EP 9
届いた手紙と、静かなる殺意
辺境伯領に新たな『絶対防衛結界』が展開されてから数日後。
リゼットのアトリエでの日常は、ますます充実したものになっていた。
「よし、これで雷竜の角を使った迎撃システムの調整は完璧ね」
クラウスに作っている専用のループタイの仕上げを進めつつ、騎士団から持ち込まれる細かな武具のメンテナンスも並行してこなす。
忙しくはあったが、王都の屋根裏部屋でのブラック労働とは天と地ほどの差があった。
ここには、休憩時間になれば温かい紅茶と焼き菓子を運んでくれるメイドがいて、「奥様、これ使えませんか!」と珍しい鉱石を拾ってきてくれる騎士たちがいる。
そして何より、リゼットの才能を世界で一番愛し、守ってくれる不器用な旦那様がいるのだ。
「奥様。旦那様がお呼びです」
アトリエの扉がノックされ、初老の執事が姿を見せた。
その顔には、どこか困惑したような、あるいは微かな怒りを堪えているような色が浮かんでいる。
「どうしたの? 何かあったのかしら」
「それが……王都のオズワルド男爵家――奥様のご実家から、旦那様宛てに書状が届きまして」
リゼットはピタリと手を止めた。
(お父様から? 未払い賃金の請求書についての文句かしら……それとも、王宮の魔導具が壊れたって泣きついてきたとか?)
どちらにせよ、ろくな内容ではないだろう。
リゼットは作業用のエプロンを外し、クラウスの待つ執務室へと向かった。
***
執務室に入ると、クラウスは大きなマホガニーのデスクの前に座っていた。
彼の手には、王都からの豪奢な封筒が握られている。
「来させたな、リゼット」
「はい。私宛てではなく、旦那様宛てに手紙が来たそうですが」
クラウスは無言のまま、手にしていた手紙をリゼットに差し出した。
受け取って便箋に目を通したリゼットは、数秒後、思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。
『冷酷無慈悲な辺境伯へ。無能な娘をくれてやったのだから、相応の結納金(金貨三千枚)を払え。支払いが済んだら、無能で役に立たないリゼットはこちらで引き取ってやるから感謝しろ』
(……相変わらず、自分の立場も相手の立場もわかっていないのね。お父様もミリアナも)
金貨三千枚といえば、小規模な領地が買えるほどの莫大な金額だ。それを平然と要求し、おまけに帝国最強の武力を持つ辺境伯に対して「感謝しろ」と上から目線で言い放っている。
呆れを通り越して、もはやコメディだった。
「ひどい内容ですね。こんなもの、まともに読む価値もありませんわ」
リゼットは笑いながら便箋をビリッと破り捨て、部屋の隅にあるくずかごへポイッと放り投げた。
「あの家には、もう一ミリも未練はありませんから。……旦那様?」
振り返ったリゼットは、クラウスの様子がおかしいことに気づいた。
彼は椅子に深く腰掛けたまま、ピクリとも動かない。
だが、その黄金の瞳は絶対零度に凍りつき、執務室内の空気が物理的に冷え込んでいるような錯覚に陥るほどの、恐ろしい殺気を放っていた。
「……あいつらは、お前を無能と呼んだ」
地を這うような、低い声。
「そして、結納金という名の身代金を要求し、お前を『引き取る』と言い放った」
「だ、旦那様、あんな馬鹿げた手紙――」
リゼットが宥めようとした瞬間、耳につけた翻訳魔導具から、耳をつんざくような大音響の本音が叩きつけられた。
『(許せん!!! 許せん許せん許せんッッ!! 俺の女神を! この辺境の空を救い、領民に春をもたらした偉大なる天才を、あのゴミ虫どもはまだ無能と侮辱したのか!? 万死に値する!! 今すぐ竜騎士団を全軍出撃させ、王都の男爵邸を物理的に消し炭にしてやる!! 俺の妻を道具扱いした罪、血で贖わせてやる!!)』
(ちょ、ちょっと待って! 心の声のスケールが国家反逆罪レベルになってる!)
表向きは静かな怒りだが、内心ではすでに完全武装で王都に突撃するシミュレーションが完了しているようだ。
リゼットは慌ててクラウスの机の前に歩み寄り、彼の手を両手でギュッと握りしめた。
「旦那様! あんな人たちのために、旦那様や騎士の皆様が手を汚す必要はありません!」
「……っ」
「私は、今が一番幸せなんです。大好きな魔導具作りができて、それを喜んでくれる皆様がいて……旦那様が、私を大切にしてくださっているから。過去の嫌な思い出なんて、もうどうでもいいんです」
リゼットが真っ直ぐに見つめて微笑むと、クラウスの纏っていた殺気が、ふっと霧散した。
『(あああああ天使だ!! 俺の妻は慈愛の天使だ!! こんなに優しく握られたら怒りなんて吹き飛んでしまう!! そうだ、俺が野蛮な真似をしてリゼット様を悲しませるわけにはいかない! 俺は辺境伯だぞ、もっとスマートに、合法的に奴らを社会から抹殺しなければ!)』
(……え? 抹殺する前提は変わってないの?)
内心でツッコミを入れつつも、クラウスが落ち着きを取り戻してくれたことにリゼットはホッと息を吐いた。
「……お前がそう言うなら、物理的な排除は控えよう」
クラウスは少しだけ耳を赤くしながら、視線をそらして咳払いをした。
「ありがとう、リゼット。……お前はもう下がっていい。アトリエでの作業もあるだろう」
「はいっ。旦那様も、お仕事頑張ってくださいね」
リゼットは嬉しそうに微笑み、執務室を後にした。
――クラウスの冷徹な瞳の奥で、恐ろしい計算が働いていることには気づかないまま。
***
リゼットが部屋を出た直後。
クラウスは手元のベルを鳴らし、側近である副団長と、法務・財務を司る文官を執務室に呼び入れた。
「……お呼びでしょうか、閣下」
ただならぬ気配を察し、副団長が緊張した面持ちで尋ねる。
クラウスは机の上で両手を組み、その冷徹な黄金の瞳をすっと細めた。
「オズワルド男爵家を、物理的にではなく『経済的』に完全に包囲し、粉砕する」
「……は?」
「奴らは我が妻を侮辱し、あろうことか身代金を要求してきた。このまま野放しにしておけば、いずれまたリゼットに不快な思いをさせるだろう。害虫は、二度と這い上がれないところまで徹底的に駆除しなければならない」
冷酷無比な氷の辺境伯としての、真の顔。
彼は、愛する妻を傷つける者に対しては、一片の容赦も慈悲も持たない男だった。
「たしか、リゼットは王都を出る際、『ゴルドスマイル銀行』に未払い賃金の請求書を提出していたな」
「はい。特許侵害料と未払い賃金、合わせて金貨五千枚という莫大な請求です。男爵家の現在の資産では、到底支払える額ではありません」
「ならば、その首を真綿で絞め上げるぞ」
クラウスは文官に向かって、淀みなく指示を出し始めた。
「まず、ゴルドスマイル銀行の頭取に直接連絡を取れ。俺の個人的な資産を担保にし、男爵家の口座凍結を確実なものにしろ。次に、王都で男爵家と取引のあるすべての商会に圧力をかけろ。『男爵家と取引を続ける商会は、今後辺境伯領で採れる魔石や魔獣素材の取引を一切禁ずる』とな」
その言葉に、文官は息を呑んだ。
辺境伯領から産出される高品質な素材は、王都の商会にとって喉から手が出るほど欲しいドル箱だ。それを止められるとなれば、どの商会も一斉に男爵家から手を引くことは火を見るより明らかである。
「さらに、男爵が抱えている他の負債の債権を裏からすべて買い叩け。返済期限を今日から三日後に設定し、一括返済を迫るのだ」
「か、閣下……それは、完全に男爵家を破産させる手筈では……」
「破産で済むと思うな」
クラウスの瞳が、氷のように冷たい光を放った。
「奴らは結納金を要求してきている。つまり、自らこちらに『借金取り』を差し向ける口実を作ってくれたというわけだ。……もし期限までに支払えなければ、法に則り、男爵家の屋敷、領地、そして奴らの身柄ごとすべて差し押さえる」
文官と副団長は、顔を見合わせてブルッと身震いした。
辺境伯は怒っている。
それも、怒鳴り散らすような単細胞な怒りではなく、理詰めで退路を完全に塞ぎ、相手が絶望の底で泣き叫ぶまで追い詰める、最も恐ろしい種類の怒りだ。
「よろしいのですね、閣下。王都の貴族を一つ潰すとなれば、王室から横槍が入る可能性もありますが」
「構わん。王太子アルバートも同罪だ。もし王室が庇い立てするなら、辺境軍が前線で押さえている魔物の群れを、数日ほど王都の方角へ『素通り』させてやるまでだ」
「ヒッ……!!」
そこまで言われては、もう誰も彼を止めることはできない。
この男は、愛する妻のためなら、国一つを敵に回してでも平然と滅ぼしにかかる狂気を秘めているのだ。
「手筈は整ったな。迅速に実行しろ。リゼットの耳には絶対に入れるなよ」
「は、ははっ! 直ちに取り掛かります!」
青ざめた文官たちが執務室から逃げるように退室していく。
一人残されたクラウスは、大きく息を吐き出すと、椅子に深く背中を預けた。
『(ふう……危ないところだった。リゼット様に握られた手の感触を思い出しながらだと、うっかり顔がニヤけて冷酷な演技が崩れるところだったぜ。
それにしても、リゼット様のあの笑顔……「今が一番幸せ」だなんて……ああっ、俺もだ! 俺も最高に幸せだ!! お前たちのようなゴミ虫に、彼女の幸せを邪魔させてたまるか。社会の底辺で泥水でも啜ってろ!!)』
机の上に残された、破り捨てられた男爵家からの手紙の残骸。
それを冷ややかに見下ろしながら、氷の辺境伯は愛する妻のために、一切の容赦のない「経済的処刑」のボタンを静かに押したのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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