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 帰りついた村は、奇妙なほどに静かだった。外に人間がまったく見当たらない上、虫の音さえも聞こえない。

「なんだ、これ…」

 紘毅は思わず呟いた。上空から見る、見慣れているはずの村はすっぽりと半透明な膜に包まれ、その姿は歪んで見える。まるで、水面から水底を見ているようだ。

誄岑(るいしん)の防護壁です」

 奏琳(そうりん)が言う。その奏琳も驚いているようだった。

「普段ならもっと透明で、ここまで中の物が見えにくくはならないはずなのですが…」

 つまり、誄岑の力が弱まっているのだ。壁の形状を守りきれないほどに。

「誄岑…」

「降ります。お気をつけください」

 朱莉の声に重なるように、蓮玉(れんぎょく)の低い声が聞こえた。

 気をつけるようにと蓮玉は言ったが、下降していく感覚も無いので何も気をつける必要は無かった。風を感じないということは、動いているかどうかも解らないということだ。流れていく景色だけが、移動しているという証になる。そのことに気がついて、朱莉は少し、怖くなっていた。

 地面が近づくのと同時進行で、村の様子がわかってくる。診療所を中心に結界が張られ、村のはずれでは火柱が複数立ち上っていた。

「誄岑…!」

 朱莉が悲鳴にも近い声をあげる。紘毅はただ、朱莉の手を握り締めることしかできなかった。


 村は、まだ夕方だというのにすっかり暗くなっていた。この季節、もう少しくらいは明るくてもいいはずなのだが。

「誄岑!」

「お待ちください」

 蝶の背中から降りると同時に駆け出そうとした朱莉を、人型に戻った蓮玉が止める。

「姫。しばし、おそばを離れることをお許しいただきたい」

「蓮玉?」

「あの馬鹿を、連れ戻してきます。姫のお手を煩わせるまでもありません」

 その言葉が耳に届き終わるよりも前に、突風で眼を開けていられなくなった。小柄な朱莉がよろめいて、朱莉を支える紘毅も全力で足を踏ん張って立っているのがやっとだ。その二人を囲むように、土の壁が出現した。楼峻(ろうしゅん)である。

「速ぇ…」

 紘毅は、そう呟くのがやっとだ。蓮玉がそこにいたと証明するものは、もはやかすかな風しかない。風の精霊はいつでも素早いが、紘毅に見えないほど速く動いたことはなかった。

 驚いたのはそれだけではない。まさかあの蓮玉が、朱莉を風から護る配慮を忘れるほどに慌てるとは。

 こんな場面でもなかったら、笑えたかもしれない。二人が無事に帰ってきて、村が元通りになったら絶対にからかってやろうと思った。



 焔を纏うのは気持ちがいい。

 誄岑は、非常に穏やかな気持ちで身体を炎上させていた。彼女は焔の中から産まれたのである。母胎に帰るのは気持ちがいいに決まっていた。

 たとえ少々気がかりなことがあっても、だ。

「まーた機嫌を悪くするだろうねぇ…。まあ、もう会うことも無いか」

 あの同胞が機嫌を良くしていることのほうが珍しいのだから、それほど気にすることもないだろう。

 焼き尽くした楠木を見下ろす。赤紫の焔を受けた楠木は朽ちて大地に倒れ、誄岑は全身に焔をまとって宙に浮いている。

「手間は取られたが、姫の言いつけは守れたしね」

 妙な病気のことはともかく、村人は誰も怪我をしていないはずだし、この楠木にも引導を渡せた。誄岑は一人、ふと笑った。


 限界が近い。


 誄岑の最終奥義は、最終たる所以がある。四精霊中もっとも危険な技であり、一度発動したら最後、誄岑自身が燃え尽きるまで止められないからだ。

 痛くも痒くも苦しくもない。ただ、自分の命が燃え尽きていくのが解る。これもまあ、ありなのだろうと誄岑は思う。自分は精霊だ。朱莉がいる限り、いずれまた焔の中から産まれ出るだろう。それは「火の精霊」であって「誄岑」ではないが、要は朱莉を護れればいいのだから、それが誄岑である必要は無い。

 焔が身体全体をどんどんと包んでいく。周囲の草木も巻き込んで、あたりは火の海だ。だが診療所に張っている結界は、誄岑がいなくなっても数刻なら持ちこたえる。それだけあれば同胞たちが帰ってくるはずだから、問題はない。

 緩やかに身体が下降しはじめた。そろそろ誄岑を燃やしつくすらしい。誄岑という燃料が無くなれば、いずれ焔も消える。最期に見たい顔はあったが、贅沢は言っていられないだろう。

「……ま、仕方ないね」

「何がだ」

 独白に答えるものがあって、誄岑は閉じかけていた瞼をゆっくり開けた。間髪入れずに身体が風に包まれて、再び上昇する。

「馬鹿者が」

 しっかりと抱えられた肩の感触だけが、夢では無いことを教えていた。

「…なーにしてんだか…」

「俺の台詞だ」

 乱暴に誄岑の肩を左手で抱え、蓮玉はそう吐き捨てた。

 空いている右手を彼女の胸元に翳す。誄岑を燃やしている焔は、その胸元の傷から発生しているものだ。そこに、蓮玉は手を当てた。何をするつもりなのか、誄岑じゃなくても想像がつく。

「馬鹿はあんただろ。無駄だから、放しなよ」

「黙っていろ」

 蓮玉の手から、風が生まれる。いつもよりさらに不機嫌な蓮玉の表情を、誄岑はぼんやりと見上げていた。



 一方、地上ではそんな二人の様子を誰もが息を飲んで見つめていた。紘毅と朱莉を突風から護った土の壁は、もうない。楼峻が解いたからだ。おかげで、上空の精霊二人の様子がよく見える。

 燃え盛る焔の中、蓮玉が誄岑を抱えて何事か始めようとしているのだ。

「なあ、奏琳の水で、どうにかならないのか?」

 人型となって二人を庇うように立っている奏琳は、紘毅の質問に難しい顔で首を振った。

「不可能ではありませんが、そうしますと誄岑自身も傷つけてしまいます。焔を消すと言うことは、誄岑の力の源を消し去るということです」

「でも、風じゃ焔を消すことなんてできないでしょう?」

 これは朱莉からの問い。

 風は、火をあおる。蓮玉が誄岑に力を行使するということは、焔を増長させるはずだ。水で消すか、さもなくば土で抑えるか。

「残念ですが、楼峻の大地よりも誄岑の焔のほうが力は上です。誄岑がここまで焔を解放しているなら、土で抑え付けたとて、干からびて崩れてしまいます」

「じゃあやっぱり、蓮玉に任せるしかないのか」

「はい。きっと大丈夫です」

 なおも不安そうな朱莉に、奏琳はきっぱりと言う。

「信じてください。あなたの精霊を」

「……うん」

 朱莉がうなずくと同時に、再び土の壁が辺りに出現する。頭上だけがかろうじて空いた状態で。

「楼峻?」

 答えはない。次の瞬間には奏琳が右腕を軽く払った。土の壁を瞬間冷却する。壁が完璧になるのを見計らったように、灼熱の焔があたりに撒き散らかされた。

「なんだぁ?」

 思わず紘毅が声を上げる。奏琳が壁を冷やし続けているにも関わらず、熱風が頬を叩いてくる。それほどすさまじい焔が辺りを包んでいるのだ。

「誄岑、まだこんなに力が残ってたのかよ」

「いいえ、これはおそらく蓮玉です」

「蓮玉が?」

 奏琳は、自分の胸元に手を立てた。

「我々精霊に、人間と同じような臓器や血管はありません。ただ、核があります。人間の心臓と同じようなものです。ここが滅びれば、精霊は滅びます」

 奏琳は、頭上を仰いだ。焔に遮られてはいるが、かろうじて蓮玉が誄岑を抱えているのが見える。

「我々は普段、力を使うときは自然界にあるものを使います。今、楼峻は地面の土を使ってこの壁を起こし、わたしは空気中の水素を使って冷やしています」

 説明しながらも、奏琳は上空から目を放さない。

「ところが、それだけでは足りないときがあります。自然界のものを使うには限度がありますから。その限界が、誄岑の場合は我々よりも早く訪れます。自然界で、勝手に焔が生まれることはほとんど無いからです。彼女が、普段は焔ではなく苦無で戦おうとするのはそのためです」

 誄岑のもつ苦無は、焔を纏うことが出来る。ただでさえ武器としての能力が高い苦無ならば、最小の焔で戦闘が可能なのだ。

「しかしあの楠木は、意思を持ってこちらを襲ってきた時点で、自然とは異なるもの――いわば妖となってしまいました。おそらく、自然界の焔を使ったのでは倒せなかったのだと思います」

 そこまで言って、奏琳はやっと頭上から視線を外して朱莉を見た。

「自然のものを使っても効果がなかった場合、我々が使うのが、この核です」

 胸元に当てていた右手を、軽く握る。

「核には、精霊たちの持つ能力そのものを呼び起こす力があります。わたしなら水を、楼峻は土を、蓮玉は風を、そして、誄岑は焔を。核からそれぞれ呼び起こせば、呼び起こした精霊の器を糧として、地水風火が出現するのです」

「おい、ちょっと待て。それってつまり、お前たちそのものが土だの水だのになるってことじゃないのか?」

 紘毅にしては珍しく物分りがいい。奏琳は、はいとうなずいた。

「じゃあ、さっき奏琳が不可能じゃないけどって言ったのは…」

 朱莉の顔に不安が広がる。

「今、燃えているのは誄岑の核です。それを消せば、誄岑も消えてしまいます。そして、本気になった誄岑の焔を消すには、やはりわたしも核から水を出さなければならないでしょう。下手に水を出したところで、瞬間的に蒸発してしまうと思います」

「そんな…! じゃあ、誄岑は!」

「大丈夫です、姫」

 胸元で握る奏琳の手が、震えている。大丈夫だと、まるで自分に言い聞かせるように。

「蓮玉を、信じてください」

 めったに見ることのない、奏琳の強い視線。朱莉はそれ以上何も言わず、両手を口元で握り合わせた。

 

 祈りに似ていた。



 核から焔を払いのけ、胸元の傷をふさぐ。

 蓮玉がやろうとしているのはそういうことだ。風ならば、焔を消さずに対処が出来る。だが理論上は可能というだけだ。払いのけたところで燃えているのは核自身だし、よしんば一時的に焔をどかすことが出来ても、誄岑が自ら胸元に空けた傷をふさがないことにはどうしようもない。

「だから、無駄だって言ってるのに」

「俺は黙れと言ったはずだが」

「黙ると応えた覚えは無いね」

 まったく口の減らない誄岑に、蓮玉はちっと舌打ちした。こんなときくらい、おとなしく黙ればいいものを。だが、一方でいつもどおりであることに安堵しているのも事実だった。

 誄岑の胸元に翳した手から、再び風を起こす。先ほどから何度か払いのけようと試みているが、身体に巻きついている焔は払えても、核自体から焔が払えない。

 どうする。

 苛ついて視線を動かせば、地上に残った同胞二人が、協力して主と紘毅を護る壁を築いていた。あの二人は相性が良いのだ。そこにあるのが乾いた砂でも、奏琳が水で固めれば何ものも貫けない壁が出来るし、逆に酸素が薄い場所でも、土に入り込んだ水分があれば、奏琳は能力の行使に事欠かない。

「…なるほど」

 思いついて、蓮玉は視線を誄岑に戻した。そして、問いかけた。

「その髪はどうした」

 突然の質問に誄岑は少々驚いた顔を見せたが、すぐに邪魔だったので焼き切ったと答えが返ってきた。

「また伸ばせ」

「何をいきなり…。次の火精霊に言いなよ」

「俺はお前に言っている」

 ちなみに誄岑は、蓮玉が自分の前でだけ一人称を変えることを知らない。

 蓮玉は誄岑の胸元から手を外し、短くなった髪に触れた。一房指に絡めて、すぐに放す。

「また伸ばせる」

 放した手で、風を起こす。

 蓮玉の衣装が、髪が、瞳が、白銀から漆黒に染まっていく。蓮玉も核から風を起こし始めた証拠だ。それを見て慌てたのは誄岑だった。

「蓮! なにを」

「何度も言わせるな。黙っていろ」

 風は、何かを吹き飛ばすばかりが能ではない。蓮玉が生み出したのは、誄岑の核を包み込むための風だ。穏やかな風の幕の中で、誄岑の核が燃え続ける。それを確認して、蓮玉は誄岑の胸元の傷口に手をやり、これも風の幕で覆った。

「蓮…」

「終わりだ。降りるぞ」

 焔は、風に煽られれば強くなる。核自身ではなく風を燃料として燃え続ければ、誄岑への負担は減る。風もまた、焔を巻き込むことで勢いは強くなる。

 一時凌ぎでしかないが、ともかくあたり一帯に巻き散らかされていた焔は治まった。後は朱莉が治してくれる。

 主の主たる所以は、精霊たちを呼び起こし、付き従わせることが出来るからだけではない。精霊たちが弱ったとき、自然治癒以外に唯一治癒できる能力を持ったのが主だ。

 人間であるがゆえに、焔を暴走させている誄岑には近づけないが、今の状態なら十分に治療できるだろう。

「…あんたも、大概、しつこいね…」

 ほとんど力がつきかけている誄岑は、それでも口だけは減らない。言い返そうと蓮玉が口を開きかけたとき、誄岑は気を失った。

「…馬鹿者が」


 舌打ち交じりに呟いて、ことさら静かに両手で抱えなおした。

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