EP 5
血塗れの旦那様と、伝説の素材
辺境伯邸での生活は、リゼットにとって夢のような日々の連続だった。
三食温かいご飯が食べられて、ふかふかのベッドで眠れる。何より、誰にも邪魔されずに大好きな魔導具作りに没頭できるのだ。
「……うん、この防護結界の展開式は、もう一段階最適化できそうね」
昼食の時間。ダイニングテーブルで食後の紅茶を楽しみながら、リゼットは羊皮紙にカリカリと新しい設計図を書き込んでいた。
騎士たちの武具を修繕したことで、彼らの戦闘スタイルを大まかに把握できたリゼットは、今度は彼ら個人に合わせた専用のサポート魔導具を作ろうと意気込んでいた。
「でも、この術式を定着させるには、手持ちの魔石じゃ魔力伝導率が少し足りないわね。威力を安定させるには、極寒の雪山で数百年かけて作られる『永久氷晶』か、Sランク魔物である雷竜の『紫電の角』あたりがあれば最高なんだけど……」
リゼットはペンを止め、はぁ、とため息をついた。
『永久氷晶』も『紫電の角』も、王都のオークションに出品されれば城が一つ建つほどの幻の素材だ。いくらアトリエの素材が豊富とはいえ、さすがにそんな伝説級の代物は置いていない。
「……それが欲しいのか」
「ひゃっ!?」
突然、背後から低い声が降り注ぎ、リゼットは素っ頓狂な声を上げてしまった。
振り返ると、いつの間にかダイニングに入ってきていたクラウスが、リゼットの書いた設計図を冷たい金色の瞳で見下ろしていた。
「だ、旦那様! いらしたならお声をかけてくだされば……!」
「その素材があれば、お前の魔導具は完成するのだな?」
「えっ? あ、はい。でも、ただの私の妄想ですから! どちらも国宝級の幻の素材ですし、手に入るわけが……」
「そうか」
クラウスはそれだけを短く言い捨てると、くるりと踵を返した。
そして、風のように足早にダイニングから立ち去っていく。
『(待っていてください俺の女神!! あなたが望むなら、空の星でも地の底のマグマでも、この俺が必ず獲ってきてご覧に入れます!!)』
「……え?」
耳元の『翻訳魔導具』から特大の雄叫びが聞こえ、リゼットはぽかんと口を開けた。
今の心の声、なんだかすごく嫌な予感がするのだけれど。
「旦那様!? ちょっと、どこへ行かれるんですか!?」
リゼットが慌てて廊下へ飛び出した時には、すでにクラウスの姿は影も形もなくなっていた。
***
翌日の夕方。
リゼットの嫌な予感は、最悪の形で的中することになる。
「だ、団長が帰還されたぞーっ!! 衛生兵! 誰か衛生兵を呼べ!!」
城の中庭から、見張りの騎士の悲痛な叫び声が響き渡った。
アトリエで作業をしていたリゼットは、弾かれたように立ち上がり、中庭へと駆け出した。
(嘘でしょ……もしかして、本当に一人で幻の素材を探しに……!?)
中庭に出たリゼットは、そこに広がる光景に息を呑んだ。
夕闇の中、城門をくぐって歩いてくる巨躯の男。
漆黒の甲冑は赤黒い血にまみれ、マントはボロボロに引き裂かれている。その手には、巨大な麻袋が引きずるように握られていた。
まるで地獄の底から這い上がってきた殺戮の鬼のような姿に、集まってきた使用人たちは恐怖で悲鳴を上げ、騎士たちでさえ青ざめて後退っている。
「旦那様!!」
リゼットは周囲の静止も聞かず、血塗れのクラウスのもとへ駆け寄った。
「お怪我は!? ひどい血……すぐに治癒魔法を……!」
「触るな」
クラウスが低く鋭い声で制止した。
その顔には、魔物の返り血がべったりとこびりつき、絶対零度の瞳がギラギラと恐ろしい光を放っている。周囲の空気が凍りつくような威圧感だった。
「これは俺の血ではない。すべて魔物の血だ。お前の手が汚れる」
クラウスは冷たく言い放つと、手に持っていた巨大な麻袋を、ドサァッ! とリゼットの足元へ投げ捨てた。
「散歩のついでに、落ちていたものを拾ってきた。お前のガラクタ作りにでも使え」
麻袋の口が開き、中身が石畳の上に転がり出る。
それを見た瞬間、周囲を取り囲んでいた騎士たちから、「ヒッ……!」という引き攣った悲鳴が上がった。
「ば、馬鹿な……! 大人の頭ほどもある『永久氷晶』だと!?」
「それにあの角……間違いない、北の霊峰の主、Sランク魔獣『雷竜』の紫電の角だ! 一本でもかすり傷を負えば即死の猛毒を持つというのに!」
「だ、団長……まさか昨夜からたった一人で、霊峰の主を狩ってきたのか……!?」
騎士たちの驚愕の声に、リゼットは目を見開いた。
本来なら、一国の騎士団が総力を挙げて数週間がかりで討伐するような伝説級の魔物。それを、クラウスはたった一日で、しかも「散歩のついで」と言い張って一人で狩ってきたというのだ。
周囲が恐怖と畏敬の念で震え上がる中、リゼットの耳の魔導具だけが、相変わらずクラウスの『真実』をガンガンと拾い上げていた。
『(ああああああリゼット様!! 少し遅くなって申し訳ありません! 雷竜の奴が思いのほかタフで、三つの山を越えて追いかけ回す羽目になりました! でも大丈夫です、あなたのためなら魔王の首でも引っこ抜いてきますから!
……って、あああっ! 俺の血塗れの姿を見て、リゼット様が言葉を失っておられる! 完全に怯えさせてしまった! 馬鹿か俺は! 素材を洗ってから渡すべきだった! 嫌だ、嫌われないでくれ俺の女神!!)』
「…………」
リゼットは、血に染まった恐ろしい形相の辺境伯と、足元に転がる国宝級の素材の山を見比べた。
(……この人、本当に……)
呆れと、それを遥かに上回る感情が胸に押し寄せてくる。
昨日、自分が昼食の席で「あればいいな」と呟いた、ただの独り言。
それを叶えるためだけに、彼は一睡もせず、一人でSランクの魔物の巣へ飛び込み、これほどの危険を冒して帰ってきたのだ。
リゼットのために。
リゼットの仕事を、誰よりも尊重してくれているから。
「……旦那様」
リゼットは、クラウスの「触るな」という言葉を完全に無視して、彼に一歩踏み込んだ。
「なっ……離れろと言ったはずだ。俺は今、血の匂いが――」
「お散歩で、雷竜の角なんか落ちてませんよ」
リゼットは自分の袖口で、クラウスの頬にこびりついていた魔物の血を、そっと優しく拭き取った。
「え……?」
クラウスの瞳が、驚きに見開かれる。
「本当に、無茶ばかりする人なんですね」
リゼットは少しだけ困ったように眉を下げ、それでも隠しきれない極上の微笑みを浮かべて、彼を真っ直ぐに見上げた。
「……ありがとうございます。私のために、ここまでしてくださって。この素材、私の魔導具師としての誇りにかけて、最高の作品に仕上げてみせます。……でも、もう二度と、私を置いて危険な真似はしないでくださいね?」
その言葉と、頬に残るリゼットの温もり。
クラウスは、カッと目を見開いたまま、完全に石化した。
『(――――――――ッッッ!!!!!!)』
魔導具から、今日一番の、いや人生最大レベルの鼓膜を破るような無音の絶叫が響いた。
『(触れ……頬に、触れてくださった!? しかも俺を心配して!? 女神だ! やはり俺の妻は慈愛の女神だ!! 死ぬ! 嬉しすぎて今ここで心臓が破裂して死ぬ!! あああ誰か俺を殴って気絶させてくれ、顔がニヤけるのを抑えきれない!!)』
クラウスはぷるぷると全身を震わせると、バサァッ! と血塗れのマントで顔の下半分を覆い隠し、クルッと背を向けた。
「……俺は水浴びをしてくる。あとは好きにしろ」
それだけを早口で言い捨てると、クラウスは脱兎のごとく城の中へと逃げていった。よく見れば、耳の裏から首筋にかけて、茹でダコのように真っ赤に染まっている。
残された騎士たちと使用人たちは、ポカンと口を開けてその背中を見送っていた。
「だ、団長が……奥様に触れられて、逃げた……?」
「あんなに怒り狂った鬼みたいな顔をしてたのに、奥様が微笑んだ瞬間、借りてきた猫みたいに大人しく……」
畏怖と混乱が渦巻く中、リゼットだけはクスッと小さく吹き出した。
「本当に……不器用で、可愛らしい旦那様」
足元に転がる『紫電の角』と『永久氷晶』を拾い上げ、リゼットは決意した。
これほどの素材を使って作る、辺境での私の最高傑作。
それは、騎士団のための防具なんかじゃない。
(まずは、旦那様を守るための……世界に一つだけの、専用魔導具を作らなきゃね)
自分の才能を愛し、自分のために血を流して無茶をしてくれる、あの激重で愛すべき不器用なパトロンのために。
リゼットは、素材の入った重い麻袋を抱え上げると、軽やかな足取りで自分だけのアトリエへと戻っていった。
読んでいただきありがとうございます。
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