EP 4
魔王の騎士と、生の声の誓い
冷たい床に膝を抱え、リゼットは暗い寝室の隅でただ震えていた。
窓の外の雪明かりだけが、微かに部屋を照らしている。
アトリエから逃げ出し、鍵をかけて部屋に閉じこもってから、どれほどの時間が経っただろうか。
『強大すぎる力は、人を壊す』
母の手記に記された言葉が、呪いのように何度も脳内をリフレインする。
目を閉じれば、自分の指先から放たれた魔法が暴走し、街を火の海に変え、愛するクラウスを血まみれにしてしまう幻覚が鮮明に浮かび上がった。
(怖い……。私が何かを作れば、絶対に誰かを傷つける)
私は、あのルキウスが使っていた呪具を生み出した悪魔と同じ、狂気の思考回路を持っている。
世界を救うための魔法と、世界を滅ぼすための呪いは、紙一重なのだ。そして、自分のような未熟な人間に、その強大すぎる力を完璧にコントロールし続けることなど、到底不可能に思えた。
(クラウス様と、離れなきゃ……。私がいれば、いつか必ず彼を破滅させてしまう)
そんな絶望のどん底で、コン、コン、と。
重厚なオーク材の扉が、静かに叩かれた。
「……リゼット。俺だ」
低く、落ち着いたクラウスの声。
リゼットはビクッと肩を震わせ、さらに身を縮こまらせた。
「開けてくれないか」
「だ、ダメです……っ! 開けません! お願いですから、私を一人にしてください!」
リゼットは涙声で叫んだ。
彼に会えば、彼の優しさに触れれば、決意が揺らいでしまう。彼を傷つけたくないからこそ、今はただ一人で闇の中にいたかった。
「……そうか。わかった」
扉の向こうで、クラウスが短く応じる。
足音が遠ざかるのかと思った、次の瞬間。
バキィィィンッ!!!
「えっ!?」
けたたましい破壊音と共に、頑丈なオーク材の扉が蝶番ごと吹き飛び、部屋の内側へと倒れ込んだ。
土煙が舞う中、静かに部屋へ足を踏み入れたのは、黄金の瞳を剣呑に光らせたクラウスだ。彼は、施錠された扉を鍵ごと闘気で粉砕したのだ。
「だ、旦那様!? どうして……私、一人にしてって……!」
「お前が『俺を傷つけるかもしれない』と怯えているなら、俺が距離を取るのが正解なのだろう。……だが、俺はあいにく、物分かりの良い夫ではないのでな」
クラウスは、粉々になった扉の破片を踏み越え、ゆっくりとリゼットの方へ歩み寄ってきた。
その顔には、怒りはない。ただ、決して逃がさないという捕食者のような、絶対的な執着が宿っている。
「こないでッ!」
リゼットは後ずさろうとしたが、背中はすでに冷たい壁に張り付いていた。
クラウスはリゼットの目の前まで来ると、その場に片膝をつき、彼女と視線の高さを合わせた。
「私に触らないでください……! お母様の手記を読んだでしょう!? 私の才能は、一歩間違えれば狂暴な魔獣を生み出す兵器と同じなんです! 私が今まで作ってきた魔導具だって、いつ暴走してあなたを傷つけるか分からない!」
「……」
「私は、ただの道具じゃない。世界を滅ぼすかもしれない、呪われた兵器なんです! だから、私を遠ざけて……私を、捨てて……っ!」
リゼットは両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。
自分のすべてだった才能が、一番愛する人を脅かす凶器に変わってしまった。その絶望は、彼女の心を完全に圧し折っていた。
だが。
クラウスは、狂乱するリゼットを抱きしめるでもなく、慰めの言葉を掛けるでもなく。
無言のまま、ゆっくりと片手を伸ばし――リゼットの耳に触れた。
「え……?」
カチャリ、と。
小さな金属音が響いた。
クラウスがリゼットの耳から外したのは、二人が出会った日からずっと、彼女の耳で光り続けていたあのガラス玉のイヤリング――『翻訳魔導具』だった。
「旦那、様……? どうして、それを……」
翻訳魔導具がなければ、彼の激重な「心の声」は聞こえなくなる。
彼が何を思い、どれほど彼女を愛しているのか、その本音を知る術がなくなってしまう。
クラウスは、外したイヤリングを自分のポケットに無造作に放り込んだ。
そして、リゼットの震える両手をそっと取り、自分の頬へと当てさせた。
「……翻訳魔導具は、もういらない」
暗い部屋の中で、クラウスの生の声が、静かに、けれど腹の底に響くような重低音で響き渡った。
「これまでは、俺の口下手と不器用さのせいで、あの魔導具に頼りきりだった。俺の『本音』は、すべてあの中に隠していた。……だが、今夜は違う」
クラウスの黄金の瞳が、リゼットの翠緑の瞳を真っ直ぐに射抜く。
そこに、一切の誤魔化しや、コメディのような限界オタクの要素はない。
ただ一人の男として、愛する女性に自らの魂を捧げ尽くす、狂おしいまでの覚悟。
「俺は、俺の肉声で、俺の魂で、お前に誓う」
クラウスは、リゼットの手に自分の手を重ね、その指先にそっと唇を落とした。
「お前の才能が世界を滅ぼす呪いだというなら、構わない。俺が、お前と一緒にこの世界を滅ぼしてやる」
「……え?」
あまりにも想定外の、常軌を逸した言葉に、リゼットの思考が停止した。
世界を滅ぼす? この、正義感に溢れ、領民を誰よりも愛する氷の辺境伯が?
「俺にとって、世界がお前よりも重かったことなど、ただの一度もない。……お前の才能が暴走して、お前が魔王になるというのなら、俺は喜んで魔王の騎士となろう」
クラウスの生の声は、熱を帯び、リゼットの心の最も深い部分に直接叩き込まれていく。
「お前の魔法が俺を切り裂くというなら、切り裂けばいい。お前になら、俺の命をいくらでもくれてやる。だが……俺を遠ざけることだけは、絶対に許さない」
それは、究極の愛の告白であり、同時に、身の毛もよだつほどの深い執着だった。
彼にとって、リゼットの才能が「善」か「悪」かなど、どうでもいいことなのだ。彼女が神になるなら共に天に昇り、悪魔になるなら共に地獄に堕ちる。
彼の世界には、ただ「リゼット」という一人の女性しか存在していないのだから。
「だ、旦那様……そんな、無茶苦茶です……。私は、あなたを傷つけたくないのに……」
「俺は傷つかない。俺の命が、お前の魔法ごときで壊れるものか」
クラウスは、フッと不敵な、そしてこの上なく優しい笑みを浮かべた。
「お前は、少し自分を過大評価しすぎているな。お前がどれほどの呪いを生み出そうと、俺の闘気とこの剣で、すべて真っ二つにしてやる。……だから、安心しろ」
クラウスの大きな腕が、リゼットの背中に回り、彼女の華奢な体を力強く抱き寄せた。
分厚い胸板から伝わってくる、規則正しく力強い鼓動。
彼の熱い体温が、リゼットの氷のように冷え切っていた体を、ゆっくりと溶かしていく。
「お前は、何も恐れずに、自分の好きなように魔導具を作ればいい。お前が間違えそうになったら、俺が力ずくで止める。お前が世界を敵に回すなら、俺がお前の盾になる」
耳元で囁かれる、低く甘い、肉声での愛の囁き。
「愛している、リゼット。……お前の光も、闇も、俺がすべて抱きしめてやる」
翻訳魔導具を通さない、彼自身の口から紡がれた『愛している』という言葉。
それは、どんな魔法よりも強力に、リゼットの心に絡みついていた恐怖の呪縛を打ち砕いた。
「ああ……っ、旦那様ぁ……!」
リゼットは、クラウスの胸に顔を埋め、大声で泣き崩れた。
どうして私は、こんなにも愚かだったのだろう。
彼が、私を恐れて逃げ出すような男のはずがないのに。彼はいつだって、私の想像を遥かに超える深い愛情で、私のすべてを受け止めてくれていたのに。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ。私、あなたを信じていなかったわけじゃないんです……ただ、自分のことが怖くて……っ」
「分かっている。……もういい。泣け。俺の気が済むまで、お前を抱きしめているから」
クラウスは、リゼットの髪を優しく撫でながら、彼女の涙が枯れるまで、静かにその体を抱きしめ続けた。
才能への恐怖は、完全には消えていないかもしれない。
だが、今のリゼットには、絶対に揺るがない「楔」があった。
もし自分が道を踏み外しても、彼が必ず止めてくれる。彼が隣にいる限り、私は絶対に「兵器」にはならない。
窓の外の吹雪が、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から差し込んだ冷たい月光が、強く抱きしめ合う二人を美しく照らし出している。
翻訳魔導具に頼らない、生身の魂と魂のぶつかり合い。
かつて「無能な道具」として捨てられた少女は、最強の騎士の狂おしいほどの愛によって、過去の呪縛からも、自身の才能への恐怖からも、完全に解き放たれたのだ。
翌朝。
壊れた扉の隙間から差し込む朝日の中で、リゼットはクラウスの腕の中で目を覚ました。
彼女の翠緑の瞳からは、昨夜までの怯えは完全に消え去り、かつての凛とした、強い意志の光が戻っていた。
「……旦那様」
リゼットは、眠るクラウスの頬にそっとキスを落とし、静かに決意を固めた。
(私は、逃げない。お母様の残した理論の謎も、この世界に潜む悪意も、すべて私の手で解き明かしてみせる)
自分を信じ、愛してくれる彼のために。
天才魔導具師の、本当の戦いが幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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