EP 7
絶対防衛結界と、妻への賞賛
都市防衛結界の中枢は、辺境伯邸の最も高い場所――北の塔の最上階に安置されていた。
分厚い石扉を開けると、冷え切った空気が肌を刺す。部屋の中央にある台座には、街全体を覆う結界の核となる巨大な魔石が浮遊していたが、その表面には無数の亀裂が走り、明滅する光は今にも消え入りそうだった。
「……やはり、王都の魔導士どもが数年前に施した術式は、北の苛烈な魔力環境に耐えきれなかったようだな」
背後に立つクラウスが、腕を組んで苦々しく吐き捨てた。
王都から遠く離れた辺境では、優秀な魔導士を派遣してもらうことすら難しい。この劣化したコアで、彼らは毎冬、決死の覚悟で魔物の群れから街を守っていたのだ。
「大丈夫です。コア自体の魔力はまだ残っていますから、『完全修復』で器を直し、新しい術式を『概念付与』で編み直せば、以前よりずっと強固なものになります」
リゼットは作業用のエプロンを身につけ、袖を捲り上げた。
手元には、先日クラウスが命懸けで(本人は散歩のついでと言い張っていたが)持ち帰ってきた伝説の素材――『紫電の角』と『永久氷晶』が用意されている。
「少し、時間がかかります。朝までには終わらせますね」
「……無理はするな。辛くなったらすぐに休め」
冷たく短い言葉。だが、リゼットの耳の『翻訳魔導具』からは、即座に大音量の本音が鼓膜を叩いた。
『(あああああリゼット様に徹夜などという重労働をさせてしまうなんて! 俺が代わってやりたいが、俺の魔力ではコアを粉砕することしかできない! 不甲斐ない! せめて俺は、一睡もせずに全力で彼女を見守り、一切の邪魔が入らぬようこの扉の前で仁王立ちしていよう!!)』
(……見守るどころか、扉の前で仁王立ちされたら気になって作業どころじゃないわ)
リゼットは心の中で苦笑しつつ、深く深呼吸をして魔石に向き合った。
「――『完全修復』」
リゼットの両手から放たれた翠緑の光が、巨大な魔石を包み込む。
パキ、パキパキ……と音を立てて、魔石の表面に走っていた亀裂が嘘のように塞がっていく。
続いて、リゼットは細かく砕いた『紫電の角』の粉末を魔力で空中に浮かばせ、コアの周囲に新たな立体魔法陣を描き始めた。
雷竜の力が持つ「迎撃」と「超伝導」の性質を利用し、結界に触れた魔物へ自動的にカウンターの雷撃を放つシステムを組み込むのだ。
さらに、膨大な魔力による術式のオーバーヒートを防ぐため、『永久氷晶』を冷却装置としてコアの深部に埋め込んでいく。
作業は苛酷を極めた。
繊細な魔力コントロールを数時間ぶっ通しで行うため、額にはじっとりと汗が滲み、指先が微かに震え始める。
その時、ふわりと肩に温かいものが掛けられた。
上質なウールで作られた、分厚い毛布だった。
「……冷える。羽織っておけ」
傍らには、いつの間にかクラウスが立っていた。
彼の大きな手には、湯気を立てるマグカップが握られている。
「ジンジャーと蜂蜜入りの紅茶だ。……体が温まる」
そっぽを向いたままマグカップを差し出す彼に、リゼットは目を丸くした。
『(休めと言っても、この方は絶対に作業を止めないだろう! ならばせめて、俺にできるサポートを全力でするまで! 料理長を叩き起こして一番温まる茶を淹れさせた! 頼むから冷えないでくれ、リゼット様が風邪を引いたら俺は己の不甲斐なさを呪って腹を切る!!)』
「……ふふっ。ありがとうございます、旦那様」
リゼットは毛布をしっかりと羽織り直し、温かいマグカップを受け取った。
一口飲むと、ピリッとした生姜の刺激と蜂蜜の優しい甘さが、疲れた脳と体に染み渡っていく。
王都での過酷な徹夜作業では、誰も温かいお茶など淹れてくれなかった。
失敗すれば罵倒され、成功しても「ミリアナの手柄」として奪われるだけ。孤独で、冷え切った屋根裏部屋での作業が当たり前だった。
けれど、今は違う。
極寒の北の塔にいるというのに、背中を包む毛布と、不器用な旦那様の気遣いが、リゼットの心をポカポカと温めていた。
「よしっ。魔力、全開でいきます!」
リゼットは空になったマグカップを置くと、再びコアに向かい合った。
愛する仕事のため、そして、自分を大切にしてくれる彼と、この領地のために。
***
やがて、塔の小窓から白み始めた朝の光が差し込んだ頃。
「――術式定着、『絶対防衛』および『自動環境維持』の概念を付与!」
リゼットの澄んだ声と共に、巨大なコアが爆発的な輝きを放った。
翠緑の魔力光が塔の天井を突き抜け、天空へと真っ直ぐに立ち昇る。そして上空で花火のように弾け、街全体をすっぽりと覆う巨大なドーム状の結界となって展開された。
それは、ただの防御結界ではなかった。
淡いオーロラのような光を帯びた結界は、外からの魔物の侵入を完全に遮断するだけでなく、極寒の冷気や吹雪をも弾き返す。そして、結界の内部には、春の陽だまりのような心地よい温もりが満ちていった。
「完成……しました……!」
魔力を使い果たし、ふらりとその場に倒れ込みそうになったリゼットの体を、強靭な腕がしっかりと受け止めた。
「リゼット!」
クラウスだった。彼は氷の仮面をかなぐり捨て、焦燥に満ちた顔でリゼットを抱きとめていた。
「無茶をしすぎだ……! 息が上がっているではないか!」
「だ、大丈夫です……魔力切れで、少し目眩がしただけで……」
彼のがっしりとした胸板に寄りかかりながら、リゼットは塔の窓の外を指差した。
「見てください、旦那様。……結界が、街を包んでいます」
クラウスが窓の外へ視線を向けると、ちょうど眼下に広がる街並みが見えた。
早朝の街路や練兵場に出てきた領民や騎士たちが、空を見上げてどよめいている。
「おい、空を見ろ! 結界の光が、昨日の何十倍も濃いぞ!?」
「それに……なんだか、寒くない! 吹雪が結界に弾かれて、街の中は春みたいに暖かいぞ!」
「防壁のすぐ外にいた岩トカゲが、結界に触れた瞬間に雷に打たれて黒焦げになったって報告が来たぞ!? 一体、何が起きてるんだ!?」
街中が、信じられない奇跡に沸き返っていた。
王都の魔導士でさえ匙を投げた結界の修復を、たった一晩で、しかもかつてないほど強固で快適なものへと進化させてしまったのだ。
「……お前という人間は、本当に」
クラウスは、腕の中にいるリゼットを呆然と見下ろした。
その直後、耳の翻訳魔導具から、彼のもはや限界を突破した歓喜の嵐が吹き荒れた。
『(あああああああああ!!! なんという美しさだ!! これが俺の女神の力!! 結界の強度だけでなく、領民の生活環境まで配慮した気候調整機能まで組み込んでいるだと!? 天才!! いや神童!! 万物の創造主!! 王都の腐れ貴族どもはこの奇跡を間近で見てなお彼女を無能と呼んだのか!? 節穴か!! 今すぐあいつらの目を抉りに行きたい!!)』
物騒極まりない絶叫が脳内で暴れ回っているが、クラウスの表情はどこか誇らしげだった。
「行くぞ、リゼット。街の者たちに、この奇跡を起こした主が誰なのかを教えなければならない」
クラウスは、フラフラするリゼットを気遣うように、その肩をそっと抱いて塔を降りた。
***
辺境伯邸の広大なバルコニー。
その眼下にある練兵場には、結界の異変を聞きつけた竜騎士団の全軍と、大勢の領民たちが集結していた。
バルコニーにクラウスが姿を現すと、広場は水を打ったように静まり返った。
クラウスは、隣に立つリゼットの肩に手を置き、拡声の魔導具を通じて、領内全域に響き渡る威風堂々たる声で宣言した。
「刮目せよ。我が領地の空を覆う、この盤石なる新結界を」
領民たちが息を呑む中、クラウスの黄金の瞳が誇り高く輝く。
「この結界は、俺の妻――リゼット・フォン・レグナルドが一晩で構築した魔法の結晶だ! 我が妻は、魔物の脅威と極寒の苦しみから、お前たちを救済したのだ!」
その堂々たる宣言が響き渡った瞬間。
一瞬の静寂の後、広場から爆発するような大歓声が巻き起こった。
「おおおおおっ!! 奥様バンザイ!!」
「俺たちの女神様だ!! リゼット様、ありがとうございます!!」
「リゼット様! リゼット様!」
何千人もの人々が、リゼットを見上げて彼女の名前を叫び、感謝の言葉を天へ向かって放り投げていた。
熱狂的な「リゼット・コール」が、辺境の空に木霊する。
「……私の、名前……」
リゼットは、バルコニーの手すりを強く握りしめ、震える声で呟いた。
これまでは、どんなに頑張って国宝級の魔導具を作っても、世間から浴びせられる称賛はすべて「聖女ミリアナ」のものだった。
誰もリゼット・オズワルドという人間の努力を知らず、彼女の作品をただの便利な道具として消費するだけだった。
けれど今、何千人もの人々が、自分の作った結界に守られ、笑い、彼女自身の名前を呼んで感謝してくれている。
そして何より、隣にいるこの最強の騎士が、誰よりも彼女の功績を認め、世界中に向かって誇らしげに自慢してくれているのだ。
『(見たかお前ら!! これが俺の妻だ!! 世界で一番天才で、優しくて、可愛い俺の妻だ!! 刮目して拝め!! そして感謝しろ!! 俺は今、世界で一番幸せな男だ!!)』
ダダ漏れの心の声を聞きながら、リゼットの目から再び大粒の涙が溢れ出した。
今度は、悲しさや恐怖の涙ではない。
人生で最高の、達成感と幸福感に満ちた涙だった。
「泣くな。お前は、誇るべき偉業を成し遂げたのだから」
クラウスが、不器用な手つきでリゼットの頭にポンッと手を乗せた。
大きな手から伝わる温もりに、リゼットは涙を拭いながら満面の笑顔を向けた。
「はいっ……! ありがとうございます、旦那様!」
冷たくて恐ろしいと言われていた「氷の辺境伯」の隣。
そこは、彼女の才能を搾取する者が誰もいない、底抜けに温かくて甘い、リゼットだけの本当の居場所だった。
この日から、リゼット・フォン・レグナルドの名は、「辺境の至宝」として領民と騎士たちから熱狂的に崇拝されるようになる。
一方その頃、リゼットを失った王都の実家では、彼女の残した「未払い賃金と特許料の請求書」の恐ろしさと、魔導具のメンテナンス切れという時限爆弾が、静かに、だが確実に起動し始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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