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 診療所は、静かだった。外で楠木が暴れているのが信じられないほどに。人の気配はするが、やはりまだ誰も目が覚めてはいないらしい。

 そんな中、太慎老人は居間にいた。

「親父!」

「…紘毅か」

 ぼんやりと、太慎は顔を上げた。その生気の無い表情に、紘毅も朱莉も少なからず驚いた。

「太慎先生?」

「朱莉。よく帰って来た。…ああ。一皮、剥けたようだなぁ」

「え、あ…」

 精霊たちの主とならんことを受け入れ、面構えが変わったのだと言われているのだ。

 完全に日が落ちて薄暗い中、一瞬で見抜かれた。それだけ、普段の朱莉を見てくれていたということだ。

「ありがとうございます、先生」

「わたしは何もしとらんよ。……いや、してしまったか」

「え?」

「親父、なに言ってんだ? 俺ら聞きたいことがあるんだ。村の騒ぎのことなんだけど」

 卓袱台に座っている太慎の前に回りこんで、紘毅が言う。

「なんか、俺が楠木に狙われてるらしいんだ。俺っていうか、この剣が」

 言って、紘毅は背負っていた剣を手に取った。

「俺を拾ったときに、この剣が近くにあったって言ってたよな? もう少し詳しく聞かせて欲しいんだ。どういう状況だったんだ?」

 差し出された剣をじっと見て、太慎は深く重いため息をついた。それから、紘毅と朱莉に座るよう促す。

「座りなさい。…長い話になる」

 その常ならぬ重い口調に、二人は戸惑いながらも太慎の向かいに並んで座る。精霊たちは黙ったまま、人間たちを見守っていた。

「この騒ぎの原因は、わたしの過失にある」

 一つ息をついてから、太慎はそう言った。

「どういうことだよ、親父。昼間はわけが解らんとか言ってたくせに…」

 紘毅に続いて朱莉も言う。

「この騒動の原因は、伯母が紅爛様のご遺灰を持ち去ったことにあります。太慎先生は関係無いんじゃ…」

 しかし、太慎は首を振った。

「いや。わたしだよ。伯母上殿が遺灰をどうしようとも、わたしの過失がなければ騒ぎは起こらなかった。昼間までわけが解らなかったのは本当じゃ。その時点では確信が無かった」

 顔を見合わせた二人に、老人は静かに続ける。

「あの伝説において、紅爛は旅の途中で幻術師に出会ったことになっておる。それがこの村であることは言うまでもないが、村にやってきたのは幻術師たちよりも紅爛のほうが早かった」

 伝説では、幻術師が暴れていた土地に紅爛がやってきたようになっているが、実際は数日とはいえ紅爛のほうが早かったのだ。

「それがなんだってんだ? 別に大して変わりはないだろ」

「そう思うだろうが、その数日がなければ今のわたしはここにはおらんのだ」

「うん?」

「紅爛は旅人で、偶然この村に立ち寄ったそうでな。その数日間、寝泊りしていたのがこの家だ」

 太慎の家は、何代も前から医者をしている。吾妻ほどに知名度も知識も高くはないが、『村の医者』としてずっとこの村にあったのだ。

「この家での宿泊を、紅爛と先祖のどちらが申し出たのかは判らないが、まぁそれこそ大した違いはない」

 紅爛は、数日間の間だけ太慎の先祖に世話になることを決めた。だが、その数日間の間に幻術師が現れた。幻術師たちはその前にも近隣の村を食い尽くしていたという。

「幻術に苦しめられている村人を、先祖も紅爛も必死になって治療したそうだ。そして、説得が通じない相手と知り、紅爛は戦いに赴いたらしい。精霊たちを連れて」

 太慎は、ちらりと精霊たちを見た。精霊たちも、太慎を見ていた。

「戦いの内容は、ほとんど伝説のとおりじゃ。幻術師一族で、最後まで残っていたのは長だった。その長も、楠木に串刺しにされる形で息耐えた。それで幻術師たちは全滅した、ということになっておる」

「『なっている』ってことは…」

「本当は、違うんですか?」

「ああ。……生き残りが、おった。わたししか知らない、生き残りが」

 誰かがこくりと息を飲んだ。


「たった一人、戦地で生き残った幻術師。それが――紘毅、お前じゃよ」


 何を言われたのか、全員が理解するまでに時間が必要だった。

 いやまさかと、笑い飛ばそうとした紘毅の表情が固まる。あまりにも真剣な眼差しの里親が、笑い話にさせてくれない。

 何度か口を開閉して、やっと出てきた言葉は。

「………。…は?」

 言葉というより、文字だった。

「お前が生き残りじゃ。幻術師の血を引いた、最後の一人。紅爛は産まれたばかりの赤子を、抵抗する術を持たぬお前を殺せなんだ」

「え、や、でも…」

 まったくついていけないのに、太慎は話を止めない。隣にいる朱莉もただ眼を丸くするばかりで、言葉を発せないでいる。

「この赤子が、自分が幻術師であることを知らずに平穏に育てば。いや、幻術師であると自覚しても優しく育てば。紅爛はそう、願いを託した」


 だがいくら自分が願いを託そうとも、村人たちはそうはいかないであろうことも、紅爛は理解していた。村に連れて帰れば、赤子が無事でいられる保障はない。

 村人たちは、近隣住民も含め何ヶ月もの間、幻術師に苦しめられ虐げられてきたのだ。何の罪もないのに、ひたすら迫害され搾取されてきたのだ。その怒り、恐怖、悔しさ、屈辱、絶望感や哀しみは計り知れない。

 生き残りがいると知れば、おそらく赤子であっても――いや、赤子であるからこそ怒りの矛先を向けるだろう。幻術師が村人の子どもにも容赦しなかった以上、村人が幻術師の赤子に容赦しない理由は無い。

 その考え方は絶対に間違っている。産まれたばかりの赤子には何の罪も無いのだ。村人と同じように。

 だが紅爛には、村人たちを説得する時間も余力も残されていない。赤子を見つけたとき、死闘を終えた紅爛はすでに立っているのもやっとの状態だったのだ。それに、紅爛にはまだやることがあった。

 幻術師の長は最期の力で楠木と自分自身に術をかけた。楠木を滅する余力がない以上、楠木をこの村ごと封印するしかない。それこそ、命を懸けて。

 幻術にかけられた楠木と、幻術師の生き残り。瀕死の紅爛の前に、二つの問題が残された。

「考えた末、紅爛は赤子も封印することにした」

 いずれ村が落ち着いたら、幻術師の存在が昔話となったら、普通の子どもとして生きられるように。産まれてきたばかりの穢れなき命が、穢れなきまま生きていけるように。被害者である村人が、被害者と思い込んだまま、加害者とならぬように。

「赤子の時間を、止めたのじゃ」

「止めた? おい、いくらなんでも生きている人間の時間を止めるなんて」

「出来るかも知れん」

 口を開いたのは、それまで黙っていた蓮玉だった。腕を組んで厳しい顔で太慎を一瞥した後、彼は紘毅を見据えた。

「紅爛様は、神女と呼ばれるほどの薬師であられた。その紅爛様が全身全霊を込めて成長を止める薬を作り、さらに当時いた四精霊の能力を駆使して赤子の周りの空気の流れを止めたなら、出来なくはないように思う」

 あの蓮玉がここまで言うのだ。やってやれないことはないのだろう。紘毅は黙った。

「おそらく、精霊殿の言う通りじゃろう。事実、赤子はずっと深い眠りについておった」

 紅爛は赤子の――紘毅の成長を止めて、地中に隠した。その上で楠木と村を封じ、息を引き取った。

 そして、数百年の後。目覚めた赤子は太慎に拾われた。

「それが、お前じゃ」

 太慎は、紘毅の目を見てそう言った。冗談だとは思えなかった。

 紘毅は呆然としていた。元々良くはない頭なのに、いきなり難しい話をされても困るのだ。何度も反芻して、どうにか事情を飲み込もうと脳が働き出す。

「いや、えーと。そうだ、えーと、だから、だな」

 働き出したところで急に理解できるわけではないのだが、黙って考えるのは苦手だ。しんとした、この空気は嫌いだ。

「うーんと。そうか、つまり。俺が幻術師の生き残りなんだな?」

 まだそこで躓いているのか、と口に出さないまま蓮玉が眉をひそめる。

「そっか。いやー、全然知らなかったなぁ」

 場違いにのんきな声を出し、ややあってから朱莉がくすりと笑った。

「当たり前だよ、紘毅」

「あ、そっか」

 笑いあう二人は殺伐としていた雰囲気を和ませた。だから、太慎が苦しそうに口元をゆがめたことに、二人とも気がつかなかった。

「太慎先生。それで、先生の過失というのは…?」

 老人に向き直った朱莉が聞く。そういえばと紘毅も思い出したように振り返った。そして、固まった。

「…親父?」

「わたしの過失は…」

 言っている太慎の表情が、震えているのだ。こんな里親は見たことがない。

「わたしの過失は、お前を生かしてしまったことだよ、紘毅」

 こんな言葉も、聞いたことがない。それではまるで――。

「はっきりと言ったほうがいいだろう。紘毅を殺さずにおいたことが、わたしの罪じゃ」

 かたん、と音がした。だいぶ間があってから、朱莉が湯飲みを倒した音だと気がついた。

「なん、ですか…それ。だって、太慎先生は捨てられていた紘毅を拾って、育てて…」

「幻術師の生き残りがいることを、わたしの先祖だけは知っていた」

 朱莉の言葉が聞こえているはずなのに、太慎は目を伏せて言葉をつむぐ。

「息絶える直前の紅爛が、いずれ赤子の目が覚めたらよろしく頼むと言い残したからじゃ。紅爛は、自分が作った薬は数百年で効き目が切れるであろうと予測していた。目が覚めたら、普通の人間として育ててやってくれ、と。捨て子としてではなく、出来れば普通の子どもとして育ててやってくれと」

 幻術師の子どもということで、しこりはあるだろう。怒りもあるだろう。だが医者として、人間として、無抵抗の子どもを護ってやってくれ。優しさを与えれば、優しい子が育つはずだからと。紅爛は、そう頼んだ。息も絶え絶えに、頼み込んだ。

 彼女を看取った先祖はうなずいた――ふりをした。

「紅爛が亡くなってから、先祖も何年かのちに病で亡くなった。だがずっとこの家に伝えられてきた。いつか、楠木の下に赤子がいたら。その赤子が長剣を携えていたら」

 間違えるな、それは最後の幻術師だ。罪の無い村人たちを嗜虐し、蹂躙した、この世の悪夢の象徴だ。

だから。


「迷うな。赤子を殺せ」


 幻術師として覚醒する前に。薬が完全に切れる前に。抵抗される、その前に。


 幻術師の生き残りに、罪無き村人たちの復讐を。

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