第一章 辺境スローライフ生活
無能な令嬢は、身代わりとして辺境へ送られる
薄暗い屋根裏部屋に、カチン、カチンという硬質な音が響いていた。
埃の舞う冷たい空気の中、リゼット・オズワルドは手元の細工用ゴーグルを押し上げ、小さく息を吐いた。彼女の目の前にあるのは、王宮騎士団から特別に依頼されたという一振りの長剣だ。
「よし、これで魔力回路の再構築は完了。最後に……『絶対非破壊』と『自動浄化』の概念を定着」
リゼットが指先から淡い光を放ち、剣の柄に触れると、鈍色だった刃が澄み切った清流のような輝きを放ち始めた。
彼女が持つ魔法は、派手な攻撃魔法でも、見た目が華やかな治癒魔法でもない。物体に対して任意の事象を上書きする『概念付与』と、どれほど壊れたものでも元の設計図ごと直してしまう『完全修復』という、極めて地味で裏方気質の能力だった。
「ふふっ。これなら、どんなに乱暴に扱っても刃毀れ一つしないし、魔物の血脂も勝手に落ちるわ。前線の騎士様たちの生存率も、きっと上がるはず……」
徹夜明けの充血した目をこすりながら、リゼットは満足げに微笑んだ。
その時だった。
バンッ! と、油を差されていない屋根裏部屋のドアが乱暴に蹴り開けられた。
入ってきたのは、最高級のシルクのドレスを身に纏い、香水の匂いをツンと漂わせた義妹のミリアナと、恰幅の良いオズワルド男爵――リゼットの実の父親だ。
「あーあ、またこんなカビ臭い部屋でガラクタいじり? ほんっと、お姉様って薄汚いわね」
ミリアナは鼻をつまみながらリゼットを見下すと、机の上に置かれていた完成したばかりの長剣を無造作にひったくった。
「ちょうどいいわ。王太子殿下から依頼されていたこの剣、私が『聖女の祈りを込めて鍛え上げた』ってことで、王城へ届けておくわね。殿下ったら、私の聖光魔法が吹き込まれた剣だと思い込んで、また私に夢中になっちゃうわぁ」
コロコロと嫌悪感すら抱かせないほど無邪気に笑う義妹を見て、リゼットは静かに目を伏せた。
これが、この男爵家での日常だ。
幼い頃に実母を亡くし、後妻としてやってきた継母とミリアナに家を乗っ取られて以来、リゼットの扱いは使用人以下だった。彼女が身を粉にして生み出す国宝級の魔導具や武具は、すべて「奇跡の聖女ミリアナの作品」として世に発表され、男爵家とミリアナの地位を押し上げるための道具として搾取され続けていた。
リゼットに与えられるのは、1日1食の冷えたスープと、この隙間風の吹く屋根裏部屋だけ。
「ミリアナの言う通りだ。派手な魔法一つ使えない無能なお前が、我がオズワルド家に置いてもらえているだけでも感謝すべきだろう」
父親はリゼットの煤けた作業着を虫ケラでも見るような目で睨みつけると、残酷な宣告を口にした。
「リゼット。お前は本日をもってこの家を出ていくことになった」
「……え?」
「お前を嫁に出すことが決まったのだ。相手は北部の極寒地帯を治める、『氷の辺境伯』クラウス・フォン・レグナルド閣下だ」
その名を聞いた瞬間、リゼットの目がわずかに見開かれた。
氷の辺境伯。帝国最強の竜騎士団を束ねる武将であり、同時に「魔物より恐ろしい冷血漢」「血も涙もない殺戮マシーン」として、社交界の令嬢たちが震え上がるほどの悪名高い人物だ。
「本当なら、先日の戦勝祝いとして辺境伯様から直々に『オズワルド家の令嬢を迎え入れたい』と指名があったのだけれどねぇ」
ミリアナがクスクスと笑いながら剣の柄を撫でた。
「でも、次期王妃になるこの私が、あんな血生臭い野蛮人のところへ嫁ぐわけにいかないじゃない? だから、お姉様が私の『身代わり』として北の果てへ行ってちょうだい。ま、あの恐ろしい辺境伯のことだから、無能な女だとバレたら一ヶ月もしないうちに魔物の餌にされるでしょうけどね!」
二人は嘲笑を浮かべ、リゼットが絶望して泣き喚き、足元に縋り付いてくるのを待っていた。
「どうか見捨てないでください」と、無様に命乞いをする姿を。
――しかし。
リゼットの脳内では、まったく別の計算式が恐ろしいスピードで弾き出されていた。
(……え? ちょっと待って?)
リゼットは瞬きを繰り返した。
(氷の辺境伯様のお屋敷に行くってことは……つまり、もうこの屋根裏部屋で、毎日二十時間ぶっ通しで魔導具を作らなくてもいいってこと?)
(ミリアナのドレス代のために、私の特許をタダで売り飛ばされることもない?)
(辺境伯領って、噂ではすごく豊かで、使用人にも1日3食、温かいご飯とお肉が出るって聞いたことがあるわ。しかも、極寒地帯ってことは、私の大好きな引きこもりモノづくりライフが誰にも邪魔されない……?)
リゼットの心の中で、パァァァッ! と眩しいほどの希望の光が弾けた。
何が悲しくて泣き喚く必要があるだろうか。これは追放でも生贄でもない。
最高条件のホワイト企業への転職(物理)である。
「……お父様。ミリアナ」
リゼットがスッと立ち上がると、二人は「ほら、泣き落としが来るぞ」とニヤニヤ顔を向けた。
しかし、リゼットの顔に浮かんでいたのは、これまで彼らが一度も見たことがないほど晴れやかで、生き生きとした極上の満面の笑みだった。
「身代わりのお話、謹んでお受けいたしますわ。辺境の地で野垂れ死のうと魔物に食われようと、私の自己責任。今後一切、オズワルド家にはご迷惑をおかけしないと誓います」
「は……? お、お前、自分が何を言われているか分かっているのか?」
「ええ、もちろん! 今までお世話になりました!」
リゼットは手際よく、ベッドの下に隠していた小さなボストンバッグを引きずり出した。中に入っているのは、着替えなどではなく、長年愛用してきた魔導具作りのための数本の彫刻刀と錬成術式用のルーペだけだ。身支度はたったの十秒で終わった。
「あ、そうだわ。お父様」
部屋を出ていこうとしたリゼットは、ふと思い出したように足を止め、作業机の引き出しから分厚い書類の束を取り出し、ぽかんとしている父親の胸にドンッと押し付けた。
「な、なんだこれは?」
「請求書です」
リゼットは小首を傾げて、にっこりと微笑んだ。
「過去五年間、私が制作した魔導具百二十点の設計図および概念付与の不正利用による特許侵害料。並びに、1日二十時間労働を強要したことに対する未払い賃金と深夜割増手当の合算です。利子も含めて、ざっと金貨五千枚といったところでしょうか」
「なっ……ふざけるな! 親に向かって何を……!」
「あ、ちなみにこの書類の写しは、すでに帝都の『ゴルドスマイル銀行』と商業ギルドの法務部へ提出済みですので。踏み倒そうとすれば、男爵家の口座は明日にも凍結されますわ。お支払いは、辺境伯領の私の新しい住所宛てにお願いいたしますね」
「き、貴様ぁぁっ!!」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす父親と、「どういうことよ!」と金切り声を上げる義妹を完全に無視し、リゼットは軽やかな足取りで屋根裏部屋を後にした。
屋敷の前に停まっていたのは、罪人を送るような飾り気のない質素な馬車だった。
だが、リゼットにとっては、それが黄金の馬車よりも輝いて見えた。
「さようなら、私のブラックな過去! こんにちは、自由で素敵な辺境ライフ!」
馬車に乗り込み、ガタゴトと動き出した窓の外を見つめながら、リゼットは胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。
これから向かう北の果て。
そこで待っている「恐ろしい氷の辺境伯」が、実は自分の作る魔導具の熱狂的な大ファンであり、尋常ではない規模の激重な愛情を抱えて彼女の到着を待ちわびていることなど、この時のリゼットは知る由もなかった。
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