EP 3
雲海を越えて――空の海と限界突破の愛
帝都郊外、鉄の墓場と称される兵器廃棄場。
瓦礫と赤錆に覆われた荒野の中央で、白銀の小型高機動飛空艇『スノードロップ号』が、朝露を浴びて静かにその双翼を休めていた。
「閣下、奥様。周囲の監視網は我が辺境軍の隠密が完全に封鎖しております。宮城の密偵どもに気取られることなく、離陸可能です」
見送りに立った副団長が、胸に手を当てて深く一礼した。
皇帝ジルヴェスターの冷徹な視線が帝都全体に張り巡らされている以上、この出航は大々的な見送りなど許されない極秘の出撃だ。もし失敗して墜落すれば、皇帝の言った通り「無駄死にした反逆予備軍」として闇に葬られるだけの冷酷な賭け。
「留守を頼む。帝都の別邸と辺境領の連絡線を常に維持しておけ。万が一、宮廷の残党が怪しい動きを見せたら、躊躇わず辺境軍の全権を発動して構わん」
「はっ! 閣下と奥様のご武運を、心よりお祈り申し上げます!」
クラウスは短く頷くと、リゼットの手を取ってスノードロップ号の搭乗ハッチをくぐった。
プシュゥゥゥ……と音を立てて肉厚のミスリル・チタン合金の扉が閉ざされ、外界の喧騒が完全に遮断される。
艇内は、リゼットの職人としての美学が詰め込まれた合理的な空間だった。
無駄な装飾を一切削ぎ落とした二人乗りのコクピット。前面と天蓋には、装甲と同等の強度を持つ特殊強化クリスタルの風防が嵌め込まれ、操縦席のコンソールには、リゼットの手によって精密に刻印された無数の計測計とルーン基盤が淡い翠緑の燐光を灯している。
「主機、古代浮揚炉の予熱完了。魔力循環率、百二十パーセントで安定しています。……旦那様、いつでも飛べます」
操縦桿を握り、リゼットが振り返る。
助手席に腰を下ろしたクラウスは、腕を組んで不敵な笑みを浮かべた。
「行け、リゼット。お前が創り出した翼で、空の果てまで駆け上がれ」
「はいっ! スノードロップ号、発進!!」
リゼットが主レバーを一気に押し倒した。
キィィィィィンッ――!
甲高い高周波の駆動音が響き渡り、艇尾の双発魔導スラスターから青白いプラズマの噴流が解き放たれる。
全長二十メートルの白銀の船体がふわりと宙に浮き上がったかと思うと、次の瞬間には重力の束縛を嘲笑うような猛烈な加速で、垂直に近い角度で天へと撃ち出された。
ゴォォォォォォッ!!
背中をシートに押し付けられる強烈な慣性。
眼下の帝都ソレイユの街並みが、みるみるうちに豆粒のような小ささへと縮んでいく。白亜の宮城も、雲を突く黄金の城壁も、すべてが足元へと遠ざかり、二人は青空の青さを通り越して、上空に立ち込める灰色の巨大な壁へと突入しようとしていた。
「高度五千! これより、第一関門――『絶対障壁雲海』に入ります!」
リゼットの警告と同時に、視界のすべてが濃密な暗雲に呑み込まれた。
そこは、地上と天空を分かつ死の領域。
高密度エーテルが渦を巻き、暴風が船体を激しく殴りつける。外気は一瞬にして氷点下数十度まで急降下し、クリスタルの風防がピキピキと音を立てて凍りつき始めた。
バチバチバチッ!!
紫色の凶悪な雷光が雲海の中を縦横無尽に走り、スノードロップ号の外殻を容赦なく撃ち抜く。
並の軍用飛空艇であれば、装甲が融解して空中分解しているところだ。
だが、リゼットが廃材から分子レベルで再結晶化させた流線型の装甲は、雷撃のエネルギーを受け流し、むしろ動力炉の補助電力へと変換して吸収していた。
「左舷スラスターに乱気流の直撃! 船体が流されます!」
「慌てるな。魔力供給は俺が支える」
クラウスが座席越しにリゼットの肩へ手を伸ばし、自らの莫大な闘気をコンソールへと注ぎ込んだ。
ドクンッ、と脈動する計器類。
リゼットは歯を食いしばり、自作の姿勢制御魔導具『慣性中和ジャイロ』のルーンを全力で励起させた。
「――『ベクトル反転』! 嵐の風圧を推進力へ置換!!」
ドガァァァァンッ!
船体を押し戻そうとする暴風を、スノードロップ号は逆に踏み台にして超加速した。
白銀の刃と化した船首が、渦巻く暗雲を真っ二つに切り裂き、猛烈な勢いで雲海の天井を突き破る。
そして――。
フッ……と。
それまで艇内を満たしていた耳を劈く轟音と激しい振動が、嘘のように完全に消失した。
「……あ」
リゼットの口から、無意識の吐息が漏れた。
操縦桿を握る手の力が自然と抜け、彼女の翠緑の瞳が、前面の風防の向こう側に広がる光景に吸い寄せられる。
そこは、地上の人間が誰一人として見たことのない、神々の箱庭だった。
足元には、見渡す限りの純白の雲海。
先ほどまで激しい嵐を吹き荒れていた暗雲の上層は、まるで穏やかな雪原のように果てしなく広がり、月光を浴びて青白く輝いていた。
そして頭上には、遮るもののない、宇宙の深淵。
天蓋の青黒い闇の中に、宝石をぶちまけたような無数の星々が瞬き、巨大な銀河の帯が白銀の弧を描いている。空気の塵ひとつない極限の高度だからこそ拝める、息を呑むほどに純粋で、圧倒的な星空。
「すごい……。旦那様、見てください……! こんな世界が、空の上にあったなんて……」
リゼットは少女のように目を輝かせ、風防に両手を当てて息を呑んだ。
王都の狭い屋根裏部屋で、冷たい床に膝を抱えていたかつての自分。
世界から無能と切り捨てられ、誰にも必要とされないと泣いていた自分が、今、自らの手で創り上げた船に乗り、世界の頂点から満天の星空を見上げている。
胸の奥から熱いものが込み上げ、視界がじんわりと潤んでいく。
その時。
スッ、と。
背後から伸びてきた太く逞しい腕が、リゼットの華奢な肩を包み込み、そのまま彼女の体を後ろからすっぽりと抱き寄せた。
「だ、旦那様……?」
驚いて振り返ろうとするリゼットを、クラウスは逃がさないように優しく、けれど力強く己の胸板へと引き寄せた。
高度一万メートルを超える極限の希薄な空気と、肌を刺すような極寒。
だが、クラウスの分厚い軍服越しに伝わってくる体温は、暖炉の火のようにどこまでも温かく、リゼットの冷え切った指先をじんわりと溶かしていく。
「動くな。冷えるぞ」
「でも、操縦が……」
「自動巡航モードに入っているのだろう。少し休め」
耳元に触れる、低く落ち着いた生の声。
クラウスは自らの左手を伸ばし、リゼットの耳元にある『翻訳魔導具』のイヤリングを、カチリと音を立てて器用に外した。
「……あ」
頭の中にいつも響いていた、騒がしくも愛おしい限界オタクの絶叫が止む。
静寂に包まれたコクピットの中、二人の心臓の鼓動と、穏やかな呼吸の音だけが重なり合う。
「旦那様……どうして、外したんですか?」
リゼットが小首を傾げると、クラウスは彼女の銀糸の髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「あのような魔導具を通さずとも……お前に伝えたい言葉があるからだ」
その声音のあまりの甘さと熱気に、リゼットの心臓がトクンと大きく跳ねた。
「お前は、本当に凄い女だ。誰も登れなかったこの空を、ゴミの山から創り出した船で越えてみせた。……お前の隣で、お前と同じこの星空を見ることができて、俺は心から幸せだ」
不器用で、けれど一切の誤魔化しのない、真っ直ぐな愛の告白。
翻訳魔導具による大音響のギャグではない。
帝国最強の騎士が、一人の男として、最愛の妻へ向けて紡ぎ出した、剥き出しの本音。
「リゼット。俺の命はお前のものだ。この空の上でも、地の果てでも、お前が行きたい場所へ俺がすべて連れて行ってやる」
「旦那様……っ」
リゼットの頬が、林檎のように真っ赤に染まる。
いつも心の中で叫んでくれている言葉も嬉しいけれど、こうして生の声で、耳元で熱く囁かれる破壊力は、比較にならないほど凄まじい。
胸が苦しいほどに締め付けられ、リゼットはクラウスの腕の上に自らの手を重ね、ギュッと握りしめた。
「私、旦那様の隣にいられて……本当に、世界一幸せです」
星明かりの下、二人の距離がゼロになり、唇が重なり合おうとした――まさにその瞬間。
ピピピピピピピッ!!!
コンソールの警告魔導具が、空気を読まないけたたましい電子音を鳴り響かせた。
「……チッ」
クラウスが舌打ちをし、リゼットは弾かれたように操縦席へ視線を戻した。
コンソールの星脈水晶レーダーが、前方の空間の異常な魔力歪曲を検知して激しく赤く明滅している。
「旦那様、前方に巨大な魔力反応です! 空間が……歪んでいます!」
二人が前面の風防へ目を凝らした、その時。
遥か彼方の雲海の切れ目から、轟音と共に立ち上る暗黒の雷雲。
その稲妻の閃光の中に、月光を遮るほどの圧倒的な『巨影』が、ゆっくりとその異様な全貌を現した。
ゴゴゴゴゴゴォォォォッ……!!
それは、空に浮かぶ島などという生易しいものではなかった。
巨大な大樹の根のように複雑に絡み合った黒鉄の岩塊。その直径は数キロメートルにも及び、岩塊の頂には、幾千年前の神話の時代に栄えた白亜の神殿群と、天を突き刺す巨大な主機オベリスクがそびえ立っている。
島の下部からは、大気中の魔力を吸い上げる禍々しい紫色の光の奔流が噴き出し、周囲の空間そのものを歪ませていた。
失われた超古代浮遊都市――『ラピス・ネビュラ』。
「……出たな」
クラウスが腰の大剣に手をかけ、黄金の瞳を猛禽のように細めた。
先ほどまでの甘い空気は一瞬にして消え去り、コクピット内には死線を幾度もくぐり抜けてきた戦士たちの冷徹な緊張感が満ちていく。
リゼットは再び翻訳魔導具のイヤリングを耳に装着した。
すると案の定。
『(あああああああああああッッッ!! あとコンマ一秒でリゼット様との神聖な口づけが成立したというのに、なんという無粋なタイミングで邪魔をしおるか古代都市のゴミ虫どもめが!!! 万死!! 万死に値する!! 主機オベリスクごと真っ二つに両断して雲海の底へ叩き落としてやる!!!)』
鼓膜を破らんばかりの、本日一番の怒りと怨嗟の大爆音。
リゼットは思わずクスリと笑みをこぼしながら、操縦桿を固く握り直した。
「旦那様。敵の迎撃結界が起動しています。……突入しますよ!」
「ああ。邪魔するものはすべて叩き斬る。全速前進だ!」
甘い夜空の抱擁を終え、二人の戦士は再び背中を預け合う。
世界の命運を握る古代都市へ向けて、白銀の翼が、決死の突撃を敢行しようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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