EP 2
冷徹なる交渉と、氷の辺境伯の真骨頂
辺境伯邸の最も格式高い『白亜の応接間』。
そこには、ピンと張り詰めた、針を落とせば聞こえるほどの冷たく重い静寂が漂っていた。
「――お初にお目にかかります、辺境伯閣下。ファルサス帝国特使、ルキウス・ヴァン・ファルサスと申します」
ソファに優雅に腰掛けているのは、銀色の長髪を後ろで束ね、狐のように細めた目を持つ細身の男だった。
仕立ての良い白銀の礼服を着こなす彼の口元には、完璧なまでに洗練された、しかしどこか人を嘲るような冷たい笑みが張り付いている。
対面に座るクラウスは、腕を組み、彫刻のように無表情なままルキウスを見据えていた。
「単刀直入に伺おう。貴国の目的はなんだ」
「おや、ご挨拶がずいぶんと素っ気ない。ですが、交渉において時間を無駄にしないのは良いことです」
ルキウスは気取った仕草で紅茶のカップを置くと、スッと目を細めた。
「先日、閣下の領地を覆う結界が新調されましたね。我が国の魔導士たちが観測したところ、その術式の緻密さ、効率性、そして環境維持能力……どれをとっても大陸の歴史を覆すレベルの『神業』でした。そして、それを構築したのが、オズワルド男爵家から嫁いだ令嬢……リゼット様であることも」
クラウスの黄金の瞳に、鋭い殺気が宿った。
だが、ルキウスは恐れる様子もなく、むしろそれを楽しむかのように言葉を続ける。
「我がファルサス帝国は、リゼット様の稀代の才能を高く評価しております。そこで、彼女を我が国の『首席魔導具開発局長』として国賓待遇で迎え入れたい。もちろん、閣下には莫大な慰謝料と、移籍金として十分な対価をお支払いする用意があります」
「……断る。リゼットは俺の妻だ。金で売り買いする道具ではない」
「おや、即答ですか。それは困りましたね」
ルキウスはわざとらしくため息をつき、懐から一枚の羊皮紙を取り出してテーブルに滑らせた。
「では、少し条件を変えましょうか。現在、閣下の領地で冬を越すために使われている暖房魔導具。その動力源となる『赤焔石』の実に八割を、我がファルサス帝国からの輸入に依存していることはご存知ですね?」
その言葉に、クラウスの背後に控えていた副団長がビクッと肩を震わせた。
「もし、リゼット様をお譲りいただけないというのであれば……誠に遺憾ながら、来月から我が国は、赤焔石の輸出枠を『ゼロ』に引き下げる法的措置を取らざるを得ません」
「なっ……! それは不当な経済制裁だ!」
副団長が思わず声を荒らげた。
赤焔石がなければ、領民たちは極寒の冬を越せない。結界で吹雪を防げても、家を温める絶対的な熱量が足りなくなるのだ。最悪の場合、領内で多数の凍死者が出る。
ルキウスは、領民の命を人質に取ってリゼットを要求してきたのである。
応接間の隣にある控室。
少し開いた扉の隙間から、その交渉の一部始終を聞いていたリゼットは、血の気が引くのを感じた。
(私のせいで……領民の皆さんが、凍え死んでしまう……?)
ギュッと両手を握りしめ、唇を噛む。
私がファルサス帝国に行けば、この領地は救われる。でも、そんなことをしたら、またあの「道具」として搾取される地獄の日々に逆戻りだ。何より、クラウスと離れ離れになることなど、耐えられるはずがない。
(どうしよう……旦那様に、迷惑をかけたくないのに……っ)
リゼットの体が微かに震え始めた、その時だった。
耳につけた『翻訳魔導具』から、クラウスの氷のように冷たく、けれど煮えたぎるような激しい怒りの声が流れ込んできた。
『(……俺の妻を盾にするだけでなく、俺の領民の命まで交渉の材料にするとはな。いい度胸だ、白キツネめ。今すぐその首を刎ねてやりたいが……お前のような小賢しい輩には、一番絶望する「合法的な反撃」を与えてやるのが、為政者としての俺の仕事だ)』
クラウスは、ルキウスの脅迫を前にしても、眉一つ動かさなかった。
彼は深く息を吐き出すと、氷のように冷たく、研ぎ澄まされた刃のような声で口を開いた。
「……なるほど。赤焔石の輸出を停止する、か」
「ええ。領民の命がかかっているのです。賢明なる辺境伯閣下であれば、一人の女の才能と、数万の領民の命、どちらが重いかなど――」
「構わん。好きにしろ」
あっさりと放たれたその言葉に、ルキウスの狐のような笑みが、ピタリと固まった。
「……は?」
「貴国が赤焔石の輸出を止めるというなら、止めればいい。ただし、我が辺境領地も『自国の領民の安全を最優先とするための防衛再編』を行わざるを得なくなるがな」
クラウスはテーブルの上で両手を組み、黄金の瞳でルキウスを真っ直ぐに射抜いた。
「現在、我が竜騎士団は、大陸北部の極寒地帯に『北の砦』を築き、北から押し寄せる魔物の大群を最前線で食い止めている。……だが、赤焔石が不足し、騎士たちが寒さで凍えるような事態になれば、我々はその砦を放棄し、防衛ラインを南へ数十キロ下げるしかない」
その瞬間、ルキウスの顔から完全に血の気が引いた。
「な……っ!? 防衛ラインを下げるだと!? そんなことをすれば、魔物の大群の進路は東へ――我がファルサス帝国の豊かな穀倉地帯へ向かうことになるではないか!」
「そうだ。貴国は魔力鉱石の産出には恵まれているが、軍事的な防衛力は我々辺境軍という『防波堤』にタダ乗りして甘い汁を吸ってきたはずだ。……その防波堤がなくなれば、貴国の北部は一ヶ月も持たずに魔物の海に沈むだろうな」
「ふ、ふざけるな! そのような暴挙、国際的な批判を免れないぞ!」
ルキウスが立ち上がり、声を荒らげる。
先ほどまでの優雅で余裕に満ちた特使の面影は、もはやどこにもなかった。
「暴挙? なんのことだ。俺はただ、貴国の不当な輸出停止措置によって自軍の維持が困難になったため、やむを得ず部隊を撤退させるだけだ。すべては自国の領民を守るための、極めて合法的な防衛戦略の変更に過ぎない」
クラウスは冷酷に、そして完璧な論理でルキウスの退路を塞いだ。
「貴国が赤焔石を止めるなら、我々も魔物を止めるのをやめる。……さあ、選べ。一人の魔導具師を手に入れるために、自国の穀倉地帯と数百万の民を魔物の餌にしたいのであれば、今すぐ本国に輸出停止のサインを送るがいい」
完全なるチェックメイト。
ただの「武力バカ」だと思っていた氷の辺境伯が、これほどまでに冷徹で隙のない地政学的カードを切ってくるとは、ルキウスは夢にも思っていなかったのだ。
「ぐっ……くそっ……!」
ルキウスはギリッと奥歯を噛み締め、屈辱に震える手でテーブルの上の羊皮紙を乱暴に回収した。
「……本日は、これで失礼する。だが、これで終わったと思うなよ、辺境伯。後悔することになるぞ」
「後悔するのは貴様らの方だ。二度と俺の妻に近付くな」
冷たく言い放つクラウスに背を向け、ルキウスは顔を真っ赤にして応接間から逃げるように出て行った。
バタン、と重厚な扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
沈黙が降りた応接間で、クラウスは深く、長いため息を吐き出した。
控室の扉がそっと開き、リゼットが顔を出す。
「……旦那様」
「リゼット」
クラウスは立ち上がると、足早にリゼットのもとへ歩み寄り、彼女の小さな体を力強く抱きしめた。
「すまなかった。あんな男の妄言を聞かせてしまって。怖かっただろう」
「いいえ……怖くありませんでした。旦那様が、私を守ってくださると信じていましたから」
リゼットが彼の広い背中に腕を回すと、クラウスの腕の力がさらに強まる。
『(あああああ俺の妻が健気すぎる!! 本心では不安だったはずなのに気丈に振る舞っておられる!! やはりあいつ、今夜のうちに暗殺しておくべきか!? いやダメだ、俺が冷静でいなければリゼット様を本当の意味で守れない!!)』
相変わらず物騒な本音が混じる心の声を聞いて、リゼットはクスッと笑い声を漏らした。
彼はただ剣を振るうだけの騎士ではない。領民の命とリゼットの尊厳を、知略と外交の力で完璧に守り抜いてくれる、最高に頼もしい領主様なのだ。
「でも、旦那様……ファルサス帝国がこのまま引き下がるとは思えません。もし本当に、赤焔石の輸出が止められてしまったら……」
「安心しろ。あのような輩に脅され続けるのは、俺の性に合わん。すでに代わりの手は打ってある」
クラウスはリゼットの肩を抱いたまま、自信に満ちた瞳で微笑んだ。
「隣国に頼らずとも、この領地には手つかずの魔力鉱石が眠る未踏ダンジョンがある。『水晶鳴きの洞窟』だ。明日、俺自らそこへ赴き、領民が冬を越すのに十分な鉱石を掘り出してくる」
「『水晶鳴きの洞窟』……」
リゼットはその名前に聞き覚えがあった。魔力濃度が高すぎ、生半可な騎士では立ち入ることすらできないという危険地帯だ。
「私も行きます、旦那様!」
リゼットは顔を上げ、きっぱりと宣言した。
「私を箱入りの妻にしないでください。私も、旦那様と一緒にこの領地を守りたいんです。私の付与魔法があれば、絶対に旦那様の力になれます!」
その言葉に、クラウスは一瞬目を丸くし――やがて、堪えきれないように愛おしげな笑みをこぼした。
『(ああ、この方はどこまでも気高く美しい。俺がすべてを奪って隠すのではなく、彼女が自由に羽ばたくための大空にならなければ)』
静かで、深みのある温かい心の声。
限界オタクの絶叫ではなく、一人の男としての真摯な敬意と愛情。
「……わかった。だが、絶対に俺から離れるな。お前の命は、俺の命よりも重いのだからな」
「はいっ!」
外交交渉という最初の危機を、最強の夫婦は完璧な連携と信頼で乗り越えた。
だが、狡猾な特使ルキウスが残した「後悔するぞ」という言葉は、ただの負け惜しみではなかった。
未踏ダンジョンへの探索と、他国が仕掛ける陰湿な罠。
リゼットとクラウスの前に、新たな試練が静かに口を開けて待っていた。
読んでいただきありがとうございます。
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