掴みにされたような感覚がしたかと思ったら、押し潰されるような痛みが身体中を走り回り出したからである。
「…っがっ!」
胸を押さえ、やっと音になったのはそれだけだ。あとは言葉にならない音が漏れるだけ。押さえつけた胸の中で、心臓の鼓動がやけに早い。身体中が熱くなっていくのに手足だけは異様に冷たい。
身体中に、見えない鎖が食い込んでくるようだ。
「な、ん…!」
なんなんだと声を出すことすらもままならず、呼吸さえ思うようにできない。段々と、痛いのか熱いのか苦しいのかも判別できなくなってきた。このまま身体が朽ちるのではと思った瞬間、心臓を串刺しにされるような衝撃が走って、ついに意識が飛んだ。
それは、紘毅の意思ではなかった。
紘毅の意思ではなかったが、彼はゆっくりと起き上がった。呼びかける朱莉や精霊たちを無視して、俯きがちにふらりふらりと二、三歩進んだ。
そうして視線を上げた彼がすっと右腕を横なぎに振り払うと、同時に楠木が粉砕された。
「なっ!?」
声を上げたのは四精霊か、朱莉かそれとも紘毅自身か。
「な、に…」
やっと絞り出した声は、朱莉のものだ。火の精霊である誄岑が徹底的に焼き尽くしても崩れ落ちなかった楠木が、一瞬にして炭ではなく灰になった。さらさらと、いっそ潔いほどに瓦解していく。
「――姫!」
鋭い声とともに強引に腕を引かれ、朱莉は奏琳に抱え込まれた。二人を護るように、蓮玉がすかさず結界を張る。奏琳の腕の隙間から、朱莉は紘毅がしっかりと起き上がっているのを確認した。
だが安堵したのは束の間だった。
「…こう、き?」
その目が、紘毅ではなかったからである。
朱莉と奏琳を庇うように前に出た蓮玉と誄岑も、反応は似たようなものだった。
愕然とした、というのが一番近い。人間というのは、目つき一つでこうも変わるのか。
「あれは…」
「紘毅だね。ただし、肉体という意味においては、だけど」
呟いた蓮玉に、努めて冷静に誄岑は言う。そこに立っているのは確かに紘毅だ。だが肉体ではなく意識までも紘毅かというと、違うだろうと。
「紘毅が「紘毅」の意思であんな目をできるとは思えない」
続けた誄岑は、声音こそ冷静だが、柳眉がひそめられている。短くなった髪は、彼女の表情を隠す役目は果たさなかった。
完全に起き上がった紘毅は、自分の身体を確かめるように腕を動かしたり足を振ったりしている。とんとんと胸を叩く動作もして、痛みがなくなったのを確認しているようだ。やがて、身体を動かすのをやめて周囲を見渡し始める。
診療所を無視した視線は、楠木があった場所で止まった。そして、視線はゆっくりと下へ。支えを失くして根元に転がっている剣を見据える。目を細めるようにしてしばらく見ていたが、ゆっくりと歩き出した。
結界に守られている朱莉と奏琳の目の前を通っても、紘毅はなんの反応も示さない。
「紘毅…」
かろうじて名前を呟くだけの朱莉に一瞥もくれずに剣に歩み寄った紘毅は、それを拾おうと腰を屈め――剣によって弾かれた。
まるで、剣が意思を持って紘毅を拒絶しているかのようだった。少し前まで、紘毅の背中にあったにも拘らず。眩しい光とともにばちっと音がして、紘毅の手を阻んだ。
しびれでもしたのか、紘毅は面白くなさそうに触ろうとした右手を振った。やはりゆっくりとした動作で腰を上げ、再びあたりを見渡す。
そして、その目が朱莉を捉えた。
朱莉の肩を抱く奏琳の腕に力が入る。朱莉もまた、奏琳の腕に手を添えた。支えあうような二人の正面に、蓮玉が立つ。
「それ以上我が姫に近づくな」
朱莉は瞬きもできなかった。自分を庇う蓮玉の背中の向こうに、紘毅が見える。紘毅もまた、朱莉から視線を外していない。
その視線が、朱莉を金縛りにさせた。
闇に澱んだ黒い眼、血走った白眼。背筋が凍るほどに冷たくて、表情の見えない視線。あんな視線は知らない。
「…紘毅…」
そこにいるのは紘毅だと、確認するためだけに囁いた。




