EP 5
皇女の奇病と、禁忌の影
豪奢なシャンデリアが眩く輝く、宮城の大広間。
令嬢たちの仕掛けた毒杯の罠を涼しい顔で退けたリゼットは、クラウスのエスコートで優雅にワルツを踊っていた。
星空を切り取ったような濃紺のドレスが翻るたび、周囲の貴族たちから感嘆の溜息が漏れる。
「……随分と、注目を集めてしまったな」
ステップを踏みながら、クラウスが微かに目を細めた。
リゼットは彼の広い肩に手を添え、ふわりと微笑む。
「旦那様がこんなに素敵なドレスを用意してくださったからです。それに、旦那様のエスコートが完璧ですから」
「俺はただ、お前の引き立て役に徹しているだけだ」
表向きは完璧に冷徹で優雅な『氷の辺境伯』の顔。
だが、リゼットの耳に光る翻訳魔導具からは、もはやワルツの優雅な旋律を完全にかき消すほどの爆音が鳴り響いていた。
『(あああああああ!!! 俺の妻が軽やかだ!!! ステップを踏むたびにふわりと香る花の匂い!! 俺の腕の中にすっぽりと収まる華奢な腰!! 視線を合わせるたびに微笑んでくれるその翠緑の瞳!!! 最高だ!! 今すぐこの広間の時間を止めて、永遠にこの曲が終わらなければいいのに!!!)』
限界突破の歓喜と、強火すぎる愛情。
リゼットは吹き出しそうになるのを必死に堪え、彼の手を少しだけ強く握り返した。
――だが。
その幸福な夜会の空気は、突如として引き裂かれた。
「キャアアアアアアアアアッ!!!」
広間の奥、皇帝や高位の皇族たちが歓談していたバルコニー席から、鼓膜を劈くような女官の悲鳴が響き渡った。
楽団の演奏がピタリと止まり、貴族たちが一斉に視線を向ける。
「エレナ!! エレナ、しっかりしろ!!」
バルコニーから聞こえてきたのは、冷徹な覇王であるはずの皇帝ジルヴェスターの、血を吐くような悲痛な叫び声だった。
「……何事だ」
クラウスが即座にリゼットを背中へ庇い、鋭い視線を向ける。
バルコニー席の床に倒れ伏していたのは、皇帝が誰よりも溺愛しているとされる七歳の末娘、エレナ皇女だった。
愛らしい純白のドレスは、彼女自身の口から吐き出されたドス黒い血によって、無惨に汚れている。
「医務官!! 宮廷魔導院の者たちを呼べ! 早く!!」
大混乱に陥る夜会会場。
クラウスは皇帝の側近たる高位貴族の義務として、リゼットの手を引き、すぐさまバルコニー奥の緊急用控え室へと向かった。
***
緊急用控え室の豪奢なベッドの上で、エレナ皇女は小さな体を丸めて苦しげに喘いでいた。
その顔色は雪のように白く、額からは脂汗が滝のように流れ落ちている。
「どけ! 宮廷魔導院長である儂が診る!」
慌てふためいて駆けつけてきたヴァレンティン公爵が、数人の高位魔導士を引き連れてベッドを囲んだ。
皇帝ジルヴェスターは、握りしめた拳から血が滲むほどの力で怒りを堪え、彼らを睨みつけた。
「ヴァレンティン。……エレナを救え。もしこの子に万が一のことがあれば、貴様ら魔導院の者すべての首を刎ねる」
「は、ははっ! お任せください、皇帝陛下! 我らの至高の治癒魔法をもってすれば、いかなる病も一瞬で……!」
ヴァレンティンは焦りを含んだ声で叫び、杖を掲げた。
「『聖光の極大治癒』!!」
眩い黄金の光が、エレナ皇女の小さな体を包み込む。
宮廷魔導院のトップが放つ、帝国最高峰の回復魔法。いかなる傷や毒も浄化するはずのその光を浴びて――。
「……あ、がっ……ぁぁぁぁぁぁっ!!」
エレナ皇女の口から、絶叫が迸った。
黄金の光に触れた瞬間、彼女の青白い皮膚の下で何かが蠢き、まるで黒い茨のようなおぞましいアザが、首筋から頬にかけて急速に広がり始めたのだ。
「な、なんだこれは!?」
「ひぃっ!? 治癒魔法が、弾かれている……!? いや、治癒の魔力を喰って、病が肥大化しているだと!?」
ヴァレンティンが杖を取り落とし、顔面を蒼白にして後退りした。
他の宮廷魔導士たちも、慌てて解毒魔法や浄化魔法を放つが、結果は同じだった。彼らが魔力を注ぎ込めば注ぎ込むほど、黒い茨のアザは皇女の生命力を吸い上げ、より深く、より広範囲へと増殖していく。
「やめろ!!」
皇帝が怒号を上げ、魔導士たちを蹴り飛ばした。
「貴様ら、エレナを殺す気か!! これはなんだ、ただの病ではないのか!」
「わ、わかりませぬ! いかなる呪いも病も、我らの魔法で浄化できぬはずがない! これは我々の管轄外の、未知の奇病……いや、神の祟りに違いありません!」
自分たちの手に負えないと悟った瞬間、ヴァレンティンはすぐさま責任逃れの言い訳を口走った。
「もはや手遅れです! これ以上下手に魔力を流し込めば、皇女殿下のお命が……!」
「貴様っ、見捨てるというのか!」
激昂した皇帝が剣を抜こうとした、その時だった。
「……失礼します。私に、殿下を診させてください」
静寂に包まれた控え室に、凛とした、どこまでも澄んだ少女の声が響いた。
一歩前に進み出たのは、夜空のドレスを纏ったリゼットだった。
「なっ……田舎者の小娘が、しゃしゃり出るな!」
ヴァレンティンが唾を飛ばして怒鳴る。
「宮廷魔導院の最高権威である我々がお手上げだと言っているのだぞ! それを、魔導具を作るしか能のないお前ごときに何が分かる! もしお前が触れて皇女殿下が崩御されれば、皇帝陛下への大逆罪として死刑になるのだぞ!!」
それは、明らかな保身と牽制だった。
自分たちが匙を投げた患者を、万が一にでも辺境の娘が救ってしまえば、宮廷魔導院の権威は今度こそ完全に失墜してしまう。だからこそ、死刑という言葉で脅し、リゼットを遠ざけようとしたのだ。
だが、リゼットが怯むよりも早く。
「――黙れ、老いぼれ」
クラウスが、ヴァレンティンの首筋に、鞘に納まったままの大剣をピタリと突きつけた。
「ヒッ……!?」
「俺の妻の行く手を遮る者は、宮廷魔導院長だろうと容赦はしない。……下がれ」
絶対零度の殺気を放つ氷の辺境伯の前に、ヴァレンティンは腰を抜かして床にへたり込んだ。
リゼットはクラウスに短く頷くと、苦しむエレナ皇女のベッドの傍に跪いた。
そして、皇女の小さな手にそっと触れ、自身の翠緑の瞳に『魔力視』を集中させる。
(……この魔力の波長。間違いないわ)
リゼットの息が止まった。
皇女の体内で暴走しているのは、未知の病でも、神の祟りでもない。
それは、先日北の雪山の廃城で見たものと全く同じ、黒く禍々しいルーン文字の羅列だった。
(お母様の『環境循環による生命の再構築理論』。……その、反転術式)
秘密結社『黒の月』が、母の理論を悪用して生み出した兵器。
しかし、これは微小な魔物を合体させる呪具や、街から魔力を吸い上げる結界とは違う。
人体の『生命力』に直接寄生し、外部からの魔力干渉(治癒魔法など)をすべて自らのエネルギーに変換して増殖する、極めて悪辣な『魂の侵食毒』だった。
リゼットは静かに立ち上がり、皇帝ジルヴェスターを真っ直ぐに見据えた。
「皇帝陛下。これは病ではありません。意図的に仕組まれた『暗殺用の呪い』です」
「呪いだと……?」
「はい。外部からの治癒魔法や解毒魔法をすべて『餌』にして肥大化する、寄生型の術式です。宮廷魔導士の方々が魔力を注げば注ぐほど、殿下の寿命を縮める結果になります」
リゼットの明確な診断に、皇帝の顔色が険しくなった。
帝都の中枢、それも皇帝の最も愛する娘の体内に、これほど高度な呪いが仕込まれていたという事実。
それはすなわち、『黒の月』の息のかかった裏切り者が、この宮廷の奥深くにまで潜り込んでいるという動かぬ証拠だった。
「……直せるか」
覇王の声音が、微かに震えていた。
皇帝としてではなく、一人の父親としての、血を吐くような悲痛な問い。
「治せるとも! と、言いたいところだが!」
床に這いつくばっていたヴァレンティンが、狂ったように叫んだ。
「陛下! この娘の言葉に耳を貸してはなりませぬ! 外部の魔力を餌にする呪いなど、理論上解呪は不可能です! こんな田舎娘に殿下の命を弄ばせるなど、帝国の恥ですぞ!」
自分の無能を棚に上げ、なおも保身と権威にしがみつこうとする醜悪な老害。
だが、リゼットはヴァレンティンを視界の端にすら入れず、ただ真っ直ぐに、皇帝だけを見つめて言い放った。
「解呪の魔法は通じません。……ですが、私なら、魔導具を使って殿下の魂の循環を強制的に正常化し、呪いを根絶やしにすることができます」
リゼットの声は、確かな自信と、決して揺るがない天才としての誇りに満ちていた。
「私に、三日ください」
張り詰めた控え室の空気を切り裂く、力強い宣言。
「三日以内に、私が必ず、殿下を救うための魔導具を作り上げます。……絶対に、この子を死なせたりはしません」
その言葉の重みに、周囲の貴族たちは息を呑んだ。
もし失敗すれば、皇帝の娘を死なせた大罪人として、九族皆殺しの極刑は免れない。その絶望的なリスクを前にして、彼女は一歩も引こうとしないのだ。
「……よい覚悟だ」
皇帝ジルヴェスターの灰色の瞳に、強い光が宿る。
「もしエレナを救えなければ、お前の首を刎ねる。……それでもやるか」
「お待ちください、陛下」
リゼットが答えるよりも早く、クラウスが静かに、だが圧倒的な威圧感を放ってリゼットの隣に並び立った。
「妻の言葉は、俺の言葉です。もしリゼットが失敗したならば、妻の首ではなく、この俺の首を刎ねていただきたい。辺境の領地も、全財産も、すべて陛下に返上いたします」
「……クラウス」
帝国最強の武力が、一人の小娘のために、自らの命と地位のすべてを天秤に掛けた。
その揺るぎない覚悟を見せつけられ、皇帝は深く息を吐き出した。
「……許可する。三日だ。三日以内に、その『奇跡』とやらを見せてみせよ」
皇帝の決断に、ヴァレンティンたちは絶望的な顔をしてへたり込んだ。
リゼットは小さく一礼し、すぐさま行動を開始する。
「旦那様、急ぎましょう。必要な素材のリストアップと、離宮での特設工房の準備を」
「ああ。資材は俺がすべて手配する。お前は設計にだけ集中しろ」
最愛の夫と並んで歩き出しながら、リゼットの耳の翻訳魔導具からは、クラウスの激重な心の声が響いていた。
『(ああああああああああ!! 俺の妻が死ぬほどカッコいい!!! 皇帝を前にしても一歩も引かず、七歳の少女の命を救うために己のすべてを懸けるその気高さ!! 俺の命などいくらでも懸けてやる!! 世界で一番尊敬しているし、世界で一番愛しているぞリゼット様!!!)』
その騒がしくも温かい声に、リゼットの心に燃える闘志が、さらに強く、美しく燃え上がった。
母の理論を汚す禁忌の呪いなど、絶対に許さない。
天才魔導具師と氷の辺境伯の、帝国の命運を懸けた極限の三日間が、今、幕を開けた。
読んでいただきありがとうございます。
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