第五章 『天蓋の古代都市と母の遺志――世界を包む愛の循環』
覇王の冷徹な天秤と、母の手記の「天蓋」
宮城の最深部、限られた側近の立ち入りすら許されない皇帝の私室。
重厚な遮音結界が張り巡らされた密室で、皇帝ジルヴェスターは机越しに二人を静かに見据えていた。
昨日の最高御前会議で見せた、娘の命を救われた父親としての落涙は、もはやその顔のどこにも残っていない。そこに座していたのは、冷徹な計算で大陸の覇権を握り続ける、帝国という巨大な国家機械の心臓そのものだった。
「――改めて問う。天空の古代浮遊都市『ラピス・ネビュラ』。そなたたちは、あの神話の遺物に潜む闇の結社を討ち滅ぼす気があるか」
皇帝の低く掠れた声が、室内の重い空気を震わせる。
クラウスは微動だにせず、鋭い黄金の瞳で皇帝の視線を受け止めた。
「勅命とあらば、我が辺境軍の総力を挙げて敵を粉砕するのみ。……だが陛下、単刀直入にお伺いしたい」
クラウスの声音には、臣下としての礼節の裏に、研ぎ澄まされた刃のような冷気が宿っていた。
「宮廷魔導院長ヴァレンティンの失脚により、中央の権力バランスは大きく崩れた。帝国最強の武力を持つ俺と、皇女殿下を救い皇帝筆頭名誉魔導具師となった妻のリゼット。……この二人が揃っている現状、陛下にとって、俺たちは『黒の月』に次ぐ新たな脅威に見えているのではありませんか」
室内の温度が一瞬で凍りついたかのような沈黙。
普通なら不敬罪で即座に首が飛ぶ問いかけだった。しかし、皇帝ジルヴェスターは眉一つ動かさず、薄い唇の端を冷ややかに吊り上げた。
「……察しが良いな、クラウス」
皇帝は組んだ両手を机の上に置き、灰色の瞳でリゼットを射抜くように見た。
「国家というものは、均整で成り立つ。強大すぎる武力と、神の領域の魔導具師がひとつの領地に結託すれば、それは皇室をも脅かす怪物となり得る。エレナを救ってくれたことには、父親として心から感謝している。……だが、余は皇帝だ。国家の主として、そなたらを無条件で辺境へ帰し、野放しにするわけにはいかん」
露骨なまでの政治的現実主義。
情や恩義ですら、国家統治の天秤に載せて冷酷に計量する覇王の素顔。
リゼットは息を呑んだが、その背中にクラウスの大きな手がそっと触れ、静かな安心感を注ぎ込んだ。
「天空都市の制圧は、結社の殲滅であると同時に……余に対するそなたらの忠誠と、真の力を試す冷徹な『踏み絵』だ。もし世界を滅亡の危機から救い、無事に戻還したならば、辺境領の永久不可侵と完全なる自治を認めよう。……だが、もし失敗すれば、結社もろとも雲海の藻屑となるだけのこと」
「……分かりやすい取引だ」
クラウスは冷たく鼻を鳴らした。
「受けて立ちましょう。俺たちの力、皇帝陛下のその天秤ごと叩き割って見せて差し上げます」
クラウスの不敵な返答に、皇帝は満足そうに目を細め、机の上の極秘資料を押し出した。
***
帝都の別邸に戻った二人は、すぐさま私室の机の上に資料を広げた。
リゼットは、かつてマーサから託された母の革表紙の手記を取り出し、震える指先でその最深部――これまで強力な暗号化が施されており、リゼットの魔力覚醒前には解読できなかった最後の数ページを開いた。
「……旦那様。これを見てください」
リゼットが羊皮紙の余白を指差す。
そこには、母の流麗な筆致で、大地の底を流れる魔脈とは全く異なる、もう一つの巨大な循環図が描かれていた。
「母の手記には、大地の魔脈だけでなく、空の彼方……雲海の上層を巡る『天蓋レイライン(大気循環魔脈)』の理論が記されていました」
「天蓋レイライン……? 空にも魔力の流れがあるのか」
「はい。地上の魔脈が大地を巡る血液だとしたら、天蓋レイラインは世界全体を包み込む『大気の呼吸』です。そして……母が目指していた【環境循環による生命の再構築理論】の、真の最終到達点。それは、辺境の雪山を花畑に変えるような局所的な奇跡ではありませんでした」
リゼットは息を呑み、母が描いた壮大な天球図を見つめた。
「母は、かつて古代浮遊都市が担っていた全地球的気候調整システムを、この手で再現しようとしていたんです。空の天蓋レイラインに生命の循環魔力を乗せることで、大陸全土の飢饉をなくし、毒や瘴気で汚染された死の大地をすべて緑豊かな楽園へと還す……それが、母の研究の本来の姿でした」
点と点が、凄まじい勢いで繋がっていく。
なぜ、『黒の月』は地上の国々を転覆させるだけでなく、雲海の向こうにある古代浮遊都市『ラピス・ネビュラ』を本拠地として占拠したのか。
「奴らの狙いは、浮遊都市の主機を使って、天蓋レイラインを母の『反転術式』で完全に汚染することです」
リゼットの声が微かに震える。
「もし天蓋レイラインが毒で満たされれば、そこから降り注ぐ雨や雪、大気そのものが、生物を狂暴化させる呪具へと変わってしまいます。そうなれば、帝国の防衛結界も、各国の軍隊も何の意味もなしません。……大陸中の生きとし生けるものが、一夜にして理性を失った異形の魔獣へと強制変異させられてしまう」
世界規模の不可逆な破滅。
母の慈愛の理論が、全世界を生き地獄へと変える究極の大量破壊兵器として悪用されようとしているのだ。
「残された時間は多くありません。ヴァレンティンが捕らえられたことで、天空の結社本体も異変に気づいているはずです。奴らが計画を前倒しして天蓋汚染を発動させる前に、私たちが空へ殴り込みをかけ、主機を止めるしかありません」
「……なるほどな」
クラウスは大剣の柄を静かに撫で、薄く笑った。
その黄金の瞳には、世界の危機に対する悲壮感など欠片もなかった。あるのは、妻を政治の道具として試そうとした皇帝と、妻の母の遺産を泥で汚し続ける闇の結社に対する、底知れぬ怒りと冷徹な闘志だけだ。
「皇帝は俺たちを天秤にかけ、試すと言った。……ならば、世界を救い、皇帝の度肝を抜くほどの最大の『貸し』を作ってやるまでのこと。辺境の完全な自治権を勝ち取り、誰にも文句を言わせずにお前と二人で雪国へ帰るぞ」
「旦那様……」
リゼットが顔を上げると、クラウスは彼女の華奢な肩を力強く引き寄せた。
そして。
リゼットの耳に光る翻訳魔導具から、静寂な部屋の空気を吹き飛ばすような、特大の爆音が響き渡った。
『(あああああああああああああああああああああッッッ!!!!)』
鼓膜を揺さぶる、限界突破の絶叫。
『(皇帝の古狸めが!! ぬけぬけと「踏み絵」などとほざきおって!! 俺の天使のような妻を政治の道具として値踏みするなど万死に値する!! 天空都市ごと結社を叩き潰し、世界の英雄として凱旋して、皇帝の青ざめた顔を拝んでやる!! そしてリゼット様と二人で辺境に引きこもり、誰の邪魔も入らない甘い新婚生活を永遠に送るのだ!!! 俺の妻を泣かせる奴は、皇帝だろうが神だろうが全員俺の剣で真っ二つだ!!!)』
「ふふっ……あははっ!」
皇帝の冷徹な政治的圧力すら木っ端微塵に吹き飛ばす、狂おしいほどの激重な愛と怒りの声。
リゼットの胸の奥底に淀んでいた不安と重圧が、その温かい叫びによって瞬く間に溶けていく。
「はい、旦那様! 皇帝陛下にも、天の上の悪党どもにも、私たちの本当の力を見せつけてやりましょう!」
「ああ。だがリゼット、空へ昇るには一つ大きな問題がある」
クラウスは真顔に戻り、資料の最後の頁を指差した。
「古代浮遊都市が存在するのは、厚い雷雲と暴風が吹き荒れる『絶対障壁雲海』のさらに上層だ。帝国軍が保有する現行のいかなる大型飛空艇でも、突入した瞬間に高密度エーテルと雷撃で装甲が融解し、空中分解する。……空へ至るための『船』が、この帝国には存在しない」
地上最強の騎士の武力をもってしても、雲海の暴風と雷帝の荊を物理的に越える手段がなければ、戦場に立つことすらできない。
しかし、リゼットの翠緑の瞳は絶望に沈むどころか、職人としての不敵な輝きを宿していた。
「船がないなら、作ればいいんです」
「……作れるのか? 雲海を突破できる神話級の船を、この短期間で」
「既存の素材や、宮廷の生ぬるい設計図では作れません。でも、私には『概念付与』があります。……旦那様、明日の早朝、私を帝都の郊外へ連れて行ってください」
「郊外? 何があるんだ?」
リゼットは作業用の手袋をギュッと引き締め、満面の笑みを浮かべた。
「帝国軍が何百年も放置してきた、巨大な『兵器廃棄場(スクラップ場)』です。……あそこに眠る古代のガラクタを使って、世界で一番頑丈で、世界で一番速い、私たちだけの船を錬成してみせます!」
冷徹な皇帝の天秤を打ち砕き、天空の神話へと手を伸ばすための第一歩。
天才魔導具師の真骨頂たる「廃材の錬金術」が、今、幕を開けようとしていた。
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