第二章『他国からの略奪者と、夫婦の真の結びつき』
幸福な朝と、消えない呪い
分厚い遮光カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
最高級の羽毛布団に包まれたリゼットは、心地よい温もりに微かに身をよじり、ゆっくりと重い瞼を押し上げた。
「……んっ……」
視界がクリアになると、真っ先に飛び込んできたのは、ベッドの傍らの椅子に腰掛け、静かに本を読んでいた長身の男の姿だった。
漆黒の髪に、彫刻のように整った横顔。すでに隙のない黒銀の軍服を身に纏った彼は、帝国最強と謳われる『氷の辺境伯』――そして、リゼットが永遠の愛を誓ったばかりの愛しき夫、クラウス・フォン・レグナルドである。
リゼットが身じろぎした気配を察知したのか、クラウスはスッと本を閉じ、黄金の瞳を彼女に向けた。
その表情は、相変わらず絶対零度を思わせるほど冷たく、引き締まっている。
「……起きたか、リゼット。体調はどうだ。どこか痛むところはないか?」
低く、事務的とも取れるほど淡々とした声。
しかし、リゼットの耳に光る古いガラス玉のイヤリング――『翻訳魔導具』からは、彼の表情とは裏腹な、鼓膜を破らんばかりの大音響が流れ込んできた。
『(あああああああ!! おはようございます俺の女神!! 朝日に透ける髪が美しすぎる! 寝起きのトロンとした瞳が可愛すぎて心臓が痛い!! 俺の妻が世界一可愛い!! 今すぐ抱きしめたいが、昨夜お疲れだったリゼット様の体を痛めつけるわけにはいかない! 俺の腕力は凶器だ、自重しろ俺!!)』
昨夜の甘い記憶がフラッシュバックし、リゼットはボッ! と顔から火が出るほど赤面した。
布団を鼻先まで引き上げながら、もごもごと口ごもる。
「だ、大丈夫です……っ。とても、よく眠れましたから」
「そうか。無理はするな。お前は少し、頑張りすぎるきらいがあるからな」
クラウスは短く応じると、ベッドサイドのテーブルに用意してあった温かい白湯の入ったグラスを、そっとリゼットに差し出した。
彼の大きな手が、リゼットの指先に触れる。氷の辺境伯と呼ばれる彼の手は、驚くほど熱く、そして優しい。
『(ああっ、指先が触れた!! 柔らかい! 尊い!! 白湯の温度は適切だったか!? 熱すぎないか!? 万が一リゼット様が火傷でもしたら、俺はこの手首を切り落として詫びるしかない!!)』
「ふふっ……丁度いい温かさです。ありがとうございます、旦那様」
リゼットがグラスを受け取りながら柔らかく微笑むと、クラウスはビクッと肩を震わせ、耳の先をほんのりと赤く染めてそっぽを向いた。
魔物の大侵攻を夫婦の力で退け、正式に結ばれてから数日。
これが、リゼットの新しい、そして世界で一番幸せな日常だった。
王都の薄暗い屋根裏部屋で、誰にも名前を呼ばれず、過労で倒れるまで魔導具を作らされていた日々が、まるで遠い前世の出来事のように思える。
「さあ、着替えて食堂へ行こう。今朝は冷え込む。温かいスープを用意させてある」
クラウスの不器用なエスコートを受け、リゼットは晴れやかな気持ちでベッドを降りた。
***
暖炉の火がパチパチと爆ぜる、広々としたダイニングルーム。
リゼットの席には、ふかふかの焼きたてパンに、具沢山の温かいクリームスープ、そして色鮮やかな新鮮なフルーツが並べられていた。
「美味しい……!」
「食え。お前はまだ細すぎる。もっと肉をつけなければ、北の冬は越せないぞ」
相変わらず口調は厳しいが、クラウスは自分の食事もそこそこに、リゼットの皿に次々と切り分けた肉や果物を乗せてくれる。
翻訳魔導具からは『(いっぱい食べて健康になってくれえええ! 俺の財力と領地の食材はすべてお前のためにある!!)』という親鳥のような叫びが聞こえており、リゼットはくすくすと笑いながら食事を進めていた。
その温かく穏やかな空気が破られたのは、食後の紅茶が運ばれてきた時だった。
「閣下、奥様。朝食中に出過ぎた真似を申し訳ありません」
応接間の扉が開き、血相を変えた副団長が足早に歩み寄ってきた。
その手には、禍々しいほど豪奢な紫色の封蝋が押された、一通の書状が握られている。
「何事だ」
「はっ。隣国、ファルサス帝国の特使が国境を越え、当領地へ向かっているとの急報が。そして、先触れとしてこの親書が届きました」
クラウスの黄金の瞳が、スッと剣呑に細められた。
ファルサス帝国。国境を接する強大な軍事国家であり、豊富な資源を持つがゆえに、常に周辺諸国に対して強硬な外交姿勢を取ることで知られている。
クラウスがペーパーナイフで封を切り、素早く書状に目を通す。
次の瞬間、執務室内の空気が物理的に凍りつくような、凄まじい冷気がクラウスの全身から放たれた。
「……旦那様?」
リゼットが不安げに声をかけると、クラウスはギリッと奥歯を噛み締め、書状を乱暴にテーブルへ放り投げた。
「……ファルサス帝国の特使、ルキウスからの要求だ。奴らは、俺の領地を覆う『絶対防衛結界』が、お前の手によるものだとすでに嗅ぎつけていたらしい」
クラウスの低い声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「内容はこうだ。『天才魔導具師リゼット嬢を、国賓として我がファルサス帝国へ迎え入れたい。つきましては、莫大な金貨と、北の冬を越すために必須となる魔力鉱石の輸出枠の拡大をもって、彼女の“移籍金”としたい』……だと」
その言葉を聞いた瞬間。
リゼットの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
『天才魔導具師を迎え入れたい』
『莫大な金貨と引き換えに』
『移籍金として』
――ガシャンッ。
リゼットの手からティーカップが滑り落ち、ソーサーとぶつかって甲高い音を立てた。
熱い紅茶がテーブルクロスに染みを広げていくが、リゼットはそれに気づくことすらできなかった。
(莫大な金で……買われる?)
息が、詰まった。
温かかったダイニングルームの景色が、急速に色を失っていく。
代わりに脳裏にフラッシュバックしたのは、冷たくて、埃っぽくて、陽の光すら差し込まない、あのオズワルド男爵邸の屋根裏部屋の光景だった。
『お前は我が家の道具だ。文句を言わず魔導具を作っていればいい』
『お姉様はただの作業員でしょ? お姉様が作ったものは、全部私の手柄になるのよ』
『辺境伯への身代わりの品として、ちょうどいいだろう』
(私は……道具……)
いくら国宝級の魔導具を作っても、誰もリゼットの名前を呼んではくれなかった。
価値があるのは「リゼットの手が生み出すモノ」だけであり、リゼット自身の心や人格など、誰も必要としていなかった。
ようやくその地獄から抜け出し、クラウスという自分自身を愛してくれる人に出会い、人間としての居場所を見つけたというのに。
他国から見れば、自分はやはり、金で売買される「便利な道具」でしかないのか。
もし、ファルサス帝国が提示する金と魔力鉱石が、この辺境領地にとって喉から手が出るほど必要なものだとしたら。
領民の命を天秤にかけられた時、果たして自分は、ここにいていい人間なのだろうか。
「いや……っ」
ヒュー、ヒューと、リゼットの喉から浅く短い呼吸音が漏れた。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、指先が氷のように冷たくなっていく。過呼吸の症状だった。
体がガタガタと震え、立ち上がろうとした足がもつれて、リゼットはその場に崩れ落ちそうになった。
「リゼット!!」
弾かれたように椅子を蹴り倒し、クラウスが飛びついてきた。
床に倒れ込む寸前、強靭な腕がリゼットの華奢な体をしっかりと抱きとめる。
「リゼット、息を吸え! 大丈夫だ、俺はここにいる!」
クラウスはリゼットを抱え上げると、自らの大きな手で彼女の背中を力強く、けれど優しく擦った。
彼の分厚い胸板に頬を押し付けられる形になり、リゼットの耳に、彼の規則正しく力強い心音が聞こえてくる。
「だ、旦那様……わたし、わたしは……道具じゃ……」
恐怖に震え、焦点の定まらない瞳で涙をこぼすリゼット。
そのトラウマの根深さを悟ったクラウスの顔が、怒りと悲痛に歪んだ。
――そして、リゼットの耳の『翻訳魔導具』から、クラウスの心の声が流れ込んできた。
それは、いつものようなギャグめいた限界オタクの絶叫ではなかった。
地獄の底で静かに燃え滾る業火のような、重く、深く、絶対に揺らぐことのない鋼鉄の誓い。
『(…………許さない)』
静かな心の声が、リゼットの脳内に響く。
『(俺の妻を。こんなにも優しくて、誰かのために身を削ってきた気高い人を。再び恐怖のどん底に突き落とし、「道具」として値踏みしたファルサス帝国の愚か者どもを。俺は絶対に許さない)』
クラウスは、リゼットの震える背中を抱きしめる腕に、さらにギュッと力を込めた。
『(俺の命に代えても。世界中を敵に回し、この手がどれほど血に汚れようとも。俺が、お前を守り抜く。二度と、誰にもお前を「道具」などと呼ばせはしない。お前は俺の愛する妻であり、かけがえのない一人の人間だ)』
その心の声に嘘は一片もなかった。
打算も、迷いもない。ただ純粋な、リゼットという一人の女性への狂おしいほどの愛情と、彼女を守るという絶対の覚悟だけが、そこにあった。
「……旦那様……っ」
冷え切っていたリゼットの体に、クラウスの体温が、彼の愛の重さが、ゆっくりと染み渡っていく。
屋根裏部屋の暗い幻影が、光に照らされて霧散していくのを感じた。
そうだ。私はもう、一人じゃない。
私を価値ある「道具」としてではなく、ただの「リゼット」として愛し、抱きしめてくれる人が、こんなにも近くにいるのだから。
「ひっぐ……、ぁ……」
リゼットはクラウスの軍服の胸元をぎゅっと掴み、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
クラウスは何も言わず、ただひたすらに、彼女が落ち着くまでその背中を撫で続けていた。
やがて、リゼットの震えが収まったのを確認すると、クラウスはテーブルの上に放り投げられたファルサス帝国からの親書を、氷のような瞳で冷酷に睨み据えた。
「副団長」
「はっ!」
「ファルサス帝国の特使を迎え入れろ。……奴らに、この『氷の辺境伯』の領土に土足で踏み入った代償がどれほど高くつくか、身をもって教えてやる」
愛する妻のトラウマを呼び起こした略奪者たちへ。
最強の騎士による、一切の慈悲なき知略と武力の反撃が、今、静かに幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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