EP 8
魂の外科手術と、奇跡の解毒
皇女エレナの命のタイムリミットまで、残り一時間。
宮城の最奥にある皇女の寝室には、皇帝ジルヴェスターと数名の高位重臣、そしてヴァレンティン公爵をはじめとする宮廷魔導院の幹部たちが集まり、重苦しい沈黙に包まれていた。
ベッドに横たわるエレナの呼吸はすでに風前の灯火であり、黒い茨のような『魂の侵食毒』のアザは、彼女の小さな体の九割を覆い尽くしている。
「……陛下。誠に痛ましく、申し上げにくいことですが」
ヴァレンティンが、悲痛な声色を装って一歩前に出た。
「もはや、殿下のお命は限界です。いかなる奇跡が起きようとも、この呪いを解くことは不可能。……あの辺境の小娘は、恐怖のあまり逃げ出したのでしょう。これ以上殿下を苦しめぬよう、どうかご安らかな最期を……」
その言葉に、皇帝がギリッと歯を食いしばり、拳を握りしめた。
だが、皇帝が口を開くよりも早く。
「――誰が逃げ出したって?」
バンッ! と寝室の重厚な扉が勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、軍服にわずかな煤をつけながらも、覇王すら圧倒する威風堂々たる佇まいの氷の辺境伯クラウスと。
その後ろで、純白と翠緑に輝く巨大な魔導具――『魂魄共鳴カプセル』を浮遊魔法で牽引しながら歩み入る、リゼットの姿だった。
「遅くなって申し訳ありません、皇帝陛下。……『治療』の準備が整いました」
リゼットの凛とした声に、皇帝の灰色の瞳に希望の光が宿る。
「おお……! それは……」
「馬鹿なッ!!」
ヴァレンティンが、目を血走らせて叫んだ。
彼の驚愕は、リゼットが魔導具を完成させたことだけではない。昨夜、結社の暗殺部隊を差し向けたはずの二人が、なぜ無傷でここに立っているのかという恐怖が、その顔にありありと浮かんでいた。
「そ、そんな怪しげなオモチャを、高貴なる殿下の御体に触れさせる気か! 万が一のことがあれば――」
「ええ、万が一のことがあれば、俺の首を差し出しましょう」
クラウスが、ヴァレンティンの言葉を冷たく遮った。
その黄金の瞳に見据えられ、ヴァレンティンは昨夜の暗殺失敗を悟り、ヒッと喉を鳴らして後退った。
「黙れ、ヴァレンティン」
皇帝が、低く鋭い声で一喝した。
「リゼットよ、すぐに始めよ。……エレナを、頼む」
「はい。必ず」
リゼットは短く頷くと、すぐさま行動を開始した。
騎士たちに命じてエレナをそっとカプセルの中へと移し、蓋を閉じる。
透明なクリスタルの向こう側で、苦しげに息をする皇女。その体を覆う黒い呪いは、外部からの魔力を喰らおうと蠢いている。
「旦那様」
「ああ」
リゼットとクラウスは、カプセルの両サイドに立ち、それぞれの左手にはめられた『魔力共鳴のペアリング』をカプセルの制御盤へと押し当てた。
二人の魔力が繋がり、爆発的なエネルギーがカプセルへと流れ込む。
「殿下の生命力の波長を解析……同調開始。これより、壊れかけた魔力回路の『再構築(外科手術)』を行います」
リゼットの翠緑の瞳が、限界まで魔力視を引き絞る。
それは、目に見える肉体の手術ではない。皇女の魂そのものにこびりついた、数億もの複雑な呪いのルーン文字を、一つ一つピンポイントで分解し、正常な生命の循環へと書き換えていく極限の神業。
カァァァァッ……!
カプセルが眩い光を放つ。
だが、呪いも黙って消え去りはしない。
『黒の月』が母の理論を反転させて作った最悪の呪詛。それはリゼットの魔力を感知した瞬間、猛烈な勢いで反発し、彼女の魔力回路へと逆流による精神攻撃を仕掛けてきたのだ。
「……ぐっ!」
リゼットの体がビクッと跳ねる。
頭蓋骨を直接ハンマーで殴られたような激痛。脳内の処理領域が限界を超え、リゼットの細い鼻筋をツーッと一筋の赤い血が伝い落ちた。
「リゼット!」
「大丈夫、です……っ。これくらい……」
リゼットは歯を食いしばり、制御盤から手を離そうとしない。
コンマ一秒でも魔力供給が途切れれば、呪いが再び皇女の魂を喰い破ってしまう。
(お母様の魔法は、こんな呪いじゃない……! 私が、正しい形に戻す!)
だが、呪いの抵抗は凄まじく、リゼットの意識が白く飛ぼうとした、その時。
グッ、と。
背後から、大きくて温かい体が、リゼットの体をすっぽりと包み込むように抱きしめた。
「だ、旦那様……?」
「一人で背負うな。俺の魔力を持っていけ」
クラウスが、リゼットの背中に胸を密着させ、彼女の両手の上から自らの大きな手を重ねたのだ。
それは、単なる魔力供給の枠を超えた、魂レベルでの完全な『同調』。
彼自身の強靭な精神力と、無限とも思える闘気が、リゼットの悲鳴を上げていた魔力回路を分厚い毛布のように包み込み、呪いの逆流を力ずくでねじ伏せていく。
『(ああああああああああ!! 俺の妻が血を流している!! 痛いだろう、苦しいだろう!! 俺が代わってやりたいが、俺の不器用な魔力操作では皇女を救えない!!)』
リゼットの耳の翻訳魔導具から、悲痛で、それでいて限界まで熱を帯びた声が響き渡る。
『(だから俺は、お前の盾になる!! お前の痛みも、苦しみも、すべて俺の闘気で粉砕してやる!! お前はただ、お前の信じる魔法にだけ集中しろ!! 俺が絶対にお前を壊させはしない!!!)』
その激熱で、狂おしいほどの『愛の声』。
頭を割るような呪いの痛みすら、彼のこの温かい声の前では、瞬く間に霞んで消えていく。
「……はいっ、旦那様!」
リゼットの瞳に、再び圧倒的な光が宿った。
二人の魔力が完全に一つに溶け合い、カプセルを通じて皇女の魂へと注ぎ込まれる。
奪う魔法ではない。与え、循環し、育むための魔法。
「――『生命の息吹』、強制定着!!」
パァァァァァァァァァンッッ!!!
カプセルから、先日の雪山を春に変えた時と同じ、神々しいまでの翠緑の光が爆発的に放たれた。
光の波動が寝室を突き抜け、宮城全体を温かい陽だまりのような魔力で包み込む。
「おおおっ……!」
「光が……! なんという温かい魔力だ……!」
見守っていた重臣たちが、その神聖な光に思わず跪き、感嘆の声を漏らした。
クリスタルのカプセルの中で。
エレナ皇女の体を蝕んでいた黒い茨の呪詛が、まるで朝日に照らされた雪のように、シュウゥゥ……と音を立てて完全に蒸発していく。
どす黒かった肌に血の気が戻り、桜色に染まる。苦しげだった呼吸が、規則正しく穏やかなものへと変わった。
光が収まり、静寂が訪れた寝室。
リゼットは荒い息を吐きながら、制御盤からゆっくりと手を離した。
背後で彼女を支えていたクラウスが、優しくハンカチで彼女の鼻血を拭い取ってくれる。
プシュウゥ……。
カプセルの蓋が、静かに開いた。
「……んん……」
エレナ皇女が、長い睫毛を震わせ、ゆっくりと灰色の瞳を開いた。
彼女は不思議そうに瞬きをし、自分を覗き込んでいるリゼットの顔を見つめた。
「……お姉ちゃん、だれ?」
「初めまして、エレナ殿下。私はリゼット。もう、痛いところはありませんか?」
リゼットが優しく微笑みかけると、エレナは小さくコクンと頷き、リゼットの指先に自分の小さな手を重ねた。
「……うん。お姉ちゃんの手……すごく、温かい」
天使のような無邪気な微笑み。
その瞬間、皇帝ジルヴェスターが、玉座で一度も見せたことのないような顔で、その場にガクリと崩れ落ちた。
「エレナ……! おお、エレナ……!!」
冷徹な覇王の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出していた。
彼はカプセルにすがりつくようにして娘を抱きしめ、子供のように声を上げて泣き崩れた。
周囲の重臣たちからも、割れんばかりの歓声と、安堵の拍手が沸き起こる。
「奇跡だ……! 本当に、呪いを解きおった!」
「帝国筆頭の魔導士たちが束になっても治せなかった奇病を、たった一人の少女が……!」
「辺境伯閣下と奥方様、万歳!!」
熱狂と歓喜に包まれる寝室の中で。
ただ一人、ヴァレンティン公爵だけが、幽鬼のように蒼白な顔でその光景を見つめていた。
何十年もかけて築き上げた宮廷魔導院の絶対的な権威。それが、自分が「無能」と見下していた小娘の、たった一つの魔導具によって、完全に、そして無惨に打ち砕かれた瞬間だった。
「ば、馬鹿な……こんなこと、あり得るはずが……」
「あり得たのだよ、ヴァレンティン公爵」
歓声の背後で。
クラウスが、地獄の業火を宿した黄金の瞳で、震える老害を見下ろしていた。
「お前たちが不可能だと切り捨てた命を、俺の妻が救った。……これで、誰が本物の『無能』か、誰の目にも明らかになったな」
クラウスの冷酷な宣告に、ヴァレンティンは絶望のどん底へと突き落とされた。
奇跡は証明された。
残るは、この腐り切った老害の『罪』を、白日の下に引きずり出すことだけ。
帝都を揺るがす最大の「ざまぁ」の舞台――皇帝臨席の最高御前会議への幕が、今、静かに上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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