EP 3
禁忌の正体と、才能への恐怖
アトリエの壁掛け時計が、深夜二時を回ったことを告げていた。
仄青い魔力ランプの光だけが照らす静寂な空間で、リゼットは息を詰めるようにして、母の遺した革表紙の手記をめくり続けていた。
「……信じられない。こんなこと、どうやったら思いつくの……?」
ページを追うごとに、リゼットの翠緑の瞳は驚愕に見開かれていった。
そこに記されていたのは、当時の、いや、現在の帝国最高の宮廷魔導士たちでさえ逆立ちしても理解できないであろう、神の領域に踏み込んだ魔法理論だった。
『――魔力とは消費するものではなく、循環するものである。』
手記のページには、美しい文字でそう書き出されていた。
『大地の底を流れる魔脈から力を汲み上げ、それを変質させずに生物の生命力と同調させる。これを開放空間に定着させれば、枯れ果てた大地に一晩で緑を芽吹かせ、凍てついた雪山を春の陽だまりに変えることができる。私はこれを、【環境循環による生命の再構築理論】と名付けた』
それは、恐ろしい呪いなどでは断じてなかった。
母が屋根裏部屋で、己の血を吐きながらも完成させようとしていたのは、世界中の痩せ細った土地を豊かにし、飢える人々を救うための『究極の環境魔法』だったのだ。
「お母様……こんなにも優しくて、美しい魔法を作ろうとしていたのね」
リゼットの目に、熱いものが込み上げる。
マーサの言った通りだ。母の心には、世界への深い慈愛と、いつか娘が生きる未来を少しでも暖かくしたいという、途方もない愛が詰まっていた。
――しかし。
ページをさらに進めたリゼットの指先が、突如として氷のように凍りついた。
『だが、この理論には致命的な欠陥がある。いや、欠陥というよりも、力が強大すぎるのだ』
手記の文字が、どこか震えを帯びた筆致に変わっている。
『生命力を強制的に循環・増幅させるこの術式は、ほんの少し数式を書き換えるだけで、その性質を完全に反転させてしまう。もし、生命の同調フィルターを外し、魔力のみを暴走させれば……対象となった生物の細胞は極限まで変異し、理性を失った狂暴な【異形の怪物】と化すだろう』
リゼットは、ハッとして隣の作業台に置かれたルキウスの『魔物寄せの呪具』を見た。
(あの呪具に組み込まれていたのは……お母様の理論の『反転術式』……!)
点と点が、一本の恐ろしい線となって繋がった。
ファルサス帝国の特使ルキウスが操っていた呪具は、単に魔物を引き寄せるだけのものではない。微小な蟲やネズミにこの『反転術式』を照射し、強制的に細胞を突然変異させ、合体させて巨大な魔獣へと変貌させる――まさに、悪魔の兵器だったのだ。
『私の理論は、この世界には早すぎた。もし、悪意を持つ者の手に渡れば、世界を滅ぼす究極の呪いとなる。……だから私は、この理論の『核』となる最後の数式だけは、誰にも渡さないと決めた。私の頭の中だけに留め、私と共に灰にする』
手記の最後は、リゼットに向けた痛切なメッセージで締めくくられていた。
『愛するリゼット。あなたには、私と同じ……いいえ、私を超える魔導具師としての才能がある。でも、どうか忘れないで。強大すぎる力は、人を幸せにするのと同じくらい簡単に、人を壊すことができる。
いつかあなたが、自分の才能の大きさに恐れを抱いた時。どうか、自分を見失わないで。あなたの魔法は、誰かを傷つけるための呪いではない。あなた自身の意志で、愛する人を守るための力なのだから』
「……っ」
リゼットは、手記からバッと手を離した。
まるで、燃え盛る鉄の塊に触れてしまったかのように。
(強大すぎる力は……人を壊す)
その言葉が、呪いのようにリゼットの脳内に響き渡った。
リゼットは、自身の両手を顔の前に掲げた。
白く、華奢な、ただの少女の手。
だが、この手が生み出してきたものを振り返り、リゼットは血の気が引くのを感じた。
(私は今まで、皆を助けたい一心で、平気で『概念付与』を使ってきた。武器に『絶対貫通』を与えたり、数十人の騎士に『威力百倍』を与えたり……)
それは、周囲からは『神業』と称賛されていた。
だが、本質的には母の理論と同じだ。「世界の理を、一個人の意志で強制的に書き換える」という、神を冒涜するような行為。
(もし、私がほんの少し術式の構築を間違えたら?
もし、魔力干渉で『概念』の付与対象がズレてしまったら?)
想像するだけで、心臓が凍りつきそうになった。
例えば、クラウスの大剣に『万物粉砕』を付与しようとして、誤って彼の『肉体』に付与してしまったら。
彼自身の強靭な生命力が暴走し、彼自身を内側から引き裂いてしまうかもしれない。
魔物に『絶対死』の概念を付与しようとして、術式が逆流し、辺境の領民たちの命を一瞬で刈り取ってしまったら。
「あ……ぁ……」
ガタガタと、膝が震え始めた。
オズワルド家で植え付けられた「私は何の価値もない、ただの道具だ」というトラウマは、クラウスの愛によってすでに癒されていた。
だが、今、リゼットの心を蝕んでいるのは、それよりも遥かに恐ろしく、深い絶望だった。
(私は、無能な道具なんかじゃない。……私は、一つ間違えれば世界を滅ぼしてしまう、呪われた『殺戮兵器』なんだ)
母の理論を悪用し、あの悍ましい魔獣兵器を生み出した『黒幕』。
その黒幕と同じ、狂気の思考回路と才能を、自分も受け継いでいる。
私の頭の中には、息をするのと同じくらい簡単に、「街一つを吹き飛ばす魔導具」や「人間の精神を破壊する呪具」の設計図が浮かんでしまうのだから。
「嫌だ……怖い、怖いっ……!」
リゼットは、作業台の上にあった工具や、魔石の部品から後ずさった。
今まで自分のすべてであり、誇りであったはずの魔導具作りの道具が、まるで毒蛇の群れのように見えた。
あれに触れてはいけない。私が何かを作れば、取り返しのつかない悲劇を生む。
「リゼット?」
背後から、心配そうな声が掛かった。
ずっとアトリエの隅で静かに見守っていたクラウスが、ただならぬ彼女の様子に気づき、足を踏み出してきたのだ。
「どうした。顔面が蒼白だぞ。その手記に、何が――」
「こないでッ!!」
リゼットは、弾かれたように叫び、クラウスから逃げるように壁際まで身を引いた。
「だ、旦那様……私に、近づかないで……っ!」
「……リゼット?」
クラウスの黄金の瞳が、驚きに見開かれる。
リゼットは自分の両腕を抱きしめ、狂乱したように首を横に振った。
「怖いんです! 自分の手が……自分の頭の中が、怖い! 私が今まで作ってきたものは、全部……一歩間違えれば、旦那様を……皆を殺してしまう呪いだった!」
「何を言っている。お前の魔導具は、俺たちを救ってくれただろう。誰も、お前の力を恐れてなど――」
「違うんです!!」
リゼットの悲痛な叫びが、アトリエに響き渡った。
「私は、あんな恐ろしい呪具を作った悪党と、同じ才能を持っているんです! もし私が発狂したら……もし誰かに操られたら、私はこの手で、旦那様の命を奪ってしまうかもしれない! そんなの……絶対に嫌……っ!」
リゼットの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
愛しているからこそ。
彼が世界で一番大切で、彼が守るこの辺境の地が大好きだからこそ。
『歩く災害』に等しい自分自身の存在が、たまらなく恐ろしかった。
「私……もう、魔導具は作れません……。何も、触りたくない……っ」
リゼットは、作業台の上に置かれた母の手記と呪具を直視できず、顔を覆ったままアトリエの扉へと駆け出した。
「リゼット!」
クラウスが手を伸ばしたが、リゼットはその手をすり抜け、アトリエを飛び出していった。
パタパタと廊下を走る足音が遠ざかり、やがて彼女の寝室の扉が、バタンッ! と重い音を立てて閉ざされる音が響いた。
そして、ガチャリと、鍵がかけられる冷たい金属音。
静まり返ったアトリエ。
残されたクラウスは、空を切った自分の手を、ゆっくりと下ろした。
翻訳魔導具からは、何の音も聞こえない。
リゼットの絶望の深さを目の当たりにし、限界オタクとしての騒がしい声など、クラウスの心の中からはとうの昔に消え失せていた。
クラウスは、リゼットが拒絶した作業台に歩み寄り、そこに残された『母の手記』に目を落とした。
彼もまた、彼女が読んだページに目を通す。
強大すぎる環境魔法。そして、反転すれば世界を滅ぼす悪魔の兵器になるという事実。
「……なるほどな」
クラウスは、静かに手記を閉じた。
なぜファルサス帝国の特使が、あのような呪具を持っていたのか。その背後に、どれほど巨大な陰謀が渦巻いているのか。
そして、何よりも……リゼットが、自らの才能の底知れぬ恐ろしさに気づき、愛する者を傷つけることを恐れて『自分自身』を檻に閉じ込めてしまったことを、彼は完全に理解した。
「馬鹿な奴だ」
クラウスは、低く、腹の底に響くような声でポツリと呟いた。
その顔には、悲壮感は微塵もなかった。
あるのは、愛する妻を絶望の淵に立たせた理不尽な運命に対する、静かで、底知れぬ怒り。
そして、己のすべてを懸けて彼女をその呪縛から引きずり出してみせるという、絶対的な『覚悟』の炎だけだった。
「俺の命が、お前の魔法ごときで壊れるものか」
クラウスは、リゼットのいないアトリエの空間に向けて、誰にともなく宣言した。
「お前が魔王になるというなら、俺はお前の騎士になってやる。……待っていろ、リゼット」
最強の武力を誇る『氷の辺境伯』の、たった一人の女性へ向けた狂おしいまでの執着と愛。
彼は、ゆっくりとアトリエを後にし、固く閉ざされたリゼットの寝室の扉へと向かって歩き出した。
読んでいただきありがとうございます。
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