EP 9
無音の処刑と、氷の刃
玉座の間を満たしていた紫色の幻影が完全に消え去り、現実の冷たい空気が戻ってきた。
リゼットの足元には、クラウスが瞬きする間に両断した数十匹の合成魔獣の残骸が転がっている。
「ヒッ……化け物め……!」
玉座の前で杖を握りしめる『黒の月』の幹部、ゲイツの喉から、震えるような悲鳴が漏れた。
自らの最強の精神攻撃である『深淵の幻夢』が、ただの少女の意志の力によって術式ごと粉砕されたこと。そして、その少女を守るように立つ黒衣の騎士から放たれる、物理的な圧力を伴うほどの『死』の気配。
ゲイツは悟った。自分が今、対峙してはいけない本物の怪物と相対していることを。
「くそっ、この私を舐めるなよ! これならどうだ!」
ゲイツが黒水晶の杖を頭上へ掲げると、玉座の間の床、壁、天井に、無数の禍々しい魔法陣が浮かび上がった。
それは、城の地下深くに蓄積されていた大地の魔脈を強引に吸い上げ、一気に暴走させる空間トラップの数々。さらに、ゲイツ自身の影がドロドロと溶け出し、五体の巨大な『合成魔獣』へと姿を変えた。
獅子の頭、大蛇の尾、竜の翼。母の理論の反転術式によって生み出された、殺戮のみを目的とするおぞましい異形の怪物たちだ。
「殺せ! あの二人を八つ裂きにしろ!!」
ゲイツの絶叫と共に、五体のキメラが四方から一斉にクラウスたちへ襲いかかる。
同時に、床や壁に浮かんだ魔法陣から、高熱の業火、空間を切り裂く真空の刃、そして触れたものを石化させる毒の霧が、全方位から嵐のように放たれた。
逃げ場のない、完璧な死の結界。
――しかし。
「……」
クラウスは、ただの一言も発さなかった。
彼の表情は、まるで氷の彫刻のように冷たく、一切の感情が抜け落ちている。
黄金の瞳は、目の前の絶望的な光景を映しながらも、微塵の揺らぎすら見せない。
リゼットの耳に光る翻訳魔導具からは、いつものような『(あああああ!)』という騒々しい絶叫も、熱烈な愛の囁きも、何一つ聞こえてこなかった。
完全な『無音』。
それは、彼の心の中に、愛する妻を精神的に痛めつけようとした外道に対する『純粋な殺意』以外の感情が、一滴残らず消え失せていることの証明だった。
彼は今、ただの騎士ではない。完全なる処刑人に成り果てていた。
「旦那様、前方の火炎陣はダミーです! 本命は頭上からの真空刃!」
リゼットの凛とした声が響く。
彼女はクラウスの背後に立ち、星脈水晶のレーダーと魔力視をフル稼働させていた。
左手にはめた『魔力共鳴のペアリング』を通じて、クラウスの莫大な魔力を制御し、自分たちの周囲に必要最低限の完璧な防御結界をミリ単位で展開し続ける。
「左の二体のキメラは、毒霧を持っています。近付かせないで!」
リゼットの解析支援を耳にした瞬間。
クラウスの姿が、フッと空間からブレて消えた。
「なっ……!?」
ゲイツが目を見開いた次の瞬間。
ドゴォォォォンッ!!
左から襲いかかってこようとした二体のキメラが、目にも留まらぬ白銀の剣閃によって、毒霧を吐き出す間もなく、巨大な頭部から尾の先までを完全に真っ二つに両断されていた。
遅れて、凄まじい衝撃波が玉座の間を吹き荒れる。
「バカな……! キメラの装甲を、紙のように……!」
「旦那様、次! 右後方、床の石化陣が起動します!」
リゼットの声と同時に、クラウスは空中で体を捻り、床から立ち昇ろうとした石化の魔法陣の『核』を、大剣の切っ先で正確に貫き通した。
パリンッ! と魔法陣が砕け散る。
無駄な動きは一切ない。
吠えることも、怒りに任せて剣を振り回すこともしない。
クラウスは、リゼットの指示に従い、最短距離で、最も効率的に、敵のすべての攻撃と防衛網を『作業』のように物理的に粉砕していく。
「あ、あああ……っ!」
残る三体のキメラが、クラウスの異常な強さに本能的な恐怖を覚え、後退りした。
だが、処刑人は決して獲物を逃がさない。
ズバッ! ドシャァァッ!!
瞬きする間に二度の剣閃が閃き、三体のキメラは文字通りバラバラの肉塊となって石畳の上に降り注いだ。
血の雨が降る中、クラウスの純白の軍服には、返り血の一滴すら付着していない。
「ヒッ、ヒィィィィッ!!」
自慢の合成魔獣と多重トラップが、たったの数十秒で完全に無力化された。
圧倒的な力量差を突きつけられ、ゲイツは杖を放り出し、玉座の裏へと這いずるようにして逃げ出そうとした。
「旦那様、奴の逃走経路に『転移魔法陣』があります! 起動まで残り三秒!」
「……」
クラウスは無言のまま、大地を蹴った。
その速度は、音すら置き去りにする神速。
転移魔法陣に飛び込もうとしたゲイツの背後に、黒い影が音もなく降り立つ。
「ひゃあっ!?」
ギィンッ!!
白銀の刃が閃き、ゲイツの右手首が、宙を舞った。
「ぎゃあああああああああっ!?」
鮮血が噴き出し、ゲイツが絶叫を上げて床に転げ回る。
だが、クラウスの処刑は終わらない。
ザシュッ! ザシュッ!
無機質な金属音が二度響く。
ゲイツの両足の腱が、骨を絶つことなく、しかし二度と自力で立ち上がれないように、ミリ単位の正確さで完全に斬り裂かれた。
「あぎゃあああああぁぁぁっ! い、痛いっ! 助けてくれぇぇっ!!」
玉座の間に、惨めな絶叫が響き渡る。
つい先ほどまでリゼットを嘲笑い、世界を支配するなどと豪語していた結社の幹部は、自らの血の海の中で芋虫のように這いずり回るだけの哀れな肉塊と化していた。
クラウスは、血まみれでのたうち回るゲイツの背中を、黒い軍靴で冷酷に踏みつけた。
「グオッ……!」
「……」
クラウスは見下ろす。
その黄金の瞳の奥底に、ようやくチロリと、地獄の業火のような激しい怒りの炎が灯った。
「……俺の妻の心を汚そうとした罪」
氷のように冷たく、重い声が、ゲイツの鼓膜を容赦なく叩き据える。
「その身に刻み込み、一生後悔して生きろ」
クラウスは大剣の柄で、ゲイツの後頭部を力任せに打ち据えた。
ゴッ! という鈍い音と共に、ゲイツの白目が剥き出しになり、その体は完全にピクリとも動かなくなった。気絶したのだ。
「……」
クラウスはゆっくりと大剣を振り払い、刃に付いたわずかな血糊を落とすと、静かに鞘へと納めた。
戦闘開始から、わずか数分。
多重トラップ、合成魔獣、そして結社の幹部。
すべてが、クラウスの圧倒的な武力と、リゼットの完璧なサポートによって、一切の慈悲もなく蹂躙され、鎮圧された。
静まり返った玉座の間。
翻訳魔導具からは、まだ何の音も聞こえない。
「……旦那様」
リゼットが、ゆっくりとクラウスの背中へ歩み寄った。
彼の背中から立ち上る、凍てつくような冷気と殺気。
普通の人間なら、恐れをなして後退りするようなその背中に、リゼットは躊躇うことなくそっと両手を回し、後ろから彼の広い背中を抱きしめた。
「……終わりましたよ。もう、大丈夫です」
リゼットの温かい声と、背中に密着する柔らかな体温。
その感触が伝わった瞬間、クラウスの全身からピンと張り詰めていた殺気が、まるで春の雪解けのようにスゥッと霧散していった。
「リゼット……」
「はい。……旦那様、すごく、すごくカッコよかったです。私の指示通りに動いてくれて、ありがとうございます」
リゼットが背中に頬を擦り寄せると、クラウスは深く、長いため息を吐き出した。
そして、彼女の腕の上に自らの大きな手を重ね、ギュッと強く握りしめた。
『(あああああああああああ!!!!)』
不意に。
リゼットの耳の翻訳魔導具から、鼓膜を破らんばかりの、今日一番の大音響が流れ込んできた。
『(終わった!! 終わったぞ!! 俺の妻が幻影を打ち破ったお姿、気高くて美しくて最高だった!!! そして俺の背中を抱きしめてくれている!! 温かい!! 愛おしい!! 本当は戦闘中も「俺の妻のサポート最高!」と叫び出したかったが、あんなゴミ虫の前で限界化するなど辺境伯のプライドが許さなかった!!! よく耐えた俺!!! 今すぐ振り返ってリゼット様を抱きしめ返したい!!!)』
「ふふっ……あはははっ!」
あまりにもいつもの、激重で騒がしい心の声。
さっきまでの死神のような処刑人と同じ人物とは到底思えないその激しいギャップに、リゼットは張り詰めていた緊張が完全に解け、涙が出るほど笑い出してしまった。
「な、なんだ。なぜ笑う」
「いいえ、なんでもありません。……旦那様が、私の大好きな旦那様のままだったから、嬉しくて」
リゼットの言葉に、クラウスは耳の先を真っ赤に染め、ゴホンとわざとらしく咳払いをした。
恐怖と陰謀に満ちた廃城の死闘は、最高のパートナーシップによって幕を下ろした。
残るは、この廃城の奥に隠されているはずの、母の残した『真の研究データ』を取り戻すことだけ。
すべてを終わらせ、新しい未来を切り拓くための、最後の一歩が待っていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




