7-3
低い男の声が聞こえた。ルクレツィアはその場に立ちすくんだ。彼女だけではない。その声を聞いた途端、貴臣の体は痺れたように動かなくなってしまった。
全身の筋肉が感覚を失い、声を出すことすらできなくなる。
時が止まったのだと思った。しかし、貴臣の視界に一人の男性が現れたことにより、魔法をかけられたのだと悟る。
立派な口髭を生やした壮年の男は、ルクレツィアには近づかず、だが威厳のある声で彼女に言う。
「突然ピエールから警告が届いたから何かと思えば。こんなところで何をしているんだ」
男が一拍拍手をすると、固まっていたルクレツィアの体が動き出す。
「お、お父様……」
ルクレツィアの顔は真っ青だった。
「わ、私はお出かけしようとしただけですわ」
「外出は禁じていたはずだが」
「中庭に行こうとしたんですの。良い天気だったものですから、綺麗な景色を眺めながらお茶を飲むのも悪くない気がしたんですのよ」
父親はルクレツィアの言い訳には耳を貸さず、貴臣を一瞥する。
「この者は誰だ。この辺りでは見ない格好だな」
魔法を解かれていない状況では、弁明することすらできない。貴臣はただ、事の成り行きを見守るしかなかった。
「あ、新しくこの家にやって来た護衛ですの」
「護衛? 雇った覚えはないぞ」
「以前、外を歩いていた時に私を助けてくださったの。そのお礼に、護衛として雇うことを決めたんですわ」
父親は訝しげに貴臣を睥睨し、軽くあしらうように鼻で笑う。
「ただの護衛にしては、やけに馴れ馴れしい態度じゃないか」
「そ、それは_____」
たじろぐルクレツィアに、父親が詰め寄る。
「ルクレツィア。まさかとは思うが、お前は嫁入り前の大事な時期でありながら、この男に誑かされたのではないだろうな」
「ち、違いますわお父様! 私の話を聞いて_____」
パン、と乾いた音が響く。父親がルクレツィアの頬を叩いたのだ。
ルクレツィアは叩かれた箇所を手で押さえ、俯いた。
「言い訳など聞きたくない。勝手に家を抜け出しただけでも見過ごせないというのに、婚前に不貞行為など……! お前はどこまで私の気持ちを裏切れば気が済むのだ」
「……ごめんなさい」
「ピエールもピエールだ。お前の監視も碌にできないどころか、このような不審者を易々と家に入れるとは、一体どういうことなんだ」
「ピ、ピエールは関係ありませんわ! 私が悪いんですの! だからピエールを責めないで!」
ルクレツィアは父親に縋りついた。ルクレツィアを振り払うように父親は腕を上げる。彼女の小柄な体で対抗することができず、ルクレツィアは床に倒れ込んだ。
(何故だ、ルクレツィアさん。何故いつものように言い返してやらないんだ。それともこれも彼女の作戦なのか……?)
筋金入りのヤンキーである昴にさえ食ってかかる胆力を持つルクレツィアが父親の言いなりになっているという事実が、にわかには信じがたかった。
貴臣はこの目で見たのだ。護衛の攻撃の合間を、それこそ蝶が舞うような優雅さで潜り抜け、貴臣の元まで走ってきたその姿を。
あの瞬間、ルクレツィアはやはりただ者ではなかったのだと再認識した。
彼女ならば、父親に打たれる前にすぐに避けることができるはずだ。父親の理不尽な要求に反抗することができるはずだ。
それなのに、何故……。
「……お願い、私が悪いの。ピエールにも、チーノ様にも酷いことはしないで!」
「それはお前の態度次第だ。これからは二度と私に逆らわないと約束できるか?」
ルクレツィアは声にならない声を上げ、何度も頷く。父親は貴臣を見遣り、意地の悪い笑みを浮かべた。
貴臣は理解した。これは反抗したからといって解決する問題ではないのだと。
実の娘であるルクレツィアはそのことを良く知っているのだろう。
目の前で暴力をふるわれている人がいるというのに何もできない。貴臣にとってこの状況はかなりの屈辱だった。
(せめて声を出すことさえできれば、挑発でも何でもして、向こうの気を僕の方へと逸らすことができるのに……!)
決してルクレツィアを助けてやりたいなどという殊勝な態度ではない。
ピエールとの決闘を直前で阻止されたこともあって、とにかく腹が立って仕方がなく、喧嘩の相手を探しているだけだ。
貴臣は自身の怒りをそのように解釈した。
指先に力を込める。動く気配はない。
(動け)
「ルクレツィア。ワシがどれだけお前に金をかけてやったか分かっているだろう。お前のような小娘が好きなように生きていられるのも、ローゼンシュヴァルツ家に生まれたおかげじゃろうが」
歯を食い縛ろうとする。
(動けよ)
「ルクレツィア。良い子だから、部屋に戻りなさい」
「……はい、お父様」
ルクレツィアが涙を手で拭って、その場を離れようとする。
(動け。僕にならできるはずだ)
「カミノゴカゴ」を使っていた昴の姿を思い浮かべる。
昴は、あの魔法について何と言っていただろうか。
『ナントカっつうヤツにショーカンだかなんだかされて、そのうえこの回復魔法まで勝手に付けられて……』
『回復魔法。厳密には魔法じゃねぇらしいが、良く分かんねぇや』
ラルメリアによってこの世界に召喚された時、彼女は何と説明していただろうか。
『召喚された人は、魔法とは違う特別な力を得るみたいなんです。その力は、実際に発動してみないとどういうものか分からないようですが……』
動け、と頭の中で繰り返し唱えていた時、ふっと体が軽くなる感覚があった。
(動け!)
貴臣は息を吸った。




