EP 12
秘密の告白と、真っ赤な旦那様
王太子たちを乗せた馬車が辺境伯邸から逃げるように去り、応接間には静寂が戻った。
絨毯には、クラウスの闘気によって粉々に砕け散った近衛騎士たちの剣の破片が散乱しているが、それ以外は元の落ち着いた空間だ。
「……終わったな」
クラウスは深く息を吐き出すと、リゼットの肩からそっと手を離した。
彼が再びリゼットに向き直った時、その顔にはいつもの「絶対零度」の無表情ではなく、どこか気まずげで、バツの悪そうな色が浮かんでいた。
「リゼット。……すまなかった」
ぽつりと、低くかすれた声でクラウスが謝罪を口にする。
「王室の連中を追い払うためとはいえ……お前の意思も確認せず、勝手に『正妻』などと名乗ってしまった。俺のような血生臭い男が、お前を縛り付けるような真似をして、本当に申し訳ない」
彼は深く頭を下げた。
表向きは、「事態を収拾するための嘘をついてしまった」ことに対する真面目な謝罪だ。
しかし。リゼットの耳に装着された『翻訳魔導具』からは、彼の真実の叫びがガンガンと鳴り響いていた。
『(あああああ嘘だ!! 本当は嘘じゃない!! 心の底から俺の唯一の妻になってほしいと思っている!! だが俺みたいな不器用な朴念仁が、あんなに優しくて美しい天才魔導具師様を妻にするなどおこがましいにも程がある!! リゼット様には自由に、ご自身の望むままに生きていただきたいのだ……! 俺はただのパトロン、ただのファンでいい……!!)』
リゼットは、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
どこまでも不器用で、どこまでもリゼットの人生を最優先に考えてくれる人。
自分の欲望よりも、リゼットの自由を尊重しようとしてくれる、優しすぎる人。
(もう、限界だわ)
これ以上、彼に隠し事をしたまま、この心地よい居場所に胡座をかいているわけにはいかない。
彼の深い愛情と誠実さに、私も、私の本当の言葉で応えなければ。
「……謝らないでください、旦那様」
リゼットは、深く頭を下げるクラウスへ一歩近づき、彼の手を両手でそっと包み込んだ。
「勝手に妻と言われたこと、私は……少しも嫌じゃありませんでした。むしろ、嬉しかったです」
「なっ……!?」
クラウスがガバッと顔を上げた。
その黄金の瞳が驚きに見開かれ、魔導具からは『(うおおおおおっ!? 今なんと!? 嬉しいと仰った!? 俺の耳がおかしくなったのか!?)』というパニック気味の歓喜が漏れ聞こえてくる。
「旦那様。私、この辺境に来てからずっと、旦那様に隠していたことがあるんです」
「隠していたこと……?」
「はい」
リゼットは深呼吸を一つすると、自分の右耳でキラキラと光る、古いガラス玉のイヤリングに指を触れた。
「旦那様は、このお屋敷に来た初日……私を適当な客間に案内したあと、『俺はお前を妻として扱う気はない。愛だの情だのといった甘い幻想は捨てろ』と仰いましたよね」
「っ……! あ、あぁ。それは……」
クラウスの顔色が悪くなる。
彼にとっては「どう接していいか分からず、怯えさせてしまった痛恨の失敗」として記憶されているはずだ。
「その時、私はこのイヤリングを『翻訳魔導具』に改造したんです」
「翻訳……魔導具?」
「はい。対象の強い思念波……つまり、『心の声』を音声に変換して、私の耳にだけ届ける魔導具です」
ピタッ、と。
クラウスの動きが完全に停止した。
まるで彫像のように固まった彼の前で、リゼットは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「初日の夜、廊下で旦那様とすれ違った時から、ずっと聞こえていたんですよ。
『ああああああ尊い! 俺の命の恩人にして天才作者様が我が家に!』って」
「――――ッ!!?」
クラウスの目が見開かれたまま、これ以上ないほど見開かれた。
口がパクパクと金魚のように開閉するが、声が出てこない。
「騎士の皆様に私がお礼を言われた時は、『俺の妻を泣かせたのは誰だ!』と言いながら、心の中では『俺の女神の美しい瞳から涙を流させた奴は微塵切りにしてやる!』って叫んでましたよね」
「あ、あ、あ……っ」
「街の視察で手を繋いでいただいた時は、『あああ一生この手を握っていたい! 俺の懐に大事にしまっておきたい!』って……」
「ぁぁぁあああああああああああああああああああっっ!!!!」
ついに、クラウスの口から、この世の終わりを見たかのような悲鳴が漏れた。
彼は顔を真っ赤――いや、首の根元から耳の先まで、まるで煮えたぎったマグマのように赤く染め上げ、その場にガクンッ! と膝をついた。
「お、俺の……あの気持ち悪い、心の声が……すべて……初日から……?」
「はい。全部、筒抜けでした」
クラウスは両手で顔を覆い、応接間の絨毯にうずくまってしまった。
完璧なまでに冷徹で、帝国最強と恐れられた『氷の辺境伯』の威厳は、今この瞬間、完全に音を立てて崩壊し、跡形もなくメルトダウンした。
『(死にたい!! 穴があったら入りたい!! 俺はなんて恥ずかしい妄想をリゼット様に聞かれ続けていたんだ!? 切腹だ!! いや、雪山の火口に飛び込んで物理的に消滅したい!! 王都のゴミ共より俺の方が社会的に終わっている!!)』
魔導具からは、かつてないほどの最大音量で、クラウスの羞恥と絶望の叫びがこだましている。
絨毯の上で丸まり、小刻みに震える最強の竜騎士団長の姿は、どこからどう見ても、やらかしに気づいて絶望する大型犬そのものだった。
「ふふっ、あはははっ!」
そのあまりのギャップに、リゼットはたまらず声を上げて笑い出してしまった。
「笑い事ではない……っ! 頼む、リゼット、今すぐ俺の記憶もろとも、この世から消し去ってくれ……!」
顔を両手で覆ったまま、クラウスが消え入りそうな声で懇願する。
リゼットは笑いを収めると、うずくまる彼の前に静かに膝を下ろした。
そして、顔を覆っている彼の手首をそっと掴み、ゆっくりと引き剥がした。
「……気持ち悪くなんか、ありません」
リゼットの真剣な声に、クラウスが恐る恐る黄金の瞳を上げる。
その瞳は、泣き出しそうなほど揺れていた。
「この魔導具がなかったら、私はきっと、旦那様のことを『恐ろしい氷の辺境伯』だと思い込んだまま、ずっと部屋の隅で怯えていたと思います。
でも……この魔導具のおかげで、知ることができたんです。あなたがどれだけ私のことを大切に想ってくれているか。どれだけ優しくて、不器用で、愛おしい人なのかを」
リゼットは、クラウスの大きな両手を、自分の小さな手でしっかりと包み込んだ。
「王都では、誰も私の本当の姿を見てくれませんでした。でも、あなたは、私の仕事を見て、私自身を見つけてくれた。私に最高の居場所をくれて、私のために怒ってくれた」
真っ直ぐに見つめ合う、二つの視線。
リゼットは、胸の奥から湧き上がる熱い感情を、一片の偽りもなく言葉に乗せた。
「あなたのその心の声があったから……私は、あなたを好きになりました」
応接間に、静寂が落ちた。
翻訳魔導具からは、もはや何の音も聞こえてこなかった。
クラウスの心の声が、極限の衝撃によって完全にフリーズしてしまったのだ。
彼は瞬きすら忘れ、ただ呆然とリゼットの顔を見つめていた。
やがて、その瞳の奥に、ゆっくりと……しかし確かな熱が宿っていく。
限界オタクとしての崇拝でもなく、ただの恩義でもない。
一人の男としての、深く、狂おしいほどの愛情。
クラウスは、リゼットに包まれていた自分の手をそっと返し、逆に彼女の小さな手を、壊さないように優しく、けれど絶対に逃がさない力強さで握り返した。
「……リゼット」
彼の口から紡がれたのは、いつもの冷たい声ではない。
低く、甘く、熱を帯びた、震えるような声だった。
「俺は、不器用で……気の利いた言葉一つ言えない、血生臭い男だ。お前を幸せにする方法も、魔物の狩り方しか知らない」
クラウスは膝をついたまま、リゼットの指先にそっと唇を落とした。
敬愛と、忠誠と、そして永遠の愛を誓う口づけ。
「だが、お前を想うこの心だけは、誰にも負けない。……俺の、本当の妻になってくれるか」
翻訳魔導具の力など、もう必要なかった。
彼が真っ直ぐに見つめるその瞳の熱さと、握られた手の温もりが、彼のすべてを物語っていたから。
リゼットの目から、ポロリと嬉し涙がこぼれ落ちる。
彼女は、満面の、世界で一番幸せな笑顔を咲かせて頷いた。
「はいっ。……喜んで、旦那様」
その瞬間、クラウスはもう我慢できないとばかりに、リゼットの華奢な体を力強く抱き寄せた。
「きゃっ」と小さな声を上げたリゼットの背中に腕が回され、彼の広くて温かい胸の中に完全にすっぽりと収まる。
「……ありがとう。愛している、リゼット。俺の命に変えても、お前を守り抜く」
耳元で囁かれる、深く甘い声。
リゼットも、彼の広い背中にそっと腕を回し、その温もりを心ゆくまで抱きしめ返した。
冷徹な氷の辺境伯と、不遇な天才魔導具師。
二人の間にあった分厚い氷の壁と、不器用なすれ違いは、ついに完全に溶け去った。
ここから始まるのは、正真正銘の夫婦として、共にこの豊かな辺境の地を育み、守り抜いていく二人だけの新しい物語だ。
しかし、彼らが完全な両思いの甘い余韻に浸っていられたのも、束の間のことだった。
二人の愛の誓いを祝福するように――いや、王都の崩壊を告げる破滅の足音として。
辺境の空の彼方から、未曾有の災厄が、静かに、そして確実に接近しつつあることを、この時の二人はまだ知る由もなかったのである。
読んでいただきありがとうございます。
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