EP 6
三日間の攻防と、夫婦の工房
皇帝から急遽あてがわれた宮城の離宮は、一夜にして最新鋭の魔導具工房へと姿を変えていた。
豪奢な調度品はすべて壁際に寄せられ、中央に置かれた巨大な作業台の上には、無数の設計図と精密な工具が所狭しと並べられている。
「殿下の体内にある『魂の侵食毒』は、外部からの魔力を餌にして増殖します。だから、直接的な解呪や治癒魔法は通じない」
リゼットは羊皮紙に素早い筆致で数式を書き込みながら、傍らに立つクラウスと副団長に説明した。
「必要なのは、殿下の生命力そのものを外部から『拡張』し、正常な循環を取り戻させること。……お母様の理論を応用した、『魂魄共鳴カプセル(生体浄化装置)』を作ります」
「そのカプセルに殿下を寝かせ、魔力の循環を正常化させることで、呪いを飢え死にさせるというわけか」
「はい。ですが、殿下の弱り切った魂と完全に同調させるためには、極めて純度の高い『白金の魔力線』と、最高品質の『月光水晶』が大量に必要になります」
リゼットがリストアップした素材の目録を受け取り、副団長が力強く頷いた。
「承知いたしました! 帝都最大の商業ギルドへ向かい、直ちに買い占めてまいります!」
副団長は足早に離宮を飛び出していった。
皇女の命のタイムリミットは、わずか七十二時間。一分一秒の猶予もない、極限の戦いが始まっていた。
***
――しかし。
それから一時間後、離宮に戻ってきた副団長の顔色は、土気色に染まっていた。
「か、閣下! 申し訳ありません、素材が……集まりません!」
「どういうことだ。資金ならいくらでも使っていいと言ったはずだぞ」
クラウスが眉をひそめると、副団長は悔しげに拳を握りしめた。
「金の問題ではないのです! 帝都の主要な商会をすべて回りましたが、どこも『白金の魔力線も月光水晶も、たった今、宮廷魔導院の指示で在庫をすべて差し押さえられた』と……! 他の希少素材も、辺境軍への販売を一切禁ずるという通達が回っています!」
「……なんだと?」
クラウスの黄金の瞳が、剣呑に細められた。
リゼットも、工具を持った手を止めて息を呑む。
「宮廷魔導院の指示……ヴァレンティン公爵の仕業ですか」
「間違いないでしょう。奴ら、自分たちの手には負えないと匙を投げたくせに、奥様が皇女殿下を救うことだけは、己の権威を守るために是が非でも阻止したいのです」
それは、あまりにも醜悪で、狂気に満ちた保身だった。
いくら自分たちの地位が脅かされるからといって、皇帝の愛娘の命が懸かっている治療の邪魔をするなど、正気の沙汰ではない。もはや国家への反逆と何ら変わらない愚行だ。
「……老いぼれめ。己の矮小なプライドのために、七歳の少女を見殺しにする気か」
クラウスの全身から、離宮の空気を凍てつかせるほどの絶対零度の殺気が立ち上った。
彼の大剣の柄がミシミシと軋む。今すぐ宮廷魔導院に乗り込み、あの老害の首を物理的に刎ね飛ばしてやりたいという衝動が、彼の理性を焼き切ろうとしていた。
「旦那様」
リゼットが、そっとクラウスの腕に触れた。
「怒る時間はもったいないです。タイムリミットは刻一刻と迫っています。……正規のルートがダメなら、どうにかして別の方法で素材を集めないと」
「……」
妻の冷静な声に、クラウスは深く息を吐き出し、殺気をスゥッと引かせた。
そして、副団長に向かって、地獄の底から響くような冷酷な声で命じた。
「帝都の『裏』に潜ませている、我が辺境軍の隠密部隊をすべて動かせ」
「はっ!」
「正規の商会がダメなら、闇市でも裏社会の流通網でも、すべてを札束で叩き潰してかき集めろ。相場の十倍、いや百倍払っても構わん。中央の検閲など無視しろ」
クラウスは、自身の懐から辺境伯家の莫大な個人資産を証明する『黒金色の手形』を取り出し、副団長へ放り投げた。
「俺の妻の仕事を邪魔する者は、誰であれ絶対に許さん。……二時間以内に、要求された素材をすべてこの工房へ運び込め」
「御意!!」
副団長が弾かれたように飛び出していく。
帝国の最前線で命を懸けて戦い続けてきた辺境軍の「本気」は、武力だけではない。その圧倒的な財力と、目的のためなら手段を選ばない冷徹な兵站能力。
宮廷の温室でふんぞり返っているだけの老害の嫌がらせなど、氷の辺境伯の前では児戯にも等しかった。
***
クラウスの宣言通り、きっかり一時間半後。
離宮の工房には、帝都の闇ルートから強引に掻き集められた最高品質の白金線と月光水晶が、山のように運び込まれていた。
「完璧です! これだけあれば、絶対に作れます!」
リゼットの翠緑の瞳が、希望に輝く。
彼女はすぐさまゴーグルを装着し、作業台へと向かった。
そこからは、まさに神業と呼ぶにふさわしい、夫婦の完璧な連携作業が始まった。
リゼットが極細の工具を使い、水晶の表面に肉眼では見えないほどの緻密なルーン文字を彫り込んでいく。
そして、その傍らでクラウスがリゼットの肩にそっと手を置き、彼女の術式構築に合わせて、自身の莫大な魔力を寸分の狂いもなく供給し続けるのだ。
「旦那様、次の回路を繋ぎます。魔力の波長を、少しだけ熱属性に傾けてください」
「ああ、任せろ」
ドクンッ……。
クラウスの手から流れ込んでくる魔力は、どこまでも温かく、そして力強い。
繊細な作業を続けるリゼットの疲労を和らげるように、彼は魔力の中に「治癒」と「精神安定」の概念を無意識に混ぜ込んでいた。
互いの呼吸、魔力の脈動、そして思考の先読み。
言葉を交わさずとも、二人は一つの生き物のように同調し、前代未聞の医療魔導具のパーツを次々と形作っていく。
『(あああああああああ!!! 真剣な眼差しで工具を振るうリゼット様の横顔!! 汗ばんだうなじ!! すべてが美しすぎる!!!)』
静寂に包まれた工房の中で。
リゼットの耳の翻訳魔導具からは、相変わらず限界突破した歓喜の絶叫が鳴り響いていた。
『(俺の魔力が、リゼット様の指先を通って形になっていく!! まさに二人の初めての共同作業!! 愛の結晶!! 徹夜で作業する妻の負担を少しでも減らすためなら、俺は一滴残らず魔力を絞り尽くしても構わん!! 頑張れリゼット様!! 俺がずっと傍で支え続ける!!!)』
皇女の命が懸かった極限のタイムリミット。
ヴァレンティンの卑劣な妨害による極度のプレッシャー。
普通の魔導具師であれば、恐怖と重圧で手が震え、使い物にならなくなっていただろう。
だが、リゼットの心は、クラウスのこの騒がしくも狂おしいほどの『愛の声』によって、春の陽だまりのように温かく、そして絶対に折れない鋼のように保たれていた。
「ふふっ……ありがとうございます、旦那様。旦那様の魔力、すごく心地いいです」
リゼットが手を止めることなく微笑むと、クラウスは耳の先を赤く染めながら、「……お前が天才なだけだ」と不器用にそっぽを向いた。
妨害を嘲笑うかのように、二人の工房には、希望の光が着実に形作られていく。
徹夜の作業が三日三晩続こうとも、彼らの集中力が途切れることは決してなかった。
愛する者を守り抜くという強靭な意志と、互いへの絶対的な信頼。
「――外殻の魔力回路、定着完了。これより、中枢ユニットの最終組み立てに入ります」
三日目の深夜。
ついに、人がすっぽりと入れる大きさの、純白と翠緑に輝く『魂魄共鳴カプセル』の全貌が、工房の中央にその美しい姿を現した。
皇女の命を救うための、奇跡の準備は整った。
だが、宮廷の暗闇で蠢く害虫どもが、このまま大人しく彼らに手柄を渡すはずがなかった。
カプセルが完成しようとしていたまさにその時、離宮の周囲に張り巡らされていた警戒結界が、音を立てて破られたのである。




