EP 15
世界一豊かな辺境と、新たな物語の始まり
魔物の大侵攻を完全無傷で退けてから、数週間後。
辺境伯邸の執務室で、クラウスは王都からの報告書に冷ややかな視線を落としていた。
「……なるほど。王都の防衛結界が消失した隙を突き、魔物の一部が市街地へ侵入したか。人的被害こそ出なかったようだが、王城の半壊を含め、経済的な損失は計り知れんな」
報告書を読み上げるクラウスの向かいのソファで、リゼットは温かい紅茶を口に運びながら「そうですか」と短く相槌を打った。
彼女の顔に、王都を案じるような悲壮感はない。ただのニュースを聞いているかのような、平坦な反応だった。
「防衛結界のメンテナンスを怠った宮廷魔導士たちの責任はもちろんですが……『聖女』を騙っていた義妹と、それを後盾にしていた王太子殿下の責任問題は免れないでしょうね」
「ああ。アルバート王太子は、虚偽の報告で国を危機に晒した罪を問われ、廃嫡のうえ辺境の修道院へ幽閉されることが決定した。ミリアナとかいう義妹も、聖女の偽装が明るみに出て平民へ降格だ」
クラウスは淡々と事実を告げた後、もう一枚の書類を机に置いた。
「さらに、オズワルド男爵家だが。ゴルドスマイル銀行からの期限付き一括返済に応じられず、屋敷も領地もすべて差し押さえられた。今頃は借金取りに追われ、路地裏で泥水を啜っている頃だろう」
彼らは自らの無能と強欲によって、すべてを失ったのだ。
リゼットから奪った手柄で身を飾り、彼女を無能と嘲笑って辺境へ放り出した結果がこれである。まさに完璧な自業自得、因果応報の結末だった。
「……少しは、胸が痛むか?」
クラウスが気遣うように尋ねると、リゼットはふんわりと微笑んで首を横に振った。
「いいえ、まったく。私にとって、あの家で過ごした時間はただのブラックな労働環境でしたから。未払い賃金が回収できただけでも御の字ですわ」
未練など、塵一つ残っていない。
リゼットの清々しいほどの笑顔を見て、クラウスはホッと息を吐き出した。
『(ああよかった!! もしリゼット様が少しでも同情して涙を流されたら、俺はあのゴミ共を慰めにいくふりをして物理的に消し炭にしてくるところだった!! 過去のしがらみから完全に解放された俺の妻、今日も最高に凛々しくて美しい!!)』
相変わらずの激重な心の声が、耳の翻訳魔導具を通じてダダ漏れになってくる。
リゼットはクスッと笑いをこぼし、ティーカップをことりと置いた。
「それよりも旦那様。私、新しい魔導具のアイデアを思いついたんです。領民の方々が、冬場でも温かいお湯をすぐに使える『自動給湯魔導具』なんてどうでしょうか?」
「……お湯、だと? それを各家庭に配備すると?」
「はい! 結界のおかげで吹雪は防げていますが、やはり北の冷え込みは厳しいですから。薪を割る手間も省けますし、生活がもっと豊かになるはずです」
目を輝かせて語るリゼットの姿は、王都で虐げられていた「無能な令嬢」とはまるで別人だ。彼女は今、自分の才能を愛する人々のために惜しみなく振る舞い、水を得た魚のように生き生きとしている。
実際、リゼットが再構築した『絶対防衛結界』と、気候を調整する『自動環境維持』の恩恵により、辺境領地は現在、爆発的な発展を遂げていた。
魔物の脅威が去り、真冬でも農作物が育つようになったことで、他領から移住を希望する者が後を絶たない。今やこの辺境は、崩壊した王都を遥かに凌ぐ、帝国一豊かで活気のある一大都市へと急成長しつつあるのだ。
クラウスは、そんな彼女の眩しい笑顔を見つめながら、静かに立ち上がった。
「リゼット。……少し、いいか」
彼はリゼットの座るソファの前に歩み寄ると、おもむろにその場に片膝をついた。
まるで、主君に忠誠を誓う騎士のような恭しい姿勢。
「だ、旦那様?」
驚くリゼットの前で、クラウスは懐から小さなビロードの箱を取り出した。
パカッ、と開かれた箱の中には、純度の高い魔石――リゼットの瞳と同じ、美しい翠緑の宝石があしらわれた銀の指輪が輝いていた。
「俺は……初対面の時、お前を『身代わりの妻』と呼び、愛だの情だのといった甘い幻想は捨てろと冷たく言い放った」
クラウスの黄金の瞳が、真っ直ぐにリゼットを見上げる。
その顔は、いつもの氷のような無表情ではなく、隠しきれない緊張で微かに強張っていた。
「あれは嘘だ。俺はお前が作った魔導具に命を救われたあの日から、ずっとお前を探し、お前に焦がれていた。……お前がこの辺境にやって来て、俺の冷え切った領地と心を温めてくれたこと、どれほど感謝しているか分からない」
『(ああああ手が震える!! 指輪なんて買ったの初めてだからサイズが合っているか不安で死にそうだ!! もし受け取ってもらえなかったら俺は一生独身を貫いて雪山で熊と暮らす!! 頼む、俺の愛を受け取ってくれリゼット様!!)』
必死すぎる心の声が、彼の真摯な言葉に重なって脳内に響く。
リゼットは、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「俺の傍にいてほしい。身代わりの妻としてではなく、俺の生涯ただ一人の、愛する伴侶として」
クラウスは、リゼットの左手をそっと取り、その薬指に翠緑の指輪をゆっくりとはめた。
サイズは、まるで測ったようにぴったりだった。
「……もう一度、プロポーズさせてくれ。俺と、正式に結婚してくれないか。リゼット」
真っ赤になりながらも、決して目を逸らさずに紡がれた、不器用で真っ直ぐな言葉。
リゼットの瞳から、ポロリと嬉し涙がこぼれ落ちた。
「……はいっ。私でよければ、喜んで」
リゼットが泣き笑いの顔で頷いた瞬間、クラウスの顔にパァァァッ!と花が咲いたような歓喜の色が広がった。
『(うおおおおおおおおおおっっっ!!!! 受け取ってくださった!! 俺の女神が俺の妻に!! 正真正銘、俺だけのものに!! 世界よありがとう! 神よありがとう!! 俺は今世で使い切れないほどの幸せを手に入れたぞ!!)』
限界オタクの心の声が鼓膜を破らんばかりに響き渡る中、クラウスは立ち上がり、リゼットを力強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「ありがとう、リゼット。絶対に、世界で一番幸せにする」
「ふふっ……私も、旦那様を世界で一番の幸せ者にしますからね」
二人は、互いの温もりを確かめ合うように、静かに、そして甘い口づけを交わした。
これまでの理不尽な過去も、すれ違いも、すべてがこの幸せのための準備期間だったのだと、心から思える瞬間だった。
***
――しかし。
彼らの平和で甘い新婚生活は、そうやすやすとは落ち着かせてはもらえないらしい。
「か、閣下ーッ!! 失礼いたします!!」
バンッ! と勢いよく執務室の扉が開き、副団長が大量の書簡を抱えて飛び込んできた。
「空気を読め馬鹿者!!」
慌てて体を離したクラウスが、顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
だが、副団長はそれどころではないとばかりに机に書簡の山を叩きつけた。
「すみません、ですが緊急事態です! 奥様が辺境の結界を張り直したという噂が、すでに近隣諸国にまで知れ渡ってしまったようで……! 『我が国でも国賓としてリゼット様を迎え入れたい』『技術提供を乞う』という他国からの親書が、山のように届いております!」
「なんだと!?」
「ええっ、他国から!?」
リゼットが目を丸くする中、副団長はさらに声を潜めた。
「それに……王都の崩壊について、妙な噂が流れています。王城の空調と結界の魔導具は、確かにメンテナンス切れでしたが……何者かが意図的に術式の劣化を早め、魔物の大群をけしかけた『黒幕』がいるのではないかと……!」
その言葉に、執務室の空気がピリッと引き締まった。
王都を混乱に陥れ、辺境を巻き込もうとした謎の影。
そして、天才魔導具師として世界中から狙われ始めたリゼット。
「……ふん」
だが、クラウスは不敵に笑い、リゼットの肩をグッと抱き寄せた。
「他国がどれだけ財宝を積もうが、俺の妻はどこにもやらん。リゼットの才能も、この笑顔も、すべて俺とこの辺境のものだ」
「旦那様……」
クラウスの黄金の瞳が、獲物を狙う竜のように鋭く光る。
「黒幕がいようが関係ない。俺たちの平穏を脅かす奴は、どこの国の王だろうと魔王だろうと、まとめて叩き斬るだけだ」
『(俺の女神に手出しする奴は全員まとめて物理的に消し炭にしてやるからなァァァッ!!)』
頼もしすぎる言葉と、相変わらず物騒すぎる心の声に、リゼットはクスクスと笑い声を漏らした。
彼と一緒なら、どんな困難が来ようと絶対に大丈夫だ。
「ええ。私も、私の魔導具で、旦那様とこの領地を全力でお守りします!」
無能と追放された令嬢は、最強の騎士という最高のパトロンを得て、辺境の地で大輪の花を咲かせた。
けれど、天才魔導具師リゼットと、彼女を溺愛してやまない限界オタクな氷の辺境伯の「領地チート開拓」と「イチャイチャ防衛戦」は、まだ始まったばかりなのだ。
――新たな波乱の予感を孕みつつも、二人のアトリエには、今日も幸せな笑い声と、激甘な心の声が響き渡っているのだった。
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