EP 5
『黒の月』の暗躍と、見えない毒
翌朝。
辺境伯邸のアトリエには、穏やかな冬の陽光が差し込んでいた。
「……旦那様。そろそろ、返していただけませんか?」
作業台の前に座るリゼットが、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて手を差し出した。
その後ろで、いつも通り腕を組んで見守っていたクラウスは、ピクリと肩を揺らした。
「……何をだ」
「とぼけないでください。昨日、旦那様が私の耳から外してポケットにしまった、あのイヤリングです」
クラウスは気まずそうに視線を逸らし、ゴホンとわざとらしく咳払いをした。
昨夜、彼は「翻訳魔導具はもういらない」と宣言し、生の声で狂おしいほどの愛を誓った。それはリゼットの心を完全に絶望から救い出したのだが、冷静になった今、クラウスとしては「あの激重な本音がダダ漏れになる状態」に再び戻るのは、少しばかり恥ずかしかったらしい。
「あれがなくても、俺の心はお前に伝わっているはずだが……」
「もちろん、伝わっています。でも」
リゼットは立ち上がり、クラウスの胸元にそっと手を添えた。
「私、旦那様のあの騒がしい心の声も、大好きなんです。あれを聞いていると、『ああ、今日も平和だな』って、すごく安心できるんですよ」
上目遣いで微笑むリゼットに、クラウスの理性が数秒で陥落した。
彼は無言のまま懐からガラス玉のイヤリングを取り出し、壊れ物を扱うような手つきで、リゼットの耳にそっと着け直した。
カチャリ、と小さな音が鳴った瞬間。
『(あああああああああ!!! 俺の妻が可愛すぎる!!! 昨夜の涙顔も美しかったが、やはりこの笑顔が世界で一番だ!!! 俺の声を聴いて安心するなどと、なんて健気で愛おしいんだ!!! 今すぐ抱きしめたい!! いや、昨夜十分に抱きしめたが何度でも抱きしめたい!!!)』
鼓膜を破らんばかりの大音響が、リゼットの脳内に響き渡る。
普通なら頭痛がしそうなほどの騒音だが、今のリゼットには、それがどんな心地よい音楽よりも温かく感じられた。
「ふふっ……おはようございます、旦那様」
「……ああ。おはよう、リゼット」
表向きは相変わらずの絶対零度の無表情。しかし心の中はピンク色のお花畑。
この完璧なギャップこそが、彼女を愛し抜くと誓ってくれた不器用な騎士の証明だ。
リゼットは心の底から安堵の息を吐き、再び作業台へ向かおうとした。母の手記の謎を解き明かし、その理論を「人を救うもの」として証明するために。
――バンッ!!
その穏やかな空気を切り裂くように、アトリエの扉が勢いよく開かれた。
「閣下!! 奥様!!」
飛び込んできたのは、血相を変えた副団長だった。
そのただならぬ様子に、クラウスの纏う空気が一瞬にして「限界オタク」から「戦場の指揮官」へと切り替わる。
「何事だ」
「街の居住区で、領民たちが次々と倒れています! すでに数十人が意識不明の重体で、現在も被害が拡大中との報告が!」
「魔物の襲撃か!? 防衛結界はどうなっている!」
「それが……結界に異常は一切ありません! 外傷も、毒物を摂取した形跡もなく、ただ前触れもなくバタバタと倒れているのです!」
リゼットとクラウスは顔を見合わせ、すぐさま街の救護所へと向かった。
***
街の中央に急遽設けられた救護テントには、青白い顔をして横たわる領民たちが溢れかえっていた。
老若男女問わず、誰もが浅く弱々しい呼吸を繰り返し、生死の境を彷徨っている。
「先生、原因は分かるか?」
クラウスの問いに、領内の筆頭医務官が首を横に振った。
「閣下……これは病や毒ではありません。彼らは皆、極度の『魔力欠乏症』に陥っています」
「魔力欠乏だと? 魔法使いでもない一般人がか?」
「はい。人間は誰しも、微量ながら生命力としての魔力を体内に宿しています。それが、何らかの理由で強制的に体外へ吸い出され、枯渇しかけているのです。このままでは、半日と持たずに命を落とす者が続出します……!」
その言葉に、リゼットはハッとして自分の首元に触れた。
彼女が着けている『魔力中和のチョーカー』。これがあるおかげで彼女自身は影響を受けていないが、確かにテント内の空気は、どこか不自然に重く、淀んでいた。
(魔力が、吸い出されている……?)
リゼットは目を閉じ、自身の魔力覚醒を限界まで引き上げて、街全体の『魔力の流れ(レイライン)』を視覚化した。
目を開けた彼女の視界に映ったのは、身の毛のよだつような光景だった。
「これは……見えない結界……!」
街の地面、壁、空間の至る所に、クモの巣のように細く透明な魔力の糸が張り巡らされていた。
その糸は、街の領民たちの体から少しずつ、しかし確実に生命力を吸い上げ、地下の深脈へと流し込んでいる。
リゼットが張り直した『絶対防衛結界』は、外からの物理的・魔力的な「攻撃」を完璧に弾き返す。しかし、この透明な糸は、大地の魔脈と同調し、街の環境そのものに「寄生」するようにして組み込まれていたのだ。
「旦那様。街全体に、領民の魔力を少しずつ吸い上げる『寄生型の吸収結界』が張られています」
リゼットの報告に、クラウスの黄金の瞳が剣呑に細められた。
「防衛結界をすり抜けたというのか?」
「すり抜けたのではありません。……この結界の術式構造は、環境の魔力循環を利用する、お母様の理論の応用です。外からの攻撃ではなく、内側の魔力網そのものをハッキングして、毒を流し込んでいるようなものです」
リゼットは、唇を強く噛み締めた。
ファルサス帝国の特使ルキウスが使っていた呪具よりも、さらに何段階も高度で、広範囲に及ぶ緻密な術式。
これほどの規模の環境魔法を、誰にも気づかれずに街に敷設するなど、ルキウスのような三流の工作員にできるはずがない。
「……シグネチャ(魔力の署名)を探します」
どんなに精巧な術式でも、構築した魔導士の痕跡は必ず残る。
リゼットが魔力の糸の結び目を解析していくと、ある特定の座標に、黒い魔力の残滓が浮かび上がった。
それは、空間に刻印された『黒い三日月』の紋章。
「黒い、月……」
その紋章を見た瞬間、背後にいたクラウスと副団長から、同時に冷たい殺気が膨れ上がった。
「閣下。あれは……」
「ああ。間違いない。大陸の裏社会を牛耳り、いくつもの国家の転覆を裏で糸引いてきたとされる狂気の秘密結社……『黒の月』だ」
クラウスの声は、地獄の底から響くように冷徹だった。
秘密結社『黒の月』。
目的も実態も不明だが、禁忌の魔術や非人道的な兵器開発を繰り返し、各国の王侯貴族にすらその根を張っているとされる闇の組織。
ルキウスが強気な態度で辺境にテロを仕掛けてきたのも、その背後にこの『黒の月』という強大な後ろ盾があったからに他ならない。
「ルキウスが捕らえられたことで、ついに黒幕の本体が直接動いたというわけか。……だが、なぜだ」
クラウスは眉をひそめた。
「これほどの手間をかけて街全体に結界を張る技術があるなら、一気に魔力を吸い尽くして全滅させることもできたはず。なぜ、あえてゆっくりと魔力を奪うような『見えない毒』の真似事をしている?」
「……人質、です」
リゼットが、静かに、だが確かな怒りを込めて答えた。
「この結界は、いつでも領民たちの命を刈り取れる状態にあります。彼らは、これを盾にして交渉する気なんです。彼らの真の目的は、辺境の領地でも、ファルサス帝国の利益でもない……」
リゼットは、自らの両手をギュッと握りしめた。
「彼らの狙いは、お母様の残した【環境循環による生命の再構築理論】の『完全な完成』。……つまり、その理論を唯一理解し、実現できる才能を持つ、私自身です」
ルキウスの目的が「リゼットをファルサスの局長にする」ことだったのも、すべては『黒の月』が彼女を手に入れるためのダミーに過ぎなかったのだ。
母の理論の危険な部分だけを抽出して兵器を作っていた彼らは、その先にある「究極の環境魔法」の全貌を欲している。だからこそ、リゼットを殺すのではなく、領民を人質にして生け捕りにしようとしている。
「……なるほどな」
すべてを理解したクラウスの全身から、街の空気を物理的に凍らせるほどの、凄まじい闘気が立ち上った。
翻訳魔導具からは、いつもの限界オタクの声は一切聞こえない。
そこにあるのは、自らの領民を人質に取られ、何よりも愛する妻を「兵器のパーツ」として狙われた男の、絶対零度の怒りだった。
「俺の領民を人質に取り、俺の妻を奪おうとする。……いい度胸だ。神すら恐れぬその愚行、地獄の底で後悔させてやる」
クラウスが大剣の柄に手をかけ、冷酷な眼差しで虚空を睨み据える。
「リゼット」
「はい」
「この胸糞の悪い結界を、破壊できるか」
その問いに、リゼットは一切の躊躇なく頷いた。
昨夜までの、自分の才能に怯えていた彼女はもういない。自分の力が世界を滅ぼすかもしれないという恐怖は、隣に立つ彼がすべて引き受けてくれたのだ。
なら、今の彼女が成すべきことはただ一つ。
「絶対に破壊します。お母様の優しい理論を、こんな薄汚い呪いに悪用した奴らを……私は、魔導具師として絶対に許しません」
リゼットの翠緑の瞳が、静かに、そして鋭く燃え上がる。
「旦那様、私を信じてください。この『見えない毒』の核を突き止め、結界そのものを完全に浄化してみせます!」
最強の武力を持つ騎士と、覚醒した天才魔導具師。
大陸最大の闇の組織『黒の月』との、辺境の命運を懸けた壮絶な知略戦の火蓋が、今、静かに切って落とされた。
読んでいただきありがとうございます。
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