第三章『母の遺した禁忌の術式と、揺るがぬ愛の証明』
母の残影と、見守る静寂
窓の外では、音もなく白い雪が降りしきっていた。
辺境領地をすっぽりと覆う『絶対防衛結界』は、猛吹雪の物理的な冷気と暴風を完全に遮断している。そのため、結界の内側に降る雪は、まるで細かく砕かれた水晶の粉のように穏やかで美しく、街の景色を純白に染め上げていた。
辺境伯邸の一角にある専用アトリエの中は、大きな暖炉の火が赤々と燃え、心地よい温もりに満ちている。
リゼットは作業台に向かい、領民に配布する予定の『ぽかぽか魔石ヒーター』の最終調整を行っていた。ピンセットと専用のルーペを使い、親指の先ほどの小さな魔石に、効率よく熱を循環させるための細かな魔法陣を刻み込んでいく。
「ふぅ……よし。これで熱の変換効率がさらに一割は上がるはずだわ」
リゼットが満足げに息をつき、ゴーグルを額に押し上げると、背後のソファから低い声が降ってきた。
「あまり根を詰めるなよ、リゼット。いくら結界内で暖かいとはいえ、冬の冷えは知らず知らずのうちに体力を奪うからな」
振り返ると、分厚い書類の束に目を通しながらも、しっかりとこちらを見守っているクラウスの姿があった。
漆黒の髪と、彫刻のように整った顔立ち。相変わらず表情の筋肉は凍りついたように動かないが、その黄金の瞳の奥には、隠しきれない優しさと過保護なまでの心配が滲んでいる。
そして何より、リゼットの耳に光る『翻訳魔導具』からは、今日も今日とて絶好調な轟音が鳴り響いていた。
『(ああああああああああ!! ゴーグルを額に上げたリゼット様のお顔、少し汗ばんだうなじ、工具を持つ繊細な指先!! すべてが芸術品のように美しい!! 俺の妻は今日も世界で一番尊い!! 今すぐその背中を抱きしめて、冷えた指先を俺の唇で温めたいが、そんなことをすれば作業の邪魔になってしまう!! 俺はただの背景、ただの壁としてこの神聖なアトリエの空気を味わうだけで満足だ!!)』
表向きの冷静な声と、脳内で爆発している限界オタクの激重な歓喜。
その高低差があまりにも激しくて、リゼットは思わずクスッと笑い声を漏らした。
「大丈夫ですよ、旦那様。このヒーターの調整が終わったら、今日はおしまいにしますから。……旦那様こそ、難しい顔をして書類なんて睨んでいたら、眉間にシワが寄ってしまいますよ?」
「む。……そうか?」
クラウスは真面目な顔で自分の眉間を指で揉みほぐし、それからそっと書類をテーブルに置いた。
「ならば、俺も今日の執務はここまでとしよう。後で温かいお茶を淹れさせる。一緒に飲もう」
「はいっ、喜んで」
ファルサス帝国の特使ルキウスが引き起こした事件から数週間。
外部の脅威が完全に去った辺境伯邸には、こうした穏やかで甘い夫婦の日常が戻ってきていた。誰かに才能を搾取されることもなく、ただ愛する人のため、愛してくれる領民のために魔導具を作る日々。
リゼットにとって、ここは間違いなく世界で一番安全で、幸せな場所だった。
――しかし。
その幸福な日常の裏側で、リゼットの心には、静かに、だが確実に『見えない毒』が回り始めていた。
***
深夜。
クラウスが寝室へと下がり、邸中が寝静まった頃。
リゼットは一人、アトリエの作業台に座り、仄青い魔力ランプの光の下で「あるもの」と向き合っていた。
それは、ルキウスが街に仕掛け、回収された『魔物寄せの呪具』の親機だった。
法的な証拠品としての役割は終え、今は厳重な封印を施された上で、リゼットの手元で保管されている。本来なら帝国中央へ引き渡すか、破棄すべき代物だが、魔導具師としての探究心がそれを許さなかった。
(この呪具……微小な魔物を狂暴化させ、合体させるなんて、信じられないほど高度な術式が使われている。ファルサス帝国に、こんな緻密な魔力制御ができる技術者がいるはずがないわ)
リゼットは、震える手で工具を握り、黒い箱の外装を慎重に取り外した。
露出した内部には、血のように赤い魔石を中心に、髪の毛よりも細い銀糸で編まれた複雑怪奇な魔力回路が張り巡らされている。そして、その回路の土台となる基盤には、極小のルーン文字がびっしりと刻み込まれていた。
ルーペを覗き込んだリゼットは、そのルーンの羅列を見た瞬間、心臓が早鐘のように打ち鳴らされるのを感じた。
「嘘……」
カランッ、と。
リゼットの手からピンセットが滑り落ち、冷たい金属音を立てた。
ルーン文字の組み合わせ。魔力回路の独特なバイパス構造。特定の概念を定着させるための、常識外れな逆算式の数式。
それらはすべて、リゼットの脳裏に焼き付いている「ある人物」の手癖と、完全に一致していた。
(この術式の癖……間違いない。お母様の理論だわ……!)
リゼットの視界が歪み、過去の記憶がフラッシュバックする。
オズワルド男爵家の、薄暗く埃っぽい屋根裏部屋。
病に伏せり、血を吐きながらも、狂ったように羊皮紙に数式を書き殴っていた母の姿。
『聞いて、リゼット。魔力は循環なの。大地から吸い上げ、形を変えて、また大地へ還す。この流れを完全に支配できれば、私たちは神にすら……ゲホッ、ゴホッ!』
母が密かに研究していた『禁忌の術式』。
その研究ノートは、母が亡くなった直後、何者かによって屋根裏部屋から持ち去られ、永遠に失われたはずだった。
それがなぜ、ファルサス帝国の特使の手にある呪具に組み込まれているのか。
「どうして……どうして、お母様の術式が、人を殺すための道具に使われているの……?」
リゼットは両手で自分の顔を覆った。
指先が氷のように冷え切り、全身がガタガタと震え始める。
ルキウスが持ち込んだ呪具は、間違いなく母の理論をベースに作られていた。
だが、それは母の理論の「魔力を強制的に変異させる」という最も危険な部分だけを抽出し、悪意を持って兵器へと歪められたものだ。
問題は、その悪意に満ちた兵器の構造が、リゼット自身の魔導具作りのアプローチと、根本的な部分で酷似しているという事実だった。
(私とお母様は、同じ血を引いている。同じ思考回路で、魔法を構築している)
恐ろしい想像が、リゼットの心を黒く塗り潰していく。
私が今まで作ってきた魔導具は、本当に人々を救うためのものだったのだろうか。
私が騎士団に与えた『威力百倍』や『絶対貫通』の付与魔法。あれも一歩間違えれば、味方すら惨殺する殺戮兵器になり得る。
私は、自分の才能で人を幸せにしているつもりになっていたけれど……本当は、私の才能の源流は、人を狂わせ、世界を滅ぼす『呪い』なのではないか?
「いやっ……嫌だ……」
息が詰まる。
かつてオズワルド家で植え付けられた「自分は無能な道具だ」というトラウマとは違う。
「自分の存在そのものが、世界を破滅させる呪われた道具かもしれない」という、より深く、より恐ろしい絶望。
自分が生み出すものが恐ろしい。自分の頭の中に次々と浮かぶ魔導具のアイデアが、すべて悪魔の囁きのように思えてくる。
リゼットは作業台から後退りし、アトリエの壁際にうずくまって、頭を抱えた。
「私……私は……魔物と同じ……」
ガタガタと震える唇から、嗚咽が漏れる。
これでは、大好きな旦那様の隣にいる資格なんてない。私の作った魔導具が、いつか彼を、あの温かい領民たちを傷つけてしまうかもしれないのだから。
――キィ、と。
アトリエの重厚な扉が、静かに開いた。
「リゼット。まだ起きているのか」
入ってきたのは、薄手のガウンを羽織ったクラウスだった。
彼の手には、銀のトレイに乗せられた温かいミルクと、小さな蜂蜜の壺が握られている。リゼットが夜更かしをしていると察し、夜食を持ってきてくれたのだ。
だが、壁際で震えながらうずくまるリゼットの姿と、作業台の上に散乱した呪具の部品を見た瞬間、クラウスの足がピタリと止まった。
「……リゼット」
クラウスはトレイを近くのテーブルにそっと置くと、音を立てずにリゼットの傍へと歩み寄った。
リゼットは顔を上げることもできず、ただ怯えたように身を縮こまらせた。
「だ、旦那様……こないで……」
「……」
「私に、近づかないでください……っ。私は、恐ろしいものを……自分の才能が、怖いんです……!」
泣き叫ぶようなリゼットの拒絶。
普通の男なら、何があったのかと問い詰めたり、無理やり抱き起こして慰めようとしたりするだろう。
しかし、クラウスは何も聞かなかった。
彼はリゼットから一歩分だけ距離を置いた床に静かに片膝をつき、自身が羽織っていた厚手のガウンを脱ぐと、震えるリゼットの小さな背中へ、そっと、包み込むように掛けた。
「冷えるぞ」
ただ一言、それだけだった。
問い詰めることも、無理に真実を聞き出すこともせず。
彼はただ、リゼットの恐怖を否定しないまま、その冷え切った体を温めることだけを選んだのだ。
「言いたくないなら、言わなくていい」
クラウスの声は、夜の静寂に溶け込むように低く、そして穏やかだった。
「だが、話したくなった時は、いつでも聞く。俺は逃げも隠れもしない。……ずっと、お前の傍にいる」
リゼットは、ハッとして顔を上げた。
クラウスの黄金の瞳は、底なしの湖のように静かで、深い愛情を湛えてリゼットを見つめ返していた。
そして。リゼットの耳の翻訳魔導具からは、いつものような騒がしい叫び声は一切聞こえてこなかった。
代わりに流れ込んできたのは、静謐な祈りのような、重く、温かい心の声。
『(お前が今、何を恐れ、どんな闇を覗き込んでしまったのか。不器用な俺には、まだ分からない。……だが、俺は待つ)』
その声は、リゼットの心の最も柔らかい部分に、真っ直ぐに染み渡っていく。
『(お前が自ら心を開き、その重荷を分け合ってくれる、その時まで。お前の抱える闇がどれほど深く、どれほど恐ろしいものであろうとも。……俺がすべて、受け止めてみせる。お前は一人じゃない)』
限界オタクの騒々しさを完全に封印した、一人の男としての、真摯で揺るぎない愛の誓い。
急かすことなく、ただ隣で寄り添い続けるという「見守る静寂」が、そこにあった。
「……旦那様……ぁ……っ」
リゼットは、背中に掛けられたガウンをぎゅっと握りしめ、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
恐怖が消えたわけではない。呪われた才能への疑念は、依然としてリゼットの心を黒く浸食している。
けれど、この暗闇の中で、彼のこの静かな愛情だけが、リゼットを繋ぎ止める唯一の光だった。
リゼットはガウンに顔を埋め、声を出さずに泣き続けた。
クラウスはただ無言のまま、リゼットの震えが少しでも和らぐようにと、その背中を大きくて温かい手で、夜が明けるまで優しく撫で続けていた。
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