絶対
「…そう、代々伝えられてきた」
十七年前、紘毅を見つけたのは偶然ではない。往診の行き帰りには楠木の根元を確認するのが日課だった。
太慎にはすぐに解った。あまりにも伝承の通りだったからだ。それに、紅爛が予想したとおりの期間で紘毅が目覚めるのであれば、太慎か太慎の次の代が見つけるだろうということは計算できていた。
だが。
「――殺せなんだよ」
あの日。雷雨の中、太慎は、眠る赤子の首に自分の両手を巻きつけた。赤子の首は小さくてふにゃりと柔らかく、少し力を加えれば簡単に殺めることができそうだった。
紘毅の首に手を添えた、そのときまで太慎は迷ったことはなかった。幼い頃から刷り込みのようにいつか出会えば殺すのだと思ってきたし、それは村のためでありひいては世界のためであり、そして先祖の願いでもあった。人殺しになるのではない、人々を救うのだと。疑問に思ったことなどなかった。
だが、殺せなかった。
「どうしても、殺せなんだ…」
要因は複数あった。太慎が医者として人生を歩んできたこともあるし、彼が若くして妻を亡くし、子どもに恵まれなかったこともある。その日の往診で、村の女性が懐妊していたことも要因の一つと言えた。
そして、何よりも。
「手に力を込めたと同時に、目を、開けてなぁ」
言いながら、太慎は自分の両手を見た。その手は、かつて紘毅の首を絞めようとした両手だ。
「大して見えもせんだろうに、大きく目を開けて、わたしを見上げておった」
そしてその手は、幼い紘毅を拾い上げた両手だ。それは紛れもなく、父親の両手だ。
彼は、笑った。
「じーっと、わたしを見てな。何度か瞬きをして」
それから、くあ、と大きな欠伸をしたのだ。赤子は、今まさに太慎の手にかかろうとしていた紘毅は、無防備に欠伸をしてそのまますやすやと眠りについた。
気がついたら、太慎は紘毅を抱きしめていた。叩きつける雷雨の中、殺めるはずだった命を、護るために抱いていた。
「結局、連れて帰ってきて、育てた」
紘毅はすくすくと育った。いささか間が抜けてはいても、頭の回転が早くはなくても、まっすぐに優しく育った。暴言を吐かれたのが自分であっても、真っ先に里親の心配をするほどに。
このまま自分の出自を知らず、優しいままに生きていってくれれば。太慎は淡い期待と小さな希望を胸に、日々ひたすら父親であろうとした。
「じゃが、いずれはこの事態が起きるであろうことも、わかっていた」
口を挟まずに聞いている朱莉と紘毅が、どういうことだといわんばかりに首を傾ける。その仕草がまったく同じで、太慎は目を逸らした。
「朱莉を見つけたとき、もしやと思ったよ。紘毅に施した薬の効果が切れるということは、すなわち楠木の封印も解けるということじゃからな」
「は?」
「お前たちも知っているだろうが、四精霊たちは、まったく同じ瞬間ではないにせよ、主の生涯とともに代が入れ替わる。紅爛のときの精霊たち、つまり蓮玉殿たちの先祖は、紅爛の遺灰を埋葬した直後に消滅したそうだ。そしてそれ以降、吾妻で精霊すべてを呼び出せたものはいない。…朱莉を除いて」
朱莉を村に連れて帰り、しばらくして精霊たちが姿を現すようになったとき、太慎は内心愕然とした。なんという、皮肉だと。しかしそれでも、迫害されていると判っている都に返すことはできなかった。
「…そうか」
呟いたのは、蓮玉だった。
「なるほど。そういうことでしたか」
続いて奏琳もうなずく。隣の朱莉までもが納得した顔をしているのを見て、紘毅は焦った。
「いや、待てよ。何みんなで納得してんだ?」
慌てる紘毅に、やっと湯飲みを元に戻した朱莉が説明する。
「さっき蓮玉が言ってたでしょ? 紅爛様が楠木と紘毅を封じるために、自分の薬と精霊たちの力を使ったって。精霊たち自身は紅爛様と一緒に消滅しても、封印する力はずっと有効だったんだと思う。紅爛様が居なくても、この世から地水風火がなくなることはないから。具体的に四精霊たちのどんな能力を使ったのかはわからないけど、紘毅たちを封印するのに力を使っていたから、吾妻の人たちは呼び出せなかったのかもしれないってこと」
朱莉の説明に同意を示すようにうなずいてから、蓮玉が引き継ぐ。
「吾妻の歴代当主は、呼び出せても一人か二人だった。おそらく、呼び出せた精霊も同じだろう。火精霊と水精霊だ。赤子の時間を止めるのに、土の力と風の力を要しただろうからな」
「おお、なるほど」
「やがて薬の効き目が切れ、お前は目覚めた。同時に精霊たちも目覚めることになった。そしてその時期に産まれ、主の器に足りたのが朱莉様なのだろう」
「え、じゃあ朱莉が主なのって偶然かよ」
「馬鹿を言え。偶然で我ら四精霊を全員呼び出せるわけがなかろう。第一、それなら吾妻の当主たちは全員が最低一人は精霊を呼び出せたことになるだろうが」
「あ、そうか。いやいや、でも、それでなんで楠木の封印まで一緒に解けるんだ? 俺を封じたのは紅爛と精霊かもしれないけど、楠木を封じたのは紅爛だけだろ?」
尤もな疑問に、太慎が一つうなずく。
「そこで、その長剣じゃ」
「これ?」
足元に置いた剣を手に取る。慣れたはずの重さが、何故かずっしりと重い気がした。
「先祖の話によれば、紅爛の剣は破魔と浄化の力を宿していたという。もしかしたら、その剣を紘毅の傍に置くことで、紘毅の中にある幻術師としての力を抑えようとしていたのかもしれん」
なるほど、とうなずいたのは蓮玉だった。
「つまり、剣を楠木に奪われるということは、楠木の封印を完全に解くだけでなく紘毅の力をも解放することになるということだな?」
「おそらくは」
「ということは、この剣を使って楠木を封印しなおすのは難しいと言うことか」
「そうなりますな」
重々しくうなずく太慎とは対照的に、紘毅は表情全体で「意味が解りません」と言っている。
「解らんか。つまり、楠木を封印するにはその剣が必要だ。紅爛様のご遺灰がない以上、その剣で封じるしかない。しかし、それはつまり貴様から剣を離すということだ。そうなれば、貴様の幻術師としての力が解放されるだろう。楠木か貴様か、選ばねばならんということだ」
「それってつまり…。今の俺は封印されてる状態ってことか?」
「たぶんな」
蓮玉はそこで言葉を切った。奏琳が、そんな同胞を静かに見詰めている。
「あーそうか。やっと解った。親父の過失ってやつ」
突然手を打った紘毅に、その場にいた全員の視線が集まる。
「先祖に言われたとおりに俺を殺しておけば、例え遺灰がなくなっても剣で封印ができたってことだな?」
沈黙が降りる。
自分を殺しておけばと、紘毅は言う。蓮玉でさえ切った言葉を、紘毅はあまりにもあっさりと言い放ったのだ。
「そりゃあ、親父、やっちまったなぁ。俺、生きてる。ははは」
紘毅以外の全員が視線をかわした結果、至極当然の反応は朱莉が返すことになった。
「紘毅。それたぶん、笑い事じゃないんじゃないかな」
「お、そうか。まあいいじゃん。生きてるんだし。あーでも、それなら話は簡単なんじゃねぇの?」
「え?」
「だから、この剣でまた楠木を封印すればいいじゃん」
沈黙が、また降りる。今度は蓮玉が役割を買って出た。
「…貴様、今までの話をどう聞いていた」
「え、全部聞いてたけど」
「だから、貴様から剣を取り上げて楠木を封印したら、貴様の封印が解けるかもしれんのだ。そんな危ないことはさせられん」
「いやいや、だって俺の封印ってつまり俺の幻術師としての力だろ? だったら問題ないよ。だって俺、幻術の使い方なんて知らないもん」
「知らないのは封印されているからだ」
「封印されてるのは能力だろ。いくら能力があったって使い方知らなきゃどうしようもないじゃん」
「能力開花だけで十分な脅威だ。貴様の性格が凶暴にならんという保障がどこにある」
「凶暴って…」
「その間の抜けた性格でも、凶暴化されるよりはいくらかましだ」
「なにをー? お前だって俺に対して十分凶暴だろうが!」
「貴様が凶暴化して、姫に危害を加えたらどうする」
「ありえねぇ!!」
紘毅は喚いて立ち上がった。蓮玉にまっすぐ向き合ってさらに叫ぶ。
「俺が朱莉に危害なんか加えるわけねけだろ!!」
「何故言い切れる」
「何故ってそんなもん、決まってんだろ、俺は…」
言いかけた紘毅は、自分に視線が集中していることに気がついて止まる。
いやいや落ち着け、俺はいったい何を言おうとしているんだはははは、とかぶりを振る紘毅に、蓮玉は冷めた声で問いかける。
「なんだ?」
「あ、いや、だから…」
急に失速した紘毅を、きょとんとした表情で、朱莉が見上げた。
「紘毅?」
「お、おう?」
「どうしたの?」
「いや別にどうもしないけど、ともかくだな! 俺は朱莉に危害なんか加えない。絶対だ」
「だから何故言い切れる」
「理由なんかあるか! 絶対ったら絶対だ! 朱莉、信じろ!」
しゃがみこんで、紘毅は朱莉をまっすぐに見た。あり得ないものはあり得ないのだ。護るならともかく、反対側にまわるなど。
ややあって、朱莉はにこりと笑った。
「うん。信じるよ」
「しかし姫。先ほどから申しておりますように…」
口を開いた蓮玉はしかし、主の真っ直ぐな視線に言葉を止めた。
「蓮玉は、本当に紘毅が凶暴になるって思うの?」
問われて、一瞬だけ目を細めた。朱莉の言いたいことが解らないわけではないのだ。
だが。
「…可能性として、否定はできません。そして我々は、姫に害為すものすべてに容赦ができません。もし凶暴化されたら、力ずくでも封印しなおすしかないでしょう」
「じゃあ、誄岑が命がけで止めてくれた楠木はどうするの?」
この言葉にはすぐに返せなかった。
「仮に、紘毅をこのままにしたとして。楠木は、止められるの?」
大地を操る楼峻が楠木の根を押さえ込み、蓮玉の風で動きを封じ、奏琳が楠木の内部にある水分をすべて凍らせる。その後で、楠木そのものを物理的に粉砕する。
理屈として、楠木を止めることはできそうに思えた。だが、伝説においては結局、幻術師を倒したのも楠木を封印したのも紅爛だった。それは即ち、四精霊では幻術師を倒せなかったことを意味している。
黙ったままの蓮玉に、朱莉はそれに、と続ける。
「封印しなおすって…、剣をもう一度渡すだけじゃないよね?」
あえて言葉を濁してあったが、意味は如実に現れていた。
もしも剣を手放した紘毅がかつての幻術師のような振る舞いに出たら、素直に剣を受け取ろうとはしないだろう。受け取ったところで、ただ剣を持つことが封印に繋がるという保障はない。
そうなれば、紘毅を倒すしかなくなるのだ。伝説の戦いのように。
「蓮玉」
少しの沈黙の後、口を開いたのは奏琳だった。
「わたしも、姫と同じ考えです。封じるなら楠木だと思います。誄岑の戦闘を無駄にしたくはありません。何より、わたしは紘毅殿を封じる手伝いはしたくありません」
「それが何を意味するか、理解しているのか」
これまでは、剣が紘毅を、遺灰が楠木を封じていた。遺灰を失った今、剣で楠木を封じたら残るのは紘毅と朱莉だ。つまり最悪の場合、朱莉が自分で紘毅を封じなければならないということだ。
戦わせねばならなくなるのだ。二人を。
視線だけで確認する蓮玉を、奏琳は背筋を伸ばして見返した。
「理解しています。されど、あなたも理解しているでしょう?」
紘毅を封じることなど、誰もやりたくないということを。
風と水とが向かい合う。沈黙は、長く続かなかった。
「奏琳、ありがとな」
紘毅が、剣を持って立ち上がったからだ。
「やっつけるのは楠木だ。俺は封じられたくない。大丈夫だよ、俺は絶対朱莉には攻撃しないから」
「今一度聞く。何故言い切れる」
「何度だって答えてやるよ。絶対は絶対だ」
拳を握ってきっぱりと言い切った紘毅に、噴き出す者がいた。
「誄岑!」
朱莉が声を上げる。左腕の冠が光って、赤い蝶が飛び出してきた。他の精霊が人型でいるからか、すぐに女性の姿になる。その髪の色は、毒々しい赤紫ではなく、元の真紅に戻っていた。
「誄岑、気がついたの? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。姫、迷惑をかけたね。治してくれてありがとう」
「迷惑じゃないよ! 全然、何も迷惑なんかじゃないよ!」
必死になる朱莉に、誄岑はふっと笑った。それから、無言で見下ろしてくる同胞に視線を向ける。完全に目が合う前にそっぽを向かれて、誄岑は苦笑した。
「やれやれ…」
「え?」
「いや、なんでもないよ。――おい、蓮玉」
首をかしげた朱莉に手を振ってから、誄岑はそっぽを向いたままの蓮玉に声をかけた。
「話は大体聞いていた。楠木を滅するしかないだろうよ」
「しかし」
「駄々をこねるんじゃない」
一喝されて蓮玉が黙る。
「このまま問答を続けていて何か解決すると思うのか? そもそも、決断するのはあんたじゃなく、姫だ」
突き放すように言ってから、誄岑は主と視線を合わせた。
「姫、ご決断を。楠木と紘毅、封印できるのはどちらか一方。あなたは、どちらを選ぶ?」
主は迷わなかった。
「わたしは、楠木を封印したい」
「心得た。ならば、我々はあなたに従おう」
誄岑が言えば、後ろで奏琳もうなずく。ややあってから、蓮玉が一歩踏み出した。幼い主を見下ろし、口を開く。
「我が主。約束を、していただけますか」
「約束?」
「あなたは主としての自覚を持たれた。我々は今後、これまで以上に全身全霊であなたに仕えます。だからこそあなたも約束をしていただきたい。我々を従えられる己の力と義務をお忘れなきように」
力と、義務。
朱莉は口の中で反芻した。
「我らの先祖が吾妻の初代当主に仕えたのは、当主の薬師への真摯な思い故です。病に苦しむ人々を救いたいという純粋で強固な願い故。だからこそ、先祖は当主へ力と知恵を与えました。代わりに、当主は我らの意思を守りました。自然を迫害しないことと、人々を救う為以外には我らの力を使わないこと、そして我らになにかがあったときは主として護ることを約束したのです。――同じことを、約束できますか」
真剣な目だった。朱莉は目を逸らさなかった。
そうして、立ち上がった。
覚悟ならもう、那珂と対峙したときに固めている。
「約束するよ。その約束は、何があっても守る」
大きくはない、しかし強い声だった。
「精霊たちはわたしが護るよ。その力は、病気で苦しんでいるひとたちに使う。それ以外には絶対に使わない。……だから、わたしに力を貸してください」
そう長くはない時間、朱莉と蓮玉はまっすぐ見つめ合っていた。誰もなにも言わなかった。
やがて、蓮玉はおもむろに朱莉に片膝をついた。
「御心のままに」




