EP 2
氷の辺境伯様と、ダダ漏れの心の声
王都を出発して数日。
馬車の窓から見える景色は、緑豊かな平原から一転して、険しい岩肌と雪化粧をまとった針葉樹林へと変わっていた。
大陸の最北端に位置する、クラウス・フォン・レグナルド辺境伯の領地。
魔物の出没率が極めて高く、気候も厳しいこの地は、王都の貴族たちから「左遷先」「生きた墓場」と揶揄されている。
しかし、馬車に揺られるリゼットの顔に悲壮感は微塵もなかった。
「空気が澄んでいて気持ちいいわね! 魔物の素材もいっぱい採れそうだし、最高の立地じゃないの」
オズワルド男爵家の狭くてカビ臭い屋根裏部屋に比べれば、この凍てつく空気すら自由の匂いに感じられた。
やがて、馬車は堅牢な城壁に囲まれた巨大な居城の前に到着した。重厚な門が開き、リゼットが御者に促されて馬車を降りたその時だった。
「――男爵家からの『荷物』というのは、お前か」
地を這うような、恐ろしいほどの低い声が響いた。
リゼットが顔を上げると、そこには黒銀の重甲冑を纏った大柄な男が立っていた。
漆黒の髪に、獲物を射抜くような鋭い黄金の瞳。
整った顔立ちは彫刻のように美しいが、その表情には一片の感情も読み取れず、まさに「氷」と呼ぶにふさわしい冷徹さを漂わせている。
さらに恐ろしいことに、彼の纏うマントや甲冑には、たった今討伐してきたばかりなのか、ドス黒い魔物の返り血がべったりとこびりついていた。
彼こそが、泣く子も黙る帝国最強の竜騎士団長――「氷の辺境伯」クラウス・フォン・レグナルドその人である。
周囲の騎士や使用人たちが、息を呑んで主の顔色を窺う中、クラウスはリゼットを冷たい瞳で見下ろした。
「ミリアナではなく、無能と名高い姉を身代わりによこすとはな。王都の貴族どもの腐りきった考えなど手に取るようにわかる」
「……」
「いいか。俺はお前を妻として扱う気など毛頭ない。愛だの情だのといった甘い幻想は捨てろ」
凄まじい威圧感と共に放たれたその言葉は、並の令嬢であればその場で泣き崩れて気絶してもおかしくないほど冷酷だった。
「適当な客間にでも押し込んでおけ。俺の視界に入らぬよう、この城の奥で息を潜めて生きるがいい。領内の法を犯さぬ限り、好きにしろ」
クラウスはそれだけを言い捨てると、マントを翻して城の奥へと消えていった。
残された騎士たちが、「可哀想に……」と同情の視線をリゼットに向ける。
だが、リゼットは足元を見つめたまま、両手を胸の前でギュッと握りしめ、小刻みに震えていた。
悲しみに暮れているのではない。
(えっ!? ちょっと待って!)
(妻としての義務、一切なし!? 顔を合わせなくてもいい!? しかも衣食住は保証されて、『好きにしろ』って……それってつまり、完全無欠の『自由業』ってことじゃないの!?)
リゼットは歓喜のあまり、危うくその場でガッツポーズを決めそうになるのを必死に堪えていた。
「なんというホワイト待遇! 辺境伯様、太っ腹すぎるわ!」
心の中でスタンディングオベーションを送りながら、リゼットは案内されるままにホクホク顔で客間へと向かった。
案内された「適当な客間」は、リゼットから見れば王族のスイートルームのような豪華さだった。
パチパチと燃える暖かい暖炉、ふかふかの天蓋付きベッド、そして何より、誰も自分を怒鳴りつけに来ない静寂な空間。
「最高……。本当に最高すぎるわ……」
ベッドにダイブしてその柔らかさを堪能したあと、リゼットはさっそくボストンバッグから商売道具を取り出した。
いくら自由とはいえ、最低限の自衛は必要だ。王都からの刺客が来るかもしれないし、この城の誰かが敵意を向けてくる可能性だってある。
「そうだわ。いざという時のために、防犯用の魔導具を作っておこう」
リゼットは、実家から唯一持ち出していた古いガラス玉のイヤリングを机に置いた。
そして、指先に魔力を集中させ、いつものように『概念付与』の術式を展開する。
「対象の思念波を拾い上げて可視化……いや、音声変換したほうが早いか。『殺意』や『悪意』などの強い感情に反応して、それを私の耳にだけ届ける概念を定着……っと」
淡い光がイヤリングを包み込み、術式が完全に定着する。
リゼットがそれを耳につけると、微かな魔力の脈動が感じられた。これで、周囲にいる人間の隠された「本音(心の声)」を拾うことができる翻訳魔導具の完成だ。
「よし、これで完璧! ちょっと夕食前に、城の中を散策してみようかな」
意気揚々と部屋を出て、大理石の廊下を歩いていたその時だった。
「……お前か」
角を曲がったところで、リゼットは先ほどの辺境伯、クラウスとばったり鉢合わせてしまった。
彼はすっかり血の汚れを洗い流し、清潔な軍服姿に着替えていたが、その顔は相変わらず氷のように冷え切っており、眉間には深い皺が刻まれている。
(ひっ……相変わらず恐ろしいオーラ……!)
リゼットが一歩後ずさった、その瞬間。
耳につけた翻訳魔導具が、ピピッと微かな反応を示した。
『ああああああああああああああ!!! 尊い!! 尊すぎるッ!!!』
「……えっ?」
リゼットは思わず周囲を見回した。
しかし、廊下にはクラウスとリゼットの二人しかいない。クラウスの口は一ミリも動いておらず、表情は絶対零度のままだ。
だが、リゼットの脳内には、限界を迎えたような成人男性の絶叫がハッキリと響き続けていた。
『俺の命を救ってくれた奇跡の認識票! その術式を組み上げた真の天才魔導具師様が、まさか我が家に降臨されるとは! 触れるのすら恐れ多い! 直視するだけで目が潰れる! ああ、俺なんかが同じ空気を吸っていて申し訳ない!!』
「え……? ええ……?」
リゼットは完全にフリーズした。
今、この氷の辺境伯は、私のことを「天才魔導具師様」と呼んだ?
しかも、命を救った認識票って……私が昔、前線の騎士向けに無給で山ほど作らされていた、あの安物の量産品のこと?
目の前のクラウスは、腕を組んで冷たい視線をリゼットに投げかけている。
「廊下をうろつくのは構わんが……北部の夜は冷える。風邪を引く前に、早く部屋へ戻れ」
冷徹で、突き放すような低い声。
だが、イヤリングから聞こえてくる心の声は、まったく違っていた。
『(ああああああ俺の馬鹿野郎! またそんな冷たい言い方をして! もっと優しい声の掛け方があっただろうが! 嫌われた! 絶対に怯えられた! リゼット様、どうか風邪を引かないでください、俺の命に代えてもあなたを温めたい!! ぬくぬくの毛布で包みたい!!)』
(……情報量が、情報量が多すぎる!)
リゼットは顔を引き攣らせたまま、ただ口をパクパクさせることしかできない。
クラウスはリゼットのその態度を「恐怖による硬直」と勘違いしたらしい。彼はスッと目を伏せると、
「……邪魔をしたな」
とだけ言い残し、足早に廊下を去っていった。
その後ろ姿から放たれる心の声は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
『(すまないリゼット様! 俺みたいな血生臭い野蛮人が傍にいたら不快ですよね! でも俺は、あなたに恩返しをするためだけに生きてきたんです! あなたが王都で搾取されていたと知った時、王城ごと焼き尽くそうかと思ったほどです! ああ、どうかこの城で、あなたの好きなように、自由に生きてください!!)』
バタン、と遠くの扉が閉まる音がして、ようやく廊下に静寂が戻った。
「…………」
リゼットは、ぽつんと一人立ち尽くしていた。
頭の中で、今起きた出来事を必死に整理する。
血も涙もない殺戮マシーン。
氷の辺境伯。
恐ろしい冷血漢。
――そんな噂は、すべて大嘘だった。
彼はただ、致命的なほどに不器用で、顔面筋の使い方が絶望的に下手なだけで。
その内面は、リゼットの作った魔導具と彼女自身を神のように崇拝する、激重な『限界オタク』だったのだ。
「……どうしよう」
リゼットは、じわじわと顔が熱くなるのを感じながら、両手で頬を覆った。
「辺境伯様、めちゃくちゃ私のこと大好きじゃない……!」
すれ違いによる恐怖など、たった一日で粉砕された。
自分を評価し、不器用ながらも命懸けで守ろうとしてくれている人がいる。
その事実は、これまで誰からも名前を呼ばれず、搾取されるだけだったリゼットの心に、温かい火を灯すには十分すぎる出来事だった。
読んでいただきありがとうございます。
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