最初の勝利は、静かすぎた
神谷 恒一は、朝起きてまずスマホを見た。
そこにある数字は、昨日と同じように増えていた。
+320万円ではない。
そのさらに上に、もう一段積み上がっている。
「……マジか」
声は小さかった。
驚きというより、確認に近い。
「これ、ゲームか何かか?」
そう呟いて、神谷は起き上がる。
だが、現実感はまだ薄いままだった。
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会社はもう辞めている。
時間は完全に自由になったはずなのに、逆に何をすればいいのかわからない。
「金があると暇になるって、本当なんだな」
コンビニで買ったコーヒーを飲みながら、神谷はスマホを眺めていた。
そこには昨日と同じチャート。
仮想通貨。
昨日、なんとなく買ったもの。
「……もうちょい入れるか」
理由はない。
でも、怖さもなかった。
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その日の午後。
神谷は追加で数千万円を入れた。
それは“投資”というより、“確認”だった。
どこまで行くのかを見てみたかっただけ。
その夜。
画面の数字が一気に跳ねた。
+1800万円
「……あー」
神谷は天井を見た。
驚きはない。
むしろ、静かだった。
「これ、普通じゃないな」
初めて“違和感”ではなく“確信”に変わった瞬間だった。
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翌日。
神谷は別の投資を始めた。
株。
不動産クラウドファンディング。
海外市場。
やり方は雑だった。
だが、なぜか全部が“当たる側”に寄っていく。
まるで、最初から結果が決まっているみたいに。
「なんで全部勝つんだよ」
笑ってしまった。
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その頃、元の職場では。
「神谷?辞めたってよ」
「マジで?あいつ急に?」
「なんか最近おかしかったもんな」
誰も気にしていないようで、少しだけ話題になる程度だった。
社会とはそういうものだった。
いなくなっても、すぐ慣れる。
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その夜。
神谷はタワーマンションの高層階で夜景を見ていた。
まだ“正式な住居”ではない。
ただの内見用の部屋だ。
ガラス越しに広がる東京の光は、綺麗というより“無機質”だった。
「金持ちって、もっと楽しいもんだと思ってたけどな」
グラスを揺らす。
中身はただの水だ。
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その時、スマホが震えた。
奈緒からだった。
『ねえ、最近どうしてるの?』
短いメッセージ。
神谷は少しだけ間を置いてから返した。
『普通』
すぐに返事が来る。
『絶対普通じゃないでしょ(笑)』
神谷は画面を見つめた。
なぜか、その一言が少しだけ刺さる。
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「普通じゃないか」
小さく呟いた。
その通りだった。
でも、どこからズレたのかはわからない。
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翌朝。
神谷はさらに資金を動かした。
今度は“ほぼ全力”。
理由はもうなかった。
ただ一つだけあったのは――
「どうせ勝つだろ」
その感覚だった。
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夜。
数字は爆発していた。
+1億円
画面を見た神谷は、しばらく動かなかった。
「……あ」
それだけ。
喜びでも、驚きでもない。
ただ、静かな確信だけが残った。
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その瞬間、神谷は理解した。
自分はもう、“普通の人間のルール”で生きていない。
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窓の外では、東京の夜がいつも通り流れていた。
誰も気づかない。
何も変わらない。
でも神谷だけは、確かに変わっていた。
「これ、もう戻れないやつだな」
静かに言って、スマホを置いた。
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そしてどこかで、奈緒はまだ気づいていなかった。
神谷 恒一がすでに――
別の世界に片足を踏み入れていることに。




