8-2
「……ル」
肩を揺さぶられ、ピエールは重たい瞼を開く。
「……ルクレツィア、様」
ルクレツィアは表情を綻ばせた。
「良かった。目を覚ましたのね」
何が起こっているのかすぐには理解できなかった。
何故自分は、ルクレツィアの部屋で眠っていたのだろう。
上体を起こすと、固い床に預けていた背中が軋んだような痛みを訴える。そこでピエールは、自分がとある男に殴られたのを思い出したのだった。
妙ちきりんな服と髪型をした、乱暴な言葉遣いの男。
スラムで出会った時は不意打ちだったせいでやられたのだと思っていた。しかしピエールはまたもや殴られてしまった。
今度は不意打ちではない。真正面からの戦いで、完膚なきまでに打ちのめされたのだ。
たかが一発の拳かもしれない。しかしその拳はピエールの頑なな心に重たく響いた。
「私、殴られたはずでは……」
殴られたはずの頬を触ってみても、痛みはおろか、熱を持っている気配すらない。
(そういえば、スラムには回復魔法を持つ「聖女」がいるという話を聞いたことがあるな)
ルクレツィアの護衛を務めていたピエールはここ数年屋敷の外を出ていなかった。そんな彼の元に届く噂話は、既に話題の賞味期限が切れたものばかりだ。
本名を聞いたこともなければ、そもそも性別すらも知らない。「聖女」という言葉の響きからあの巨大を連想する人は恐らくいないだろう。
(……何が聖女だ)
勝負で負けた相手に情けをかけられ、傷を治されたのだ。男としてこれほどの屈辱はない。
悔しさ歯噛みするピエールだったが、その一方で胸の内がスッキリしている自分にも気がついていた。
長らく背負っていた肩の荷が降りたような清々しささえ感じている。
「申し訳ありません、お嬢様。私はあなたをお守りすることができませんでした」
「あなたが謝る必要はないわ。勝手に部屋を抜け出したのは私ですもの。……それに、もうじき家庭を持つ人間がいつまでも誰かに守られているわけにはいかないでしょう?」
ルクレツィアの言葉に、ピエールはハッと目を見開く。
「本当はずっと迷っていたけれど、今度こそ覚悟を決めたわ」
ルクレツィアは片頬を赤く腫れさせ、勝ち気に笑う。
「私はカイン様と結婚する。お父様に言われたからじゃないわ。私自身が、私の意志でそうすると決めたの」
ルクレツィアとの思い出がピエールの脳裏に目まぐるしく過ぎった。
ルクレツィアは子供の頃から何があろうとも前向きだった。父親に叱られても、大好きだった兄や姉が結婚のために家を離れてしまっても、彼女はいつも最終的には仕方ないと笑って、物事を受け入れていた。
そのように育ててしまったのは自分だ。
両親に捨てられ、それこそ泥を啜るような生活を送っていたピエールにとって、悲しみは無駄な時間だった。
起きてしまったことは変えようがないのだ。とにかく前を向いて「今」を生きる方法を考えなければならない。
がむしゃらに生きてきたピエールは腕を買われて、ローゼンシュヴァルツ家に仕えるまでになった。だから、この生き方は決して間違っていないのだと信じていた。
しかし今、どこまでも前向きに生きようとするルクレツィアを見て、果たして自分の考えは本当に正しかったのかと不安になった。
傷を抱えて尚気丈に振る舞う彼女は、美しく、だけど痛々しい。
自分は彼女のこのような姿を見たくて、これまで彼女を守ってきたのだろうか。
(……いや、違うはずだ)
ピエールは男の勝負に負け、ルクレツィアを守るという本来の任務を果たせなかった。
自分の役目はもうじき終わる。いや、もう終わったのだ。
だったらもう、いっそこのこと。
自分の好きにさせてもらおう。




