EP 2
雪夜の亡命者と、託された手記
辺境の冬は、時に牙を剥く。
『絶対防衛結界』に守られた領地の内側は穏やかな雪景色だが、結界から一歩外へ踏み出せば、そこは命を刈り取る極寒の地獄だ。
吹き荒れる猛吹雪は視界を白一色に染め上げ、分厚い毛皮のコート越しにさえ、針のような冷気を突き刺してくる。
「結界の魔力供給、異常なし! 魔物の接近もありません!」
国境線の監視塔で、見回りの竜騎士が大きな声を張り上げた。
風の音にかき消されそうになる報告を、当直の小隊長が頷いて受け取る。
こんな吹雪の夜に動ける魔物など、氷雪系の高位魔獣くらいのものだ。異常がなければ、早々に暖かい監視塔の中へ戻るのが辺境の鉄則である。
「よし、本日の外周警戒はここまでとする! 全員、塔の中へ――」
小隊長が撤収を命じようとした、その時だった。
「隊長! 結界の外、南方の雪原に動く影が! ……人間です! 人が倒れています!」
「なんだと!?」
小隊長は監視塔の魔導探照灯を南へ向けさせた。
雪煙の向こう側、防衛結界まであとわずか数十メートルの距離で、小さな人影が雪に半分埋もれるようにして倒れ伏していた。魔物ではない。ボロボロの布を被った、人間の姿だ。
「なぜこんな吹雪の夜に、国境の外に人が……。いや、考えるのは後だ! 急いで救出するぞ! 魔力結界、一時開門!」
騎士たちは吹雪の中へ飛び出し、雪に埋もれかけていたその人物を抱え上げた。
「おい、しっかりしろ! ……ひどい低体温症だ。それに、この人……老婆じゃないか!」
助け起こされたのは、酷く痩せ細り、凍傷で顔を青白くした一人の老女だった。
彼女はうわ言のように何かを呟きながら、胸元に抱えた「古い布包み」を、凍りついた指で必死に守るように抱きしめていた。
「この布包み……リ、ゼット、お嬢様……に……」
「リゼット様だと? まさか、奥様のお知り合いか!?」
騎士たちは顔を見合わせ、すぐさま老女を毛布で包み込み、最速の馬車で辺境伯邸へと走らせた。
***
辺境伯邸の、暖炉の火が赤々と燃える暖かい客間。
急報を受けて飛び起きたリゼットは、ナイトガウンの上にショールを羽織っただけの姿で、客間のベッドに駆け寄った。
背後には、同じく寝巻き姿にコートを引っかけたクラウスが、険しい顔で控えている。
「マーサ……! マーサなのね!?」
リゼットは、ベッドで治療を受けていた老女の顔を見て、悲痛な声を上げた。
マーサ。彼女は、かつてオズワルド男爵家で、リゼットの亡き母に仕えていた元メイドだった。
母が亡くなった後も、屋根裏部屋に追いやられたリゼットを密かに気遣い、こっそりと温かいスープやパンの切れ端を運んでくれていた、唯一の味方とも言える人物だ。
「ん……ぁ……」
医務官の治癒魔法と温かいスープのおかげで、マーサはゆっくりと重い瞼を開けた。
視界の先にリゼットの姿を認めた瞬間、彼女の濁った瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「ああ……リゼットお嬢様……。生きて、もう一度お顔を拝見できるとは……」
「マーサ! どうしてあなたが、こんな吹雪の辺境に……お父様たちはどうなったの!?」
リゼットが震える手でマーサのシワだらけの手を握りしめると、マーサは力なく首を振った。
「男爵家は、もうありません。特使様が捕らえられた後、帝国の役人が踏み込んできて、お屋敷も領地もすべて没収されました。男爵様とミリアナお嬢様は、北の罪人島へ送られたと聞いております……」
「そう……」
クラウスの手回しによる経済封鎖と、テロの証拠提出。オズワルド男爵家の完全なる崩壊を、リゼットは静かに受け止めた。そこに同情はない。
「使用人たちも散り散りになり、借金取りがお屋敷の中の金目のものをすべて奪っていきました。……でも、私には、どうしても守らなければならないものがあったのです」
マーサは、ベッドの脇に置かれていた「古い布包み」に手を伸ばした。
それは、彼女が吹雪の中でも、死にかけながら決して手放そうとしなかったものだ。
「借金取りたちが屋根裏部屋を荒らそうとした時……私は、隠し床の奥にしまってあった、奥様の『遺品』だけを持ち出して、逃げ出しました」
「お母様の、遺品……?」
リゼットの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
先日アトリエで見た、ルキウスの呪具。そこに刻まれていた、母の恐ろしい術式の残影。
まさか、その「呪われた研究」の全貌が、そこにあるというのか。
マーサは震える手で布包みを解き、一冊の古びた革表紙の『手記』をリゼットに差し出した。
「奥様が亡くなる直前まで、命を削って書き留めていた研究ノートです。奥様は、これを私に託して仰いました。『いつかリゼットが、自らの才能に迷い、絶望する日が来るかもしれない。その時、この手記をあの子に渡してほしい』と……」
「私に……絶望する日が来るから?」
リゼットは、息を呑んで手記を見つめた。
表紙には、見覚えのある複雑なルーン文字が刻み込まれている。呪具に刻まれていたものと同じ、常軌を逸した魔力構築の痕跡。
恐怖で手が震え、手記を受け取ることができないリゼットの肩を、背後からクラウスの大きな手がそっと包み込んだ。
「……マーサと言ったな」
クラウスが、低い、静かな声で問いかける。
「お前は、吹雪の雪原を徒歩で越えてきた。一歩間違えれば凍死していたはずだ。なぜ、そこまでしてこの手記をリゼットに届けようとした」
クラウスの黄金の瞳が、老女を真っ直ぐに見据える。
マーサは、クラウスの威圧感に怯むことなく、確かな意思を持って答えを口にした。
「……奥様の名誉を守るためです」
マーサの声に、強い力がこもった。
「世間では、奥様は狂気に憑りつかれ、怪しげな呪いを研究していた魔女だと言われております。男爵様も、それを忌み嫌って奥様を屋根裏に幽閉しました。……でも、それは違います! 奥様は、決して恐ろしい呪いなど研究しておりませんでした!」
「違う……?」
「はい。奥様は、いつもリゼットお嬢様のことだけを想っておられました。この手記に記されているのは、呪いなどではありません。……あの方の、世界で一番深く、美しい『愛』の結晶なのです」
マーサの言葉に、リゼットの目からポロリと涙が零れ落ちた。
恐ろしい兵器に転用されていた母の術式。それが、母の愛の結晶だというのか。
『(……リゼット)』
耳の翻訳魔導具から、クラウスの静かで優しい心の声が響いた。
表向きは無言のまま、彼はリゼットの肩を抱く手に、励ますようにわずかに力を込める。
『(恐れることはない。お前の母上が、お前のように気高く美しい魂を持った女性であったなら、その残したものが呪いであるはずがない。……俺が共にいる。お前の過去も、未来も、俺がすべて受け止める)』
その温かい心の声に背中を押され、リゼットはゆっくりと手を伸ばし、マーサから古い手記を受け取った。
革の表紙はすり切れ、ページは黄ばんでいる。
だが、手記の表面に刻まれたルーン文字から伝わってくる魔力の残滓は、ルキウスの呪具から感じたような禍々しく冷たいものではなかった。
それは、まるで陽だまりのように温かく、微かに脈打つような、命の息吹を感じさせる波長だった。
「マーサ……ありがとう。命懸けで、お母様の手記を届けてくれて」
リゼットは手記を胸に抱きしめ、マーサに向かって深く頭を下げた。
「もったいないお言葉です、お嬢様……。ああ、立派になられて……その美しい翠の瞳、奥様にそっくりです……」
マーサは安心したように微笑み、再び深い眠りについた。
医務官によれば、命に別状はなく、温かい部屋で休養すれば必ず回復するとのことだった。リゼットはマーサの待遇を最高のものにするよう指示し、クラウスと共に客間を後にした。
***
アトリエに戻ったリゼットは、作業台の上に置かれた『魔物寄せの呪具』と、持ち込まれた『母の手記』を並べて置いた。
窓の外では、まだ吹雪が吹き荒れている。
だが、リゼットの心の中の吹雪は、マーサの言葉とクラウスの温もりによって、少しだけ凪いでいた。
「……開くか?」
傍らに立つクラウスが、静かに問う。
「はい」
リゼットは深呼吸をし、意を決して手記の表紙をめくった。
ページには、流れるような美しい筆致で、無数の数式と魔力回路の設計図がびっしりと書き込まれていた。
それは、現在の帝国の魔導技術を百年は先取りしているような、極めて高度で複雑な魔法理論の集大成。
リゼットの天才的な頭脳が、ページをめくるごとにその理論の「真の目的」を読み解いていく。
そして。
数ページを読み進めたところで、リゼットの指がピタリと止まり、その翠緑の瞳が驚愕に大きく見開かれた。
「これは……」
リゼットの唇がワナワナと震え、手記の余白に小さく書き込まれた『母の肉筆のメッセージ』に視線が釘付けになる。
『愛するリゼットへ。もしあなたがこの手記を読んでいるなら、それはあなたの強大すぎる才能が、誰かの悪意に利用されそうになっている時かもしれないわね』
リゼットの息が止まる。
母は、すべてを予見していたのだ。リゼットが自らの才能に恐怖し、呪いだと絶望する日が来ることを。
そして、その絶望から娘を救うための「真実」を、この手記の奥深くに隠して遺してくれていた。
母の理論の正体。
そして、ファルサス帝国の背後に潜む『真の黒幕』が、なぜ母の理論を歪めて兵器化したのか。
そのすべての謎を解き明かす鍵が、今、リゼットの手の中で静かに魔力の光を放ち始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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